作品タイトル不明
第9話 異世界の礼儀作法
俺はもう、限界を超えていた。
森の奥深く、岩がむき出しになった小さな広場。
朝の冷たい空気がまだ残る中、俺は硬い石の上に正座を強要されていた。
尻の下では尖った小石が容赦なく食い込み、苔の薄いクッションなんてあってないようなものだ。
頭上では古木の枝が絡み合い、陽光は細い筋となって地面に落ちるだけ。木漏れ日が揺れるたび、影が俺の顔を撫で、汗と混じって冷たく感じる。
風が吹く。葉ずれの音がざわざわと響き、どこか遠くで小鳥が短く鳴いた。
アストリアの森は美しい。空気は甘く澄んでいて、地球のそれとは違う、花のような香りが微かに漂う。でも今、そんな詩的な感慨に浸る余裕なんて、微塵もない。
ルゥが俺の正面に立っている。白い大羽が朝の光を受けて淡く輝き、金色の髪が風に靡く。
青い瞳は氷のように冷たく、俺の些細な動きすら見逃さない。孤高の大天使長。ミユウの幼なじみだというのに、表情には一切の甘さがない。
「座禅を組め。雑念を払い、魔力を体内で循環させろ。息を深く、ゆっくりと」
その声は低く、静かで、しかし絶対だった。
俺は膝を揃え、背筋を伸ばした。正座なんて、日本にいた頃は正月の親戚の家で強制された程度。こんな岩の上で、長時間なんて無理に決まってる。それでも、従うしかない。
目を閉じる。
闇の中、まずは呼吸に意識を向ける。鼻からゆっくり空気を吸い、肺の奥まで満たす。
少し止めて、口から静かに吐き出す。ルゥの教え通りに。
最初のうちは、まだ平静を保てた。胸の奥に、確かに何か熱いものが蠢いている感覚がある。召喚されてから感じていた、あの微かな力の源。救世主と呼ばれる理由が、そこにあるらしい。
だが、五分も経たないうちに、異変が始まった。
足の先が、じんわりと痺れ出す。
最初は気のせいかと思った。でも、すぐにそれは確かな痛みに変わる。
膝の下からふくらはぎにかけて、血が通わなくなったように重くなり、ピリピリとした針のような感覚が走る。
正座の姿勢が、こんなに残酷だとは知らなかった。太腿の筋肉が硬直し、時折ビクッと痙攣する。
尻の下の小石は、もはや敵だ。一つ一つが鋭く、動くたびに新しい痛点を刺激する。
汗が額から滴り、瞼を伝って目に入る。塩辛くて、沁みる。首筋を流れ、鎖骨の窪みに溜まり、服の襟を濡らす。
制服が汗に濡れて重く張り付き、肌にまとわりつく。
虫が寄ってくる。森の奥だから仕方ない。小さな羽音が耳のすぐ横で響き、時々頬や首筋を這うような痒みが襲う。
払いたい。手を動かしたい。でも、動けばルゥに気づかれる。「雑念だ」と一蹴されるだけだ。
ルゥは俺の周りをゆっくり歩いている。足音はほとんどしない。だが、羽の大きな影が、閉じた瞼の裏にちらつく。
存在感が圧倒的だ。大天使長のオーラとやらが、息苦しさを増幅させる。近くにいるだけで、空気が重くなる。
十分が経った。痺れは痛みに変わり、太腿の奥が焼けるように熱い。膝を少しでも動かしたい衝動に駆られるが、必死に堪える。呼吸を乱さないよう、必死に。吸って、吐いて。吸って、吐いて。
心の中では、もう逃げ出したくてたまらない。
異世界転生したら、みんなが夢見るようなスローライフがしたかった。
村の端っこで小さな畑でも作って、季節の野菜を育てて、のんびり暮らす。冒険者ギルドで薬草採取の簡単な依頼だけ受けて、夜は暖かい酒場で安い酒と旨い飯を楽しむ。それが理想だったのに。
なぜ俺は、救世主なんて大役を押し付けられたんだ?
