作品タイトル不明
第95話 守りたい、その温もりだけ
俺は扉の向こうで、息を殺していた。
薄闇(うすやみ) の廊下に身を寄せ、冷たい石壁に背中を預けながら、木の扉に耳を押し当てている。
頬に伝わる木目のざらつきと、 微(かす) かに漂う 蝋燭(ろうそく) の甘い煙の匂いが、俺の心を妙に落ち着かせ、同時にざわつかせた。
今日という日は、特別だった。
朝から続いた重い空気が、夕暮れとともにようやく 緩(ゆる) み、父と兄が俺を連れてミユウの部屋から追い出された瞬間、何かが静かに動き始めたのだ。
部屋の中からは、女たちだけの柔らかな声が漏れてくる。
穏(おだ) やかで、少し低めの母の声。
妹の、 弾(はず) むような高い声。そして――ミユウの、鈴をそっと転がすような、けれどどこか 儚(はかな) い声。
その声を聞くだけで、胸の奥が焼けるように熱くなる。
守りたいという 想(おも) いが、熱となって 血潮(ちしお) を駆け巡り、指先まで 痺(しび) れ、喉の奥まで締め付ける。
俺は、ただ聞いていることしかできなかった。
それでも、聞かずにはいられなかった。聞いていたい。聞いていたくてたまらなかった。
部屋の中では、蝋燭の 灯(ひ) がゆらゆらと揺れ、壁に貼られた 薄絹(うすぎぬ) の掛け 布(かけぬの) が 淡(あわ) い 橙(だいだい) 色に染まっているはずだ。
窓の外では、夕陽が最後の光を投げかけ、庭の木々の葉がざわめき、遠くで夜鳥が一声、短く鳴いた。
その静けさの中に、母の声が落ちる。
「ミユウちゃん……龍夜の、どこが好きなの?」
問いかけは穏やかだった。
けれど、その奥に潜むものは、試すような、けれど切実な何かだった。
俺の体が、びくりと震える。
指先が扉の木目に食い込み、爪が白くなるほど強く握りしめた。心臓が、耳元で暴れ、扉を震わせているのではないかと思うほどだった。
沈黙が、部屋を包んだ。
風が窓の隙間から忍び込み、カーテンの裾をそっと持ち上げ、 床(ゆか) に影を落とす。
ミユウの小さな 息遣(いきづか) いが、扉越しに届く。
それは、まるで祈りを 捧(ささ) げる前の、深く長い吐息のようだった。
「……強くて、優しくて……いつも、わたしを、守ってくれて……」
言葉は小さく、けれど確かに響いた。
俺の喉が、ぎゅっと締まる。
目頭が熱くなり、視界が 滲(にじ) むのを必死で 堪(こら) えた。堪えきれなくて、唇を噛んだ。血の味がした。
「強いから、好きなの?」
母の声が、少しだけ鋭さを帯びた。
それは、ただの問いではなく、 娘(むすめ) としてではなく、一人の女として、ミユウの心の底を探るような問いだった。
俺は息を止めた。
心臓が、耳元で暴れ出す。鼓動が、扉を震わせているのではないかと思うほどだった。
「……違うの」
ミユウの声が、震えながらも、はっきりと続いた。
「強いだけじゃ、なくて……一緒にいると、安心するの。龍夜くんがそばにいてくれると、怖いものが全部遠くに行っちゃうみたいで……心が、ふわっと軽くなるの」
彼女の言葉は、ゆっくりと紡がれていく。
一言一言が、俺の胸に突き刺さり、温かく溶けていく。溶けて、痛くて、嬉しくて、苦しくて、愛しくて――どうしようもないほど胸が張り裂けそうだった。
「それに……あんな、ひどい 呪(のろ) いを受けちゃって……体が、時々熱くなって、痛くて、苦しくて……でも、龍夜くんは、決して弱音を 吐(は) かないで、わたしを怖がらせないように笑ってくれる。だから……わたしが、ずっとそばにいて、守ってあげたい。わたしが、龍夜くんを守りたいの」
その瞬間、俺の胸の奥で、何かが 弾(はじ) けた。
熱いものが、 溢(あふ) れそうになる。
涙が、こぼれ落ちる前に、俺は唇を強く 噛(か) んだ。血がにじんだ。
守りたいと思っていたのは、俺だけじゃなかった。
守られていたのは、俺の方だったのだ。
ミユウの小さな体が、俺の呪いを、俺の痛みを、どれほど背負ってきたのか。
その重さを、今、初めて実感した。
そして、その重さに耐えながらも、俺を 想(おも) い続けてくれていたことに、俺は――俺は、ただただ、震えた。
部屋の中が、一瞬、静まり返った。
風さえ止まったかのように、すべてが息を潜めた。
蝋燭の灯りが、ぱちりと小さく音を立てて揺れる。
「……種族を超えた、愛ね」
母の声が、震えていた。
それは、感動の震えだった。
涙を堪えるような、優しい、深い震え。
「龍夜はね、昔は弱くて、いつも部屋にこもって漫画ばかり読んでいた子だったのよ。外へ出るのも怖がって、誰かと目を合わせるのも苦手で……ただ、ただ現実から逃げたくて、 絵空事(えそらごと) に 浸(ひた) っていた。でも、ミユウちゃんに出会ってから、少しずつ変わっていった。あなたがそばにいてくれたから、龍夜は、初めて『守る』ということを学んだのね」
