作品タイトル不明
第88話 真実の愛が、痛みを溶かす
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星隆医科大学(せいりゅういかだいがく) の正門前は、まるで地獄の底が割れたような 惨状(さんじょう) だった。
黒(くろ) い 霧(きり) が空を 覆(おお) い、地面はヒビ割れ、 街灯(がいとう) が次々と 倒(たお) れていく。
最初に 現(あらわ) れた 悪魔(あくま) は身長五メートルを超える 巨体(きょたい) で、全身を覆う 濡(ぬ) れたような 漆黒(しっこく) の 鱗(うろこ) 、 六(む) つの赤く 爛(ただ) れた 目(め) 、口からは 溶岩(ようがん) のような 唾液(だえき) が 垂(た) れ、 爪(つめ) の先端からは 紫色(むらさきいろ) の 毒煙(どくえん) が立ち上っていた。
奴(やつ) の足が地面を 踏(ふ) むたび、アスファルトが 溶(と) けて 泡立(あわだ) ち、 悲鳴(ひめい) のような 蒸気(じょうき) が 噴(ふ) き出した。 鼻腔(びこう) を 刺(さ) す 硫黄(いおう) と 焦(こ) げた肉の 臭(にお) い。
俺(おれ) 、 如月隼斗(きさらぎはやと) は、 白衣(はくい) を 血(ち) で 汚(よご) しながら、 生徒(せいと) たちに向かって 叫(さけ) んだ。
「全員、東ゲートへ 避難(ひなん) しろ! 走(はし) れ! 押(お) さないで、 医務室(いむしつ) の生徒を先に! 俺が 食(く) い止める!」
言いながら、白衣のポケットからメスを 三本引(ひ) き 抜(ぬ) き、右手で 全力投擲(とうてき) した。
銀色(ぎんいろ) の 刃(やいば) が 弧(こ) を 描(えが) き、悪魔の 左眼(さがん) に 突(つ) き 刺(さ) さる——はずだった。
だが奴は首を 一振(ひとふ) り、鱗がメスを 弾(はじ) き 飛(と) ばした。カキン! という 金属音(きんぞくおん) が 響(ひび) き、メスは地面に突き刺さって 震(ふる) えた。耳に残る 鋭(するど) い 余韻(よいん) 。
「ちっ…… 再生(さいせい) が 速(はや) すぎる!」
今度は 注射器(ちゅうしゃき) を五本。 針(はり) の先端に 残(のこ) っていた 麻酔薬(ますいやく) をそのまま 武器(ぶき) に、 連続(れんぞく) で 投(な) げつけた。
一本が悪魔の 喉(のど) に刺さり、黒い 体液(たいえき) が 噴(ふ) き出す。 生臭(なまぐさ) い 鉄(てつ) の 匂(にお) いと 熱(あつ) い 飛沫(しぶき) が 頬(ほお) に当たる。
だが奴は 痛(いた) みすら 楽(たの) しむように 笑(わら) い、 巨大(きょだい) な腕を 振(ふ) り 下(お) ろしてきた。
俺は 護身術(ごしんじゅつ) の 訓練(くんれん) で 覚(おぼ) えた 最低限(さいていげん) の動きで 横(よこ) っ飛び。
地面を 転(ころ) がりながら、悪魔の爪が俺のいた場所を 抉(えぐ) る。コンクリートが粉々(こなごな)に 砕(くだ) け、飛び 散(とびち) った 破片(はへん) が俺の頰を 切(き) り 裂(さ) いた。 熱(あつ) い血が頰を 伝(つた) う。 鉄(てつ) と 塩(しお) の味が口の中に広がる。
立ち上がりざまに、近くに 落(お) ちていた 救急用(きゅうきゅうよう) の 止血(しけつ) バンドを 拾(ひろ) い、悪魔の 足首(あしくび) に投げつけて 絡(から) めようとした。
だが奴の 脚力(きゃくりょく) は 異常(いじょう) だった。
バンドは 一瞬(いっしゅん) で 引(ひ) きちぎられ、俺の体は 吹(ふ) き 飛(と) ばされて 講堂(こうどう) の壁に 叩(たた) きつけられた。
背骨(せぼね) に 衝撃(しょうげき) が 走(はし) り、 肺(はい) から 空気(くうき) が 絞(しぼ) り出される。 息(いき) が 詰(つ) まる 鈍(にぶ) い 痛(いた) み。