ミユウの笑顔が浮かぶ。あの小さな体で、昨日は悪魔を一撃で粉砕して気絶していたくせに、普段は「龍夜くん!」と飛びついてくる、天真爛漫な少女。
小学生みたいな喋り方で、作ってくれるお菓子は甘くて美味い。あの子と一緒に、暖かい部屋で紅茶を飲みながら、のんびりおしゃべりして……。
いや、雑念だ。
自分で自分を叱る。でも、浮かぶのはそんな甘い夢ばかり。ふかふかの布団で朝までぐっすり寝て、起きたら優しい朝食が待っていて、誰も俺を鍛えようとしない、穏やかな日常。
二十分が経った。もう、体は悲鳴を上げている。足は完全に感覚が麻痺し、逆に太腿の上側が鋭く引き攣る。
汗が背中を伝い、腰のあたりまでびっしょり。息が浅くなり、心臓が早鐘のように鳴る。
「くそ……もう無理だ……」
小さな呟きが、抑えきれずに漏れた。自分でも驚くほど掠れた、弱々しい声。
次の瞬間──背中に、火花が散ったような激痛が走った。
ビシッ!
鋭い音とともに、焼けるような熱さが皮膚を這う。息が止まる。目を見開いた。
「甘えか?」
ルゥの羽の一枚が、鞭のように俺の背を打ったのだ。皮膚は裂けていない。でも、筋肉の奥まで響く衝撃。涙がにじむ。痛みと痺れと疲労が一気に押し寄せ、頭が真っ白になる。
「痛みも雑念だ。それを払え。救世主たる者、この程度で崩れてはならぬ」
冷たく、容赦ない声。俺は歯を食いしばり、再び目を閉じた。震える唇を噛み、呼吸を整えようとする。でも、もう限界は近い。
それでも、心のどこかで理解していた。この修行は、必要なんだ。
悪魔が跋扈する世界。ミユウが一人で戦って倒れるような脅威が、そこら中に潜んでいる。
戦闘力ゼロの俺が、このままじゃ誰も守れない。ルゥはそれを分かっていて、厳しくしている。ミユウを守るためにも。俺自身が、いつか本当に救世主と呼ばれる日が来るなら──。
遠くから、明るい声が響いた。
「龍夜くん! もう一時間経ったよー! すごいすごい! がんばってるねー!」
ミユウだ。高い木の枝にぶら下がって、小さな手をぶんぶん振っている。
銀色の髪が風に揺れ、朝陽に輝く。無邪気な笑顔。あの声が、今だけは救いだった。恥ずかしいけど、温かい。
ルゥが小さくため息をついた。羽の音が微かに鳴る。
「ミユウ、邪魔をするな」
少しだけ、苛立ちが混じった声。幼なじみだからこそ、甘い部分があるのか?
俺は必死に耐えた。でも、体はもう言うことを聞かない。前方に体が傾く。視界が揺れ、意識が薄れていく。
倒れる寸前──強い腕が、俺を優しく支えた。
ルゥだった。大羽で包み込むようにして、ゆっくりと地面に横たえてくれる。その手は、意外に温かかった。
「今日はここまでだ。だが、明日からは倍の時間を耐えてもらう。二時間だ」
倍……? 一時間がこれなのに、二時間なんて、死ぬ。
俺は仰向けに倒れ、ようやく空を見上げた。木々の隙間から覗く青い空。流れる白い雲。冷たい風が汗を冷まし、少しだけ楽になる。
ミユウが駆け寄ってきた。ぴょんぴょん跳ねながら、小さな手で俺の額の汗を拭う。
「龍夜くん! おつかれー! すごかったよ! ルゥも、ちょっとびっくりしてたもん!」
ルゥがびっくり? あの無表情な顔で?
少し離れたところで腕を組むルゥをちらりと見る。確かに、瞳が一瞬だけ柔らかくなった気がした。でも、すぐにいつもの冷たい声。
「休憩は十分だ。次は剣の素振り一千回だ」
まだ続くのか……。
俺はゆっくりと体を起こした。足はまだ痺れているけど、ミユウが手を貸してくれる。小さな手なのに、しっかりとした力。
「がんばって、龍夜くん! ミユウ、ずっと応援してるからね!」
うざ可愛い、満面の笑み。
まあ、これがあるから、なんとか耐えられるのかもしれない。
森の風がまた吹いた。葉ずれの音が優しく響く。この美しい世界で、俺の過酷な修行は、まだ始まったばかりだった。