軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第92話 疼く心臓、君の温もり

港の風は、しょっぱくて、どこか冷たくて、俺の頬をそっと撫でていく。

アストリアの海は、今日という日を優しく包み込むように、穏やかに波を寄せては返していた。

遠くの方で、船乗りたちの荒々しい声が響き合い、荷を積む木箱がぶつかる乾いた音が、時折風に乗って届いてくる。

けれど、この古びた桟橋の、いちばん端っこに腰を下ろしている俺とミユウの間には、そんな 喧騒(けんそう) はほとんど届かない。

まるで、世界がここだけを切り取って、そっと 静寂(せいじゃく) を置いていったみたいだった。

俺は膝を立て、両腕をその上に預けて、ぼんやりと水平線を見つめていた。

空と海が溶け合うような、淡い青。

雲はゆっくりと流れ、どこまでも遠くまで続いている。

そんな景色を眺めていると、胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなる気がした。

隣にいるミユウは、俺の制服のジャケットを、両腕で大切そうに抱きしめている。

あのグレーの布地は、もう随分と擦り切れて、ところどころ糸がほつれ、袖口は白く 色褪(あ) せていた。

血と泥と魔物の体液にまみれた記憶が、どれだけ洗っても薄く残る鉄の匂いとともに染みついている。

俺にとっては、ただの古着でしかない。

もう何度も「捨てろ」と言ったはずなのに、ミユウは決して手放さない。

「……そんな汚い物、さっさと捨てちまえよ」

俺はつい、ぶっきらぼうに吐き捨てた。

自分でも分かっている。

こういう言い方は、彼女を傷つけるかもしれないって。

でも、言葉は一度口から出ると、もう戻せない。

ミユウは、ゆっくりと首を横に振った。

その仕草は、まるで風に揺れる花のようで、俺の胸をちくりと刺す。

「ううん。これがいつも、わたしを守ってくれた、大切なものなの」

彼女の声は、柔らかくて、どこか遠くを 想(おも) うような響きを帯びていた。

ミユウはジャケットの襟元にそっと頬を寄せ、目を細める。

まるで、そこに俺の体温がまだ残っているかのように。

まるで、俺がまだそこにいるかのように。

「龍夜くんが、わたしを 庇(かば) ってくれたときの匂いも、温もりも……全部、ここに残ってる気がするの。だから、捨てられない」

その言葉が、俺の心の奥底に、静かに沈んでいく。

守ってくれた、なんて。

俺はただ、反射的に体を動かしただけだ。

お前が傷つくのが、怖かっただけだ。

それなのに、こんなにも大切にされてしまうと―――

胸の奥が、じんわりと熱くなって、息が詰まる。

「……バカか、お前」

小さく呟くと、ミユウはくすりと笑った。

その笑顔があまりにも 無垢(むく) で、純粋で、俺は目を 逸(そ) らしたくなる。

こんな俺なんかに、そんな顔を向けられると、 罪悪感(ざいあくかん) と、愛おしさとが、同時に胸を締めつけてくる。

静かな時間が、ゆっくりと流れる。

波の音と、ミユウの細い呼吸だけが、俺の耳に届く。

ふと、左胸の奥が、ずきりと 疼(うず) いた。

―――ドクン。

重い鼓動。

まるで、別の生き物が、俺の 肋骨(ろっこつ) の隙間に住み着いているみたいに。

魔王が最後に残していった、呪いの心臓。

あいつの黒い血が、俺の血管を 這(は) うように流れている感覚。

疼きは一瞬で広がり、視界の端が赤く 滲(にじ) む。

額に冷や汗が滲み、息が浅くなる。

指先が震えだしたのを、俺は必死で握り 潰(つぶ) した。

「……っ」

小さく 呻(うめ) いた瞬間、ミユウの気配が動いた。

「龍夜くん……?」

彼女の声が、すぐ近くで響く。

次の瞬間、柔らかな手が俺の頬を包み、そっと引き寄せられた。

「わたしには、隠しごとしないで」

その言葉は、静かだけど、強い。

まるで、俺の心の奥まで見透かしているような、優しい 刃(やいば) 。

俺の頭が、ミユウの胸元に抱き寄せられる。

薄い布越しに伝わる、彼女の体温。

心臓の音が、どくどくと響いてくる。

甘い花のような、ミユウの匂い。

柔らかくて、温かくて、どこまでも優しい感触。

俺は、抵抗する気力も失くして、そのまま身を預けた。

「……お前の胸、気持ちいいな」

自分でも驚くほど素直な言葉が、ぽろりとこぼれた。

恥ずかしくて、顔を上げられない。

でもミユウは、怒るどころか、もっと強く俺を抱きしめてくれた。

「よかった……。龍夜くんが、そう言ってくれると、安心する」

彼女の指が、俺の髪をゆっくり 梳(す) く。

まるで小さな子供をあやすような、優しい動き。

その指先が触れるたびに、胸の疼きが、ほんの少しだけ遠ざかる気がした。

「薬、作ってみたの」

ミユウが 囁(ささや) く。

小さなガラス瓶を、俺の目の前に差し出してくる。