「ぐあっ……!」
―――
その瞬間、黒い霧の中から 第二(だいに) の悪魔が 飛(と) び出してきた。こいつは 少(すこ) し 小(ちい) さめだが、 翼(つばさ) を 生(は) やした 四足(しそく) の 獣型(じゅうがた) で、背中から黒い 炎(ほのお) を 噴射(ふんしゃ) しながら俺に向かって 突進(とっしん) してくる。
翼の 風圧(ふうあつ) で周囲の木々(きぎ)が 根(ね) こそぎ 引(ひ) き 抜(ぬ) かれ、講堂のガラスが 一斉(いっせい) に 割(わ) れた。ガシャン! という 破砕音(はさいおん) と、耳を 劈(つんざ) く高音。
「もう 一体(いったい) か……!」
俺は血まみれの体を 無理(むり) やり 起(お) こし、 落(お) ちていたメスをもう一本拾って投げつけた。
刃は翼の 膜(まく) に突き刺さり、黒い炎が 一瞬乱(みだ) れた。 焦(こ) げた 皮(かわ) と硫黄の臭いが鼻を 突(つ) く。
しかし獣型悪魔は痛みを 無視(むし) して 跳(と) びかかり、俺の 左腕(ひだりうで) を爪で抉る。
肉(にく) が 裂(さ) け、 骨(ほね) が 見(み) えるほどの 傷(きず) 。 激痛(げきつう) で 視界(しかい) が白く 染(そ) まる。 焼(や) けるような熱と、鉄の味。
「くそ……護身術しか 知(し) らない俺じゃ、これ以上……!」
―――
第一の巨体悪魔が 再(ふたた) び 近(ちか) づき、二体の悪魔が俺を 挟(はさ) み 撃(うち) ちにする。
六つの目と獣の 牙(きば) が 迫(せま) る。俺は壁に背を 預(あず) け、 残(のこ) った注射器をすべて投げつけたが、ほとんど 効果(こうか) がない。爪が 振(ふ) り下ろされ、俺の 右肩(みぎかた) を 深(ふか) く 切(き) り裂いた。
血が 噴水(ふんすい) のように 噴(ふ) き 出(だ) し、白衣が真っ赤に染まる。 温(あたた) かい血が 首筋(くびすじ) を伝い、服に染み込む感触。
そのとき、 聞(き) き 覚(おぼ) えのある 悲鳴(ひめい) が耳に 飛(と) び込んできた。
「おばあさん……!」
振り返ると、そこにいたのは俺がかつて担当していた老女患者—— 佐藤(さとう) さんだった。
細い体が黒い爪の間に吊り下げられ、白髪が乱れ、病院の薄い寝間着はすでに血でべっとりと赤黒く染まっている。
彼女の瞳は恐怖でいっぱいだったが、俺を見つけると、かすかに——本当にわずかに——安堵の色を浮かべた。
「先生……助けて……」
その一言が、俺の心臓を直接握り潰した。
俺は歯を食いしばり、血まみれの体を無理やり動かした。
左腕はもう感覚がない。右足は引きずるたびに骨が軋む音がする。
それでも這うように、転がるように、佐藤さんの元へ近づいた。
悪魔の爪が彼女の肩を抉ろうと振り下ろされる、その寸前——
俺は体ごと投げ出し、盾になった。
灼熱の痛みが背中を貫いた。
爪が肩甲骨を突き破り、肉を裂き、骨にまで食い込む。
同時に背後から獣型悪魔の牙が腰に食らいつき、内臓を抉るような激痛。
視界が真っ赤に染まり、息が詰まる。
血の鉄臭と焼ける肉の匂いが、鼻腔を埋め尽くす。
「先生っ!」
佐藤さんが泣き叫んだ。
その声は、まるで遠くの子供の頃の記憶のように、俺の耳の奥で響き続けた。
俺は血の混じった息を吐きながら、震える声で絞り出した。
「……僕を、先生なんて呼ばないでください。 僕は誹謗中傷が怖くて、患者さんと向き合うことから逃げた…… 寮監なんかに隠れて、ただの弱虫です。 患者さんを守る資格なんて、最初から……なかったんです」
言葉が途切れ、涙が血と混じって頰を伝う。
すると佐藤さんは、俺の血でべっとり濡れた右手を震える細い指で、そっと、けれど確かに握り返してくれた。
その掌は、驚くほど温かかった。
昔、俺が震える手で注射を打つたびに、
「先生、ありがとうね。痛くなかったよ」と言ってくれた、あの温もり。
消毒液と石鹸と、長い年月を生き抜いた人の匂い。