母の言葉に、妹が小さく鼻をすすった。
嗚咽(おえつ) を 堪(こら) えるような、幼い息遣いが聞こえる。
兄の低い、抑えた息遣いが、扉の向こうからかすかに伝わってくる。
父は、黙ったまま、きっと目を閉じ、静かに 頷(うなず) いているのだろう。
俺は、もう我慢できなかった。
我慢なんて、できなかった。
扉を押し開け、部屋に飛び込んだ。
「――俺だって!」
声が、思ったより大きく、 掠(かす) れて出てしまった。
四人の視線が、一斉に俺に向けられる。
ミユウの瞳が、驚きと、喜びと、涙で揺れている。
黄金の髪が、蝋燭の灯りに照らされて、まるで月光を 纏(まと) ったように輝いていた。
「俺だって、ミユウがいなかったら、ここまで強くなれなかった……!」
息を切らしながら、言葉を続けた。声が震えた。涙がこぼれた。
「昔の俺は、ただ弱い自分を隠して、漫画の中に逃げ込んでいただけだった。誰かを守るなんて考えもしなかったし、自分を守ることさえできなかった。怖くて、情けなくて、毎日が苦しかった。でもミユウが、俺を信じてくれた。ミユウが、俺のそばにいてくれたから……俺は、初めて、自分以外の誰かを守りたいって、本気で思えたんだ。呪いが体を焼くたび、痛みが骨まで響くたび、それでもミユウの顔を思い浮かべると……耐えられた。ミユウが笑ってくれるなら、どんな痛みだって、俺は受け入れられる。ミユウがいてくれるなら、俺は――俺は、生きていけるんだ……!」
声が途切れ、 嗚咽(おえつ) が漏れた。
俺は、恥ずかしくて、情けなくて、それでも止められなかった。
ミユウの目が、 潤(うる) んでいく。
頬を、涙の 筋(すじ) が伝う。
その涙が、俺の心を、もっと深く 抉(えぐ) った。
俺は一歩踏み出し、彼女の手を取った。
冷たくて、小さくて、けれど熱い手。
その温もりが、俺の 掌(てのひら) から腕へ、胸へ、全身に染み込んでいく。
震えが、止まらなかった。
「だから……もう、離さない。絶対に。絶対に、離さないから……」
ミユウが、こくりと 頷(うなず) く。
涙が、ぽたりと俺の手に落ちた。
その一滴が、俺の指の間を滑り、床に落ちる音が、なぜかやけに大きく響いた。
母が、静かに立ち上がった。
父と兄も、ゆっくりと部屋に入ってくる。
妹は、目を真っ赤にしながら、ミユウの隣にちょこんと座り直した。
「じゃあ……今日は、みんなで」
母が、穏やかに微笑んだ。
「最後の 番(ばん) さんを、しましょうか」
それは、俺たちの世界で、最も大切にされている儀式だった。
家族が、 絆(きずな) を確かめ合うための、静かな 宴(うたげ) 。
言葉よりも、ただそばにいること。
触れ合う温もりで、互いの存在を 刻(きざ) み込むこと。
部屋の中央に、大きな 円卓(えんたく) が運び込まれた。
古い木の卓は、長い年月を経て 艶(つや) を帯び、触れるとほのかに温かかった。
蝋燭の灯りが、ゆらゆらと揺れ、壁に長い影を落とす。
蜜のような甘い香りの 果実酒(かじつしゅ) が、透明な 杯(さかずき) に注がれていく。
酒の表面に、灯りが映り、まるで小さな星が浮かんでいるようだった。
俺はミユウの手を離さず、彼女の隣に座った。
向かいには父と母。
右に兄、左に妹。
誰も多くを語らない。
ただ、杯を重ね、目を合わせ、微笑む。
時折、杯が触れ合う小さな音。
酒を口に含む、静かな音。
そして、誰かの息遣いが、ほのかに聞こえる。
ミユウの指が、俺の指に絡まる。
その小さな力が、俺の胸を満たしていく。
彼女の体温が、布越しに伝わってくる。
柔らかくて、温かくて、けれどどこか 儚(はかな) い。
俺はその温もりを、決して手放したくなかった。
蝋燭の灯りが、ミユウの銀色の髪に映り、まるで 星屑(ほしくず) のようにきらめく。
彼女の瞳は、俺だけを見ていた。
俺も、彼女だけを見ていた。
時が、ゆっくりと流れる。
外では、夜風が木々を揺らし、 葉擦(はす) れの音が遠く響く。
庭の泉が、ぽつりぽつりと水音を立て、夜鳥が低く、切なく鳴いている。
でも、ここには、ただ温もりと、静かな幸福だけがある。
やがて、杯が空になり、蝋燭の灯りが一つ、また一つと消えていく。
最後の灯りが、細く揺らめきながら、消えかけたその瞬間――
俺は、ミユウの手を強く握った。
彼女も、俺の手を握り返す。
暗闇の中で、互いの鼓動だけが、確かに響き合っていた。
世界を救うつもりはなかった。
でも彼女だけは、守りたい。
この夜が永遠に続けばいいと、初めて本気で願った。
――ミユウの温もりが、俺の胸に、静かに、深く、永遠に刻まれていく。