軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第86話 二つの命が重なる瞬間

魔王の玉座の間は、冷たく重い闇に満ちていた。

黒曜石(こくようせき) のような床は、足音一つ吸い込んでしまうほどに静かで、壁に刻まれた無数の呪文の刻印が、赤黒い脈動を繰り返している。

空気は鉛のように重く、息をするたびに肺の奥まで毒が染み込んでくるような錯覚を覚えた。

そんな場所の中心で、

「龍夜くんっ!」

ミユウの悲鳴が、鋭く空気を切り裂いた。

彼女の声は、まるで割れたガラスの破片のように震えていた。

普段の柔らかな響きはどこにもなく、ただ必死に、掠れながら俺の名を呼び続けている。

「しっかりして! わたしを見て!」

俺の視界は歪んでいた。

色が滲み、輪郭が溶け、音は遠く水底から響くように鈍く届く。指先すら、自分の意志で動いている実感がなかった。

背骨の奥、 脊髄(せきずい) の 髄(ずい) を、黒い無数の糸が縫い付けている。

魔王の意志だ。あの冷たくねっとりとした支配の糸が、俺の神経を一本一本掌握し、操り人形のように動かしている。

目の前で、俺の右腕がゆっくりと剣を振り上げた。

刃が鈍く光を反射し、ミユウの白い頬を照らす。彼女は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、必死に俺を見上げていた。

瞳に映るのは、恐怖でも憎しみでもない。ただ、純粋な心配と、信じきった愛情だけだった。

なのに俺は、何も止められない。

「龍夜くん……! 龍夜くん、目を覚まして!」

その声が、胸の奥のとても深い場所に、小さく、けれど確かに響いた。

ミユウの声だ。

いつもの、優しく包み込むような響きじゃない。

震えて、掠れて、喉が傷ついているのが伝わってくる。それでも、俺の名前を——いや、俺を「龍夜くん」と呼ぶ、あの呼び名を、必死に、途切れさせまいと呼び続けている。

頭蓋の奥で、魔王の 哄笑(こうしょう) が爆発した。

『くだらない。人間の雌がどれだけ叫ぼうと、俺の 傀儡(かいらい) は動く』

嘲笑が脳髄を震わせる。

体が勝手に一歩踏み出した。

剣の切っ先が、ミユウの肩をすれすれに掠めた。薄い布地が裂け、鮮血が細い線を描いて飛び散る。

その感触が、俺の皮膚にまで伝わってくる。

熱い。生々しい。

なのに、痛みを感じているのはミユウの方だけだ。俺の肉体は、ただの道具に成り下がっている。

「龍夜くんッ! お願い! 私を見て! 龍夜くんはこんなことしないよね!?」

また声が刺さった。

今度はさっきより大きく、鋭く、心臓を突き刺すように。

視界の端がチカチカと明滅し始めた。まるで古い映写機のフィルムが焼き切れる瞬間みたいに、記憶の欠片が不意に飛び出してきた。

——夏の夜、屋根瓦の上に二人で寝転がったあのとき。

ミユウの髪が夜風に揺れて、俺の頬をくすぐった。彼女は星空を見上げながら、子供みたいに無邪気に笑って言った。

「龍夜くん、明日も一緒にいようね」

その笑顔が、胸の奥を焼くように熱く蘇る。

「う……っ」

喉の奥から、勝手に呻き声が漏れた。

魔王の怒りが、灼熱の針となって脳を突き刺す。

痛みは尋常じゃなかった。意識が白く霞み、膝がガクガクと震える。

『黙れ! 抵抗など無意味だ!』

それでも、ミユウは止まらない。

血を滴らせながら、膝を這って俺に近づいてくる。涙で顔はぐちゃぐちゃなのに、唇の端を無理やり上げて、笑おうとしている。

「龍夜くん! 思い出して! 私たちが約束したこと! 魔王なんかじゃない、龍夜くんは私の龍夜くんでしょ!?」

その言葉が、今度は胸の真ん中を熱く焦がした。

体がビクンと大きく 痙攣(けいれん) する。

剣を持つ右手が、わずかに——ほんのわずかに震えた。

魔王の黒い糸が、一本、プツンと音を立てて切れた気がした。

『この……忌々しい女!』

魔王の憤怒が爆発する。

次の瞬間、奴の 掌(てのひら) から黒い衝撃波が放たれた。

空気が歪み、轟音とともにミユウへ向かう。

彼女は 咄嗟(とっさ) に駆け寄り、黄金の六枚の羽根を広げて俺を 庇(かば) った。

「きゃあああっ!!」

羽根が引きちぎられる音。

衝撃でミユウの小さな体が吹き飛び、玉座の間の石床に叩きつけられる。

「忌々しい天使と人間め! わたしに 跪(ひざまず) くつもりがないなら、二人まとめて殺してやる!」

魔王の声が空間を震わせる。

続けて、二度、三度、四度——容赦なく衝撃波がミユウに叩きつけられた。

純白のドレスは瞬く間にボロボロに裂け、黄金の羽根は一本、また一本と剥がれ落ちていく。

血が飛び散り、石床に赤黒い花を咲かせる。

ミユウは歯を食いしばり、それでも俺を庇い続けていた。

「あぁっ! あぁぁーっ!!」

彼女の悲鳴が、俺の心を 抉(えぐ) る。

耐えられない。こんな光景を見ているだけなんて、耐えられない。

「許せない! 魔王! わたしの 最高天使(イリゼ) の力、見るといいわ!」

ミユウの叫びが、涙と一緒に飛び散った。

その瞬間、彼女の全身から黄金の暖かな光が溢れ出し、俺を優しく包み込んだ。

光は柔らかく、温かく、まるで母の抱擁のように俺の凍えた体を溶かしていく。

——その 刹那(せつな) 、頭の中に別の記憶が 奔流(ほんりゅう) のように流れ込んできた。

ミユウが俺の手をぎゅっと握って、「龍夜くんがいるから、私は怖くない」って言った、あの雨の日。

初めて唇を重ねた夜、彼女の頬が熱くて、俺の心臓がうるさくて、二人ともうまく息ができなかったこと。

剣術大会の決勝。最強と 謳(うた) われた剣士を前に、一瞬だけ足がすくんだ俺を、ミユウは客席から飛び出してきて、屈託のない笑顔で叫んだ。

「龍夜くんは絶対に誰にも負けないから!