その温かさが、俺の凍りついた心の奥底まで染み込んでくる。
「……先生は、弱虫なんかじゃないよ」
佐藤さんの声は、かすれながらも優しかった。
「だって、私の注射、いつも最後まで見ててくれた。
痛くても、怖くても、先生がいてくれたから……耐えられたんだよ」
一滴の涙が、彼女の皺だらけの頰を伝う。
「だから……ありがとうね、隼斗くん」
初めて、俺の本当の名前を呼んでくれた。
その瞬間——
掌の中心から、抑えきれない光が爆ぜた。
それはただの金色ではなかった。
淡い金と白銀が螺旋を描き、無数の星屑がキラキラと舞い上がり、 まるで俺と佐藤さんの間にだけ存在する小さな宇宙が生まれたかのように輝いた。
光の粒子一つ一つが、過去の記憶を宿しているようだった。
初めて患者の脈を取った日の緊張、夜勤明けに佐藤さんがくれた温かいおにぎり、
「また明日ね」と笑ってくれた皺の寄った目尻——
それら全てが、光となって溢れ出す。
光は佐藤さんの温もりと重なり、黄金の聖なる渦となって膨張した。
二体の悪魔を同時に包み込む。
六つの赤い目が光に触れた瞬間、怯え、浄化され、溶岩のような唾液が虹色の蒸気となって昇華する。
獣の黒い炎は青白い輝きに変わり、翼が溶けるように崩れ落ちた。
「うわあああああっ……!」
絶叫が虚空に響き、黒い鱗と肉体が、光の粒子に触れるたび、
古い羊皮紙が燃え尽きるように音もなく崩れ落ちていく。
巨体が膝をつき、獣が後ずさり——
そして、二体とも、金色の光の渦に飲み込まれ、星の欠片となって風に溶けた。
静寂が訪れた。
俺は地面に膝をついたまま、呆然と自分の掌を見つめた。
まだ、無数の小さな星屑が優しく瞬き続けている。
かすかな、鈴のような音が聞こえる気がした。
佐藤さんが、弱々しく微笑む。
「……綺麗ね。まるで、星が降ってきたみたい」
俺は声を詰まらせながら、彼女の手を握り返した。
「佐藤さん……ありがとう」
彼女は小さく頷き、目を閉じた。
その顔は、安らぎに満ちていた。
俺は震える指でタブレットを引き抜き、血で滑る画面に必死で打ち込んだ。
【緊急通達】
悪魔の弱点は「真実の愛」だ。
この世界を、愛でいっぱいにするんだ。
今すぐ、大切な人に——本当の気持ちを、伝えてくれ。
送信ボタンを押した瞬間、 キャンパス中に通知音が鳴り響き、 そして、世界中に波紋が広がった。
「好きだよ……ずっと、好きだった」
「ありがとう、お母さん……生きててくれて」
「ごめん……俺が、全部悪かった。許してくれ」
抱き合う者、泣きながら電話をかける者、手を繋ぐ家族。
愛の言葉が連鎖し、俺の掌から溢れた光の粒子が、 まるで意志を持ったように空へ舞い上がり、世界中に伝播していく。
空を見上げた。
黒く塗りつぶされていた空が、ゆっくりと、確実に青を取り戻していく。
金色の光の帯がオーロラのように揺らめき、雲の隙間から純白の陽光が降り注ぐ。
東京タワーが黄金に輝き、相模湾の海が星屑のように瞬き、
枯れていた桜の木に、一斉に花が咲き乱れる。
そしてそれは、日本だけでは終わらなかった。
世界中が、光に包まれていく。
ニューヨークの摩天楼が輝きを取り戻し、自由の女神が青空の下に立つ。
エッフェル塔が星屑に抱かれ、セーヌ川が鏡のように輝く。
ピラミッドが陽光を浴び、ナイルが青く息を吹き返す。
アマゾンの緑が蘇り、地球の肺が再び鼓動を始める。
俺は血まみれの唇を動かし、心の中で呟いた。
(頼んだぞ、龍夜……
あとは、お前がこの光を——繋いでくれ)
―――
【虚空黒王城】
玉座に座る魔王の巨体が、初めて——はっきりと震えた。
人間界から立ち上る、眩い金色の波動。
それは、愛の光だった。
黒い虚空を切り裂き、魔王の六つの目を——怯えで満たしていく。
「……なんだ、これは……
人間どもが……こんな光を……?」
その声には、もう威厳はなかった。
ただ、初めて感じる「恐怖」が、静かに響いていた。
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