作品タイトル不明
第91話 ただの男の、永遠の誓い
俺とミユウは、長い旅の果てにようやくアストリアの神殿へと 辿(たど) り着いた。
空は 薄桃色(うすももいろ) に染まり、西方の山脈が黒いシルエットとなって沈みゆく 刻(とき) 。
神殿を囲む 聖樹(せいじゅ) の葉が、風にそよぐたびに銀色のきらめきを散らし、まるで無数の小さな星が降り注いでいるかのようだった。
足元の白大理石の参道は、長い年月を経て磨かれ、俺たちの靴音を柔らかく飲み込んでしまう。
その静けさの中に、突然、巨大な扉が重々しく開かれる音が響いた。
次の瞬間――
「 救世主(きゅうせいしゅ) 様! お帰りなさいませ!」
「やはり、あなた様こそが我らの 救世主(きゅうせいしゅ) であらせられたのです!」
司教(しきょう) を先頭に、 白銀(はくぎん) のローブをまとった 神官(しんかん) たちが 雪崩(なだれ) のごとく駆け寄ってきた。
感極まった者たちはその場に膝をつき、 額(ひたい) を石畳に擦りつけるようにして祈りを捧げている。
若い 見習(みなら) い 神官(しんかん) は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、両手を天に掲げて叫び続けた。
「 神(かみ) の 御許(みもと) に 還(かえ) られた! 我らの希望が、帰ってこられた!」
神殿全体が、まるで巨大な生き物のように震え、うねり、 歓喜(かんき) の波が天井の高いドームまで反響していく。
柱に刻まれた古の 聖刻(せいこく) が、淡い光を放ち始め、壁画の 英雄(えいゆう) たちが今にも動き出しそうな錯覚を覚えた。
俺はただ、呆然と立ち尽くしていた。
そんな俺の横で、ミユウの小さな体がぴくりと動いた。
「……ルゥ……!」
声が震えていた。
参道の向こうから、静かに、しかし確かな足取りで歩み寄ってくる人物がいた。
大天使長ルゥ。
28歳ほどの落ち着いた男性の姿を借りた、翼を持つ神聖なる存在。
銀灰色の長い髪を背に流し、深い青の瞳は穏やかさと威厳を併せ持ち、純白のローブの下に透ける六枚の翼は、 微(かす) かに光を 湛(たた) えていた。
その立ち姿は、まるで古の聖画から抜け出してきたかのように 静謐(せいひつ) で、近づくだけで周囲の空気が清浄に変わるようだった。
ミユウが思わず駆け寄り、
「ルゥ……!」
ルゥは柔らかく微笑み、片膝をついてミユウの目線に合わせた。
大きな手が、優しくミユウの頭を 撫(な) でる。
「ミユウ……よく無事で帰ってきてくれた」
その声は低く、穏やかで、どこか懐かしい響きを帯びていた。
ミユウはルゥの胸に飛び込み、幼い頃と同じように抱きついた。
ルゥもまた、両腕を回してミユウをそっと抱き返す。
銀灰色の髪とミユウの銀髪が触れ合い、二人は静かに、しかし深く、再会の喜びを分かち合っていた。
「ずっと……祈っていたよ。君が無事に 還(かえ) ってくることを」
「ごめんね、ルゥ……待たせちゃって……」
「謝ることはない。君が笑顔でここにいる。それだけで十分だ」
そのやり取りは、まるで時間が止まったかのように穏やかで、温かかった。
俺は少し離れた場所から、その光景を黙って見つめていた。
胸の奥が、ちりちりと焼けるように疼く。
ルゥを憎んでいるわけじゃない。
彼がミユウにとって、幼い頃からずっと守り、見守り続けてきた存在であることは、よくわかっている。
大天使長として神殿の秩序を 司(つかさど) りながら、ミユウの成長を影から支えてきた男だ。
なのに――
ミユウがあんなに安心しきった表情で、誰かの胸に顔を埋めているのを見ると、得体の知れない苛立ちがこみ上げてくる。
俺の知らないミユウの過去。
俺の知らないミユウの涙。
俺の知らない、長い長い時間を、ルゥは当たり前のように共有してきた。
その落ち着いた微笑みと、優しく包み込むような腕が、俺にはどうしても 眩(まぶ) しく、遠く感じられた。
ミユウがふと俺の方を振り返り、頬を 紅潮(こうちょう) させながら、にこっと笑った。
「龍夜くん、見て! ルゥだよ!」
「ああ……わかってるよ」
俺はぶっきらぼうに答えて、視線を逸らした。
喉の奥に、何か硬い塊が詰まっているような気がした。
ルゥがゆっくり立ち上がり、俺の方へ歩み寄ってきた。
深い青の瞳が、静かに俺を捉える。
「龍夜……ミユウをここまで守り抜いてくれたこと、心から感謝している」
