作品タイトル不明
第8話 修行の始まり
森の空気が、突然重くなった。
風が止んだ。鳥の声が消えた。代わりに、地面を這うような冷たい気配が俺の首筋を撫でる。
息を吸うたび、肺の奥に腐ったような臭いが染み込んでくる。心臓が一瞬遅れて、どくんと大きく跳ねた。
……来る。
木々の影が揺れた。赤い目が、闇の中から次々と浮かび上がる。一つ、二つ……すぐに十を超え、十五、二十近くになったかもしれない。
黒い体躯がゆっくりと姿を現す。角は鋭く曲がり、爪は地面を掻きむしるほど長い。牙の間から糸を引くよだれが、ぽたりと落ちる。
俺の足が後ろへ滑った。膝が震える。息が詰まる。剣なんて持っていない。まだ何も教えてもらっていない。
戦う術なんて、ゼロだ。逃げたい。でも体が言うことを聞かない。恐怖が、全身を鉄の鎖で縛りつけたみたいに動けなくなる。
悪魔の一体が、低く唸った。それを合図に、群れが一斉に動き出す。
地面が震えた。土埃が舞い上がり、枯れ葉が巻き上がる。黒い影が矢のように迫ってくる。俺の視界が、赤と黒に染まる。喉がからからに乾いて、声が出ない。死ぬ――そう思った瞬間、
「ミユウ、危ない!!」
自分の叫びが、森に響いた。
ミユウが、俺のすぐ横に立っていた。小さな背中が、まるで俺を庇うように前に出る。次の瞬間、彼女が跳んだ。
「だいじょうぶだよー! ミユウに任せてー!」
甘ったるい、いつもの幼い声。
でも、その動きは――まるで別人だった。
小さな体が風を切って跳躍する。右手の短剣が、銀の閃光を放ちながら最初の一体の喉を裂く。黒い血が噴き出し、熱い飛沫が俺の頬にかかる。臭い。生臭くて、鉄のような臭い。
着地と同時に、ミユウは左手を翳した。掌から青白い光が膨張し、轟音とともに炸裂する。三体の悪魔が吹き飛ばされ、木の幹に叩きつけられて骨の砕ける湿った音が響く。折れた枝がばらばらと落ちてくる。
「えいっ! やぁっ!」
ミユウは跳ねる。踊る。悪魔の間を縫うように滑り込み、短剣が弧を描くたび、黒い血が雨のように降り注ぐ。
背後から襲いかかってきた一体を、振り返ることなく後ろ回し蹴り。衝撃で悪魔の顎が砕け、首が不自然にねじ曲がる。鈍い音がして、地面に崩れ落ちた。
息が上がる。俺の息じゃない。ミユウの。
最初は軽やかだった跳躍が、少しずつ低くなっている。額に汗が光り、頬が赤く上気している。それでも笑顔のまま。怖いなんて、これっぽっちも感じていないみたいに。
でも俺にはわかる。彼女の息が乱れている。魔力が、限界に近づいている。
残り五体。
悪魔たちも、もう本気だ。連携を取ってミユウを囲む。一体が正面から突進し、二体が左右から挟み撃ち。最後の二体が、高く跳躍して上から襲いかかる。完璧な包囲。逃げ場なんてない。
「ミユウ、後ろ!!」
叫んだ時には、もう遅かった。
巨大な悪魔の斧が、唸りを上げて振り下ろされる。空気が裂ける鋭い音。ミユウの小さな頭が、真っ二つにされる――
と思った瞬間。
ミユウは地面を蹴った。体が宙に舞い上がり、斧の柄を軽く踏み台にして背後に回り込む。逆手に持ち替えた短剣が、心臓を正確に貫く。黒い血が噴水のように噴き上がり、悪魔の巨体が前のめりに倒れる。地面が揺れた。
残り四体。
ミユウは息を弾ませ、左手をかざす。青い光が凝縮し、光弾となって放たれる。一体の頭部を直撃。肉と骨が飛び散る。臭いが強くなる。吐き気がする。
だが、次の瞬間――ミユウの膝が、がくんと折れた。
魔力の枯渇。限界を超えたんだ。
残りの三体が、一気に襲いかかる。牙を剥き、爪を振り上げ、咆哮を上げて。
「ミユウ!!!」
俺は叫んだ。助けたい。行きたい。でも足が動かない。恐怖と無力感が、俺の体を凍りつかせている。ただ見ているしかない。情けない。救世主だなんて言われて、こんな時に何もできない自分が、憎い。
ミユウは、倒れかけた体を無理やり立て直した。最後の力を振り絞って、短剣を横薙ぎに振るう。二体の首が、ほとんど同時に飛ぶ。黒い血がミユウの顔を赤黒く染める。彼女の白い肌が、血で汚れる。