中には、ほんのわずかに青みを帯びた液体が揺れている。

光が当たると、微かにきらめいて、まるで海の 欠片(かけら) を閉じ込めたみたいだ。

「アストリアの海水を薄めて、わたしの 癒(いや) しの力をほんの少しだけ、混ぜてみたの。痛みを 和(やわ) らげてくれる……と思う」

俺は瓶を見つめた。

透明な液体の中で、確かに、ミユウの力が宿っている。

彼女が、俺のために、夜通し考え、試し、作り上げたもの。

その事実が、胸の奥を熱くする。

「……ありがとな」

受け取ろうと手を伸ばした瞬間、俺はふと、意地悪な衝動に 駆(か) られた。

「でもさ、飲むの面倒くせぇな」

ミユウがきょとんとする。

「え……?」

俺は、わざと口の端を 吊(つ) り上げて笑った。

「じゃ、口移しで飲ませてくれよ」

一瞬、ミユウの瞳が大きく見開かれる。

耳まで真っ赤になって、ぽかんと俺を見上げる。

「りゅ、龍夜くん……?」

「冗談だよ」

そう言いつつ、俺は彼女の顎をそっと指で持ち上げた。

驚いたまま固まっているミユウの唇に、ゆっくりと自分の唇を重ねる。

柔らかい。

甘い。

少しだけ震えている。

キスは、深くはなかった。

ただ、触れるだけの、優しいもの。

でもそれだけで、胸の奥の疼きが、一瞬だけ遠ざかる気がした。

呪いの鼓動が、ほんの少しだけ静かになる。

ミユウの温もりが、俺の中の闇を、そっと押し 退(の) けてくれる。

唇を離すと、ミユウはまだ目を閉じたまま、ぼうっとしていた。

長い 睫毛(まつげ) が、かすかに震えている。

「……龍夜くん、ずるい」

小さな声で、彼女は呟いた。

「ずるいって、何が」

「そんなこと言って……急にキスするんだもん。心臓が、どきどきして……止まらない」

俺はくすりと笑って、彼女の額に軽く唇を押し当てた。

「悪いな。俺も、止まんねぇよ」

ミユウは恥ずかしそうに顔を隠し、俺の胸に額を押しつけてくる。

そのまま、しばらく動かなかった。

港の喧騒は、ずっと遠くで響いている。

船の汽笛も、市場の呼び声も、波の音さえも、まるで別の世界のものみたいだ。

ここには、俺とミユウしかいない。

俺はそっと、彼女の背中に腕を回した。

細い体が、俺の腕の中にすっぽりと収まる。

この温もりが、俺の呪いを、ほんの少しだけ溶かしてくれる気がした。

俺は、ずっと前から思っていた。

世界を救うなんて、大それたことは考えたこともない。

英雄になりたいとも、思ったことはない。

ただ、目の前で泣いている少女を、放っておけなかった。

ただ、ミユウが傷つく姿を見たくなかった。

それだけだ。

なのに、今、こうして彼女を抱きしめていると――― この小さな命を守るためなら、どんな 代償(だいしょう) を払ってもいいと思ってしまう。

呪いの心臓がどれだけ俺を 蝕(むしば) もうと。

どれだけ黒い血が体を巡ろうと。

それでも、ミユウの笑顔が見られるなら。

俺は、彼女の髪に顔を埋めた。

花のような甘い香りと、海風の塩気とが混じり合って、俺の肺を満たす。

ミユウの小さな鼓動が、俺の胸に響く。

同じリズムで、寄せては返す波の音。

まるで、世界が俺たち二人に合わせて呼吸しているみたいだった。

「龍夜くん……」

ミユウが、ぽつりと呟く。

「ん?」

「わたし、ずっと、龍夜くんのそばにいたい」

その言葉が、俺の心を強く揺さぶる。

胸の奥が、熱くなって、痛いくらいに締めつけられる。

「……俺だって、そう思ってる」

声が、少し震えた。

自分でも驚くほど、素直な言葉だった。

ミユウは、俺の胸に顔を押しつけたまま、くすくすと笑った。

「ほんと?」

「ああ。ほんとだ」

俺は、彼女の髪をそっと撫でた。

細い肩が、わずかに震えている。

それは、喜びの震えなのか、不安の震えなのか。

どちらでもいい。

俺が、ここにいる。

それだけで、彼女の震えを、受け止めてやりたい。

静かな時間が、ゆっくりと流れていく。

波が寄せては返す。

風が、俺たちの髪を優しく揺らす。

遠くの喧騒は、もうほとんど聞こえない。

俺は目を閉じた。

ミユウの温もりを感じながら、ただ、息をしていた。

この瞬間だけは、呪いも、魔王の 残滓(ざんし) も、全部遠くに感じる。

ただ、彼女がいる。

それだけで、俺は確かに、生きていると思えた。

ミユウの小さな手が、俺の背中に回される。

ぎゅっと、力を込めて抱きしめてくる。

その力が、俺の心に染み込んでいく。

「龍夜くん……大好き」

囁くような声。

でも、はっきりと、俺の耳に届いた。

俺は、彼女の耳元で、静かに答えた。

「……俺もだ」

言葉は短かった。

でも、そこに込めた想いは、誰にも負けないくらい、重かった。

港の風が、また一つ、俺たちを優しく撫でていく。

波の音が、寄せては返す。

俺たちは、ただ互いの体温を感じながら、そこにいた。

この時間が、永遠に続けばいいと、初めて本気で思った。