その言葉は穏やかで、嘘偽りがない。
俺は少しだけ肩の力を抜いて、短く答えた。
「……当然のことだ」
ルゥは小さく頷き、それ以上は何も言わなかった。
ただ、ミユウの頭をもう一度優しく撫でてから、司教の方へ視線を移した。
司教が感極まった声で近づいてくる。
白髪を後ろで束ねた老人の瞳は、涙で濡れ、光っていた。
「 救世主(きゅうせいしゅ) 様、どうかこの神殿に……我らの祈りを……」
「待て待て待て」
俺は片手を上げて、その言葉を遮った。
静寂が落ちる。
俺は深く息を吐き、はっきりと告げた。
「俺は 救世主(きゅうせいしゅ) なんかじゃねぇよ。ミユウを幸せにした、ただの男だ。それ以上でも以下でもねぇ」
一瞬、神殿が凍りついた。
だが次の瞬間、またどよめきが広がり始めた。
「なんという……なんという 謙虚(けんきょ) さ……!」
「やはり、 救世主(きゅうせいしゅ) に 相応(ふさわ) しいお方……!」
「お言葉を 慎(つつし) め! 謙遜(けんそん) こそ真の勇者の 証(あかし) なのです!」
……おい。
聞いてんのか、てめぇら。
その後も騒ぎは収まらず、俺は半ば強引に神殿の奥へと連れていかれた。
そして――
気がつけば、俺は学校の制服を脱がされ、真新しい勇者の 装束(そうしょく) に着替えさせられていた。
銀糸(ぎんし) で 刺繍(ししゅう) された 純白(じゅんぱく) のマント。 胸に輝く青い 聖紋(せいもん) 。 腰には、見慣れた剣ではなく、神殿に代々伝わる 聖剣(せいけん) が差してある。
鞘(さや) には古の 竜(りゅう) の 鱗(うろこ) が埋め込まれ、触れるだけで 微(かす) かな振動が指先に伝わってきた。
目の前には、大広間を埋め尽くすほどの 神官(しんかん) と 信徒(しんと) たち。
司教が厳かに、しかし熱を帯びた声で告げる。
「さあ、 救世主(きゅうせいしゅ) よ。アストリアの民に、その決意を」
「……はぁ」
俺はため息をつきながら、ゆっくりと聖剣を引き抜いた。
刃が 燭台(しょくだい) の炎を映し、きらりと青白く輝く。
深く息を吸い――
「我、アストリアの 守護者(しゅごしゃ) なり!」
声が天井の高いドームまで響き渡り、反響して何重にも重なった。
途端、割れんばかりの拍手と歓声が爆発する。
俺は剣を鞘に収め、苦笑いを浮かべた。
……ったく。
どいつもこいつも、勝手に盛り上がってやがる。
その夜。
神殿の奥まった広間では、司教をはじめとする高位の 神官(こういしんかん) たちが、真剣な顔で円卓を囲んでいた。
燭台(しょくだい) の炎がゆらゆらと揺れ、壁に長い影を落としている。
窓の外からは、夜の 聖樹(せいじゅ) が風にそよぎ、葉擦れの音が微かに聞こえてくる。
ルゥもその席に控え、静かに話を聞いていた。
話題は、当然のように俺とミユウのことだった。
「 結婚式(けっこんしき) は、来たる 満月(まんげつ) の夜が 相応(ふさわ) しいでしょう」
「いえ、 新月(しんげつ) の夜こそ 清浄(せいじょう) であり、 神(かみ) の祝福が最も強く降り注ぐ時……」
「式の場所は中央の 大聖堂(だいせいどう) で決まりだな」
「 花嫁(はなよめ) のドレスは、 聖樹(せいじゅ) の花で織られたものを用意せねば」
俺は壁に寄りかかり、腕を組んで黙って聞いていた。
隣にいるミユウは、頬をほんのり染めて 俯(うつむ) いている。
小さな指が、俺の袖をそっと掴んで離さない。
ふと、脳裏に家族の顔が浮かんだ。
母さんの優しい笑顔。
父さんの不器用な背中。
妹の生意気な声。
一瞬、胸が締め付けられるような痛みが走った。
でも――
俺はそっとミユウの体を抱き上げた。
軽い。
いつも思う。
こんなに小さくて、こんなに柔らかくて、こんなに大事な存在が、俺の腕の中にいる。
ミユウが驚いて顔を上げる。
「龍夜くん……?」
俺はまっすぐ彼女の瞳を見つめた。
「人間界には戻らねぇ。一生お前といる」
ミユウの瞳が、みるみるうちに潤んでいく。
「……一生、ね」
小さな声で呟いて、ミユウは俺の首に腕を回した。
俺は彼女を強く抱きしめる。
そして――
柔らかい唇が触れ合った。
周囲の神官たちの声も、歓声も、何もかもが遠ざかる。
今、この瞬間、俺の世界にはミユウしかいない。
これからも、ずっと。
俺はただ、彼女だけを守りたい。
それだけでいい。