最後の悪魔。
ミユウはよろめきながら突進する。小さな掌に、光が集まる。至近距離で、光弾を叩き込む。悪魔の胴体が内側から爆ぜ、肉片が四方に飛び散る。
静寂。
森に、再び風が戻ってきた。遠くで鳥が鳴き始める。血の臭いと、焦げたような魔力の残り香が、鼻を突く。
ミユウは、着地した。
でも、立っていられない。小さな体がふらつき、ゆっくりと膝をつく。そして、前のめりに――
俺はようやく、足が動いた。
駆け寄る。受け止める。ミユウの体は、熱くて、汗でびっしょり濡れていた。軽い。あまりにも軽い。顔は真っ青で、唇が紫色に震えている。目を閉じたまま、意識がない。
「ミユウ……ミユウ!」
頬を叩く。肩を揺する。でも反応がない。呼吸は浅い。脈は速いけど、確かにある。生きている。でも、こんなに冷たい手。
胸が、引き裂かれるように痛い。
悔しさ。情けなさ。無力感。全部が、熱い塊となって喉を焼く。
俺は何もできなかった。
悪魔が迫ってきたとき、ただ震えて、死を待ってるだけだった。
ミユウが、あの小さな体で、全部背負ってくれた。
血まみれになって、魔力を使い果たして、倒れるまで。
俺は……何をしてた? 見てただけか?
涙が零れた。熱い。頬を伝って、ミユウの髪に落ちる。
もう、嫌だ。二度と、こんな思いはしたくない。
その時、背後から重い足音。
「龍夜!」
ルゥの声。低く、怒りを孕んだ響き。駆けつけてきたらしい。息を切らしながら、俺たちの傍らに膝をつく。
大きな手がミユウにかざされる。白く柔らかな光が、彼女の体を優しく包み込む。傷が癒え、魔力が少しずつ補充されていく。
「魔力の完全枯渇だ。深い外傷はない。命に別状はない……だが、しばらくは安静だ」
ルゥの声は落ち着いていた。でも、握りしめた拳が震えているのが見えた。
「……ああ」
俺は掠れた声で答えた。ミユウの手を、離せなかった。まだ冷たい。
地面に散らばる悪魔の死体。黒い血が土に染み、煙を立てている。折れた木々、抉られた地面。さっきまでの死闘の痕跡が、静かにそこにあった。
俺はゆっくりと立ち上がった。
ミユウをルゥに預けながら、はっきり言った。
「ルゥ。俺に、修行をつけてくれ」
声は震えていた。でも、心は揺るがない。
ルゥが俺を見上げる。鋭い瞳で、俺の顔をまっすぐ見つめる。
「修行、だと?」
「ああ。救世主なら……ちゃんと戦えなきゃ、意味がない。俺はもう、ミユウにあんな無茶をさせたくない。自分で守りたい。守る側になりたい」
言葉が止まらなかった。抑えていたものが、一気に溢れ出す。
「俺は何もできなかった。ただ震えて、見てるだけだった。あんな小さな子に、全部任せて……血まみれになって倒れるまで……俺は、ただ泣いてるだけだった。情けない。悔しい。死にたくなるくらい、悔しい。もう二度と――二度と、こんな無力な自分は嫌だ」
ルゥは黙って聞いていた。
それから、ゆっくりと立ち上がる。ミユウを抱き上げながら、口元に薄い、でも確かな笑みを浮かべた。
「ふっ……ようやく、目覚めたか。お前がスローライフだの言って逃げ回ってた頃が、嘘みたいだな」
その言葉に、俺は唇を噛んだ。
「甘いものじゃないぞ。俺の修行は、地獄だ。お前みたいな、戦いすら知らない転生者が、耐えられるか?」
「耐えてやる。当たり前だ。どんな地獄でも、くぐり抜けてみせる」
俺はミユウの寝顔を見下ろした。
血と汗で汚れた顔。意識を失ったまま、無防備に眠っている。小さな口が少し開き、弱々しい寝息が漏れる。
もう、絶対に守る。
自分で戦って、自分で守って、ミユウを――いや、大切なものを全部、守ってみせる。
ルゥが、俺の肩を強く叩いた。
力強い、熱い手だった。
「なら、決まりだ。ミユウが目を覚ましたら、すぐに始める」
「ああ」
俺は頷いた。
胸の奥で、熱い炎が燃え盛っていた。
恐怖と無力感を、全部焼き尽くすような、強い炎。
森の風が強くなった。木々がざわめき、空を見上げると、厚い雲が切れて、眩しい陽光が差し込んでくる。
俺の、新しい戦いが――
今、始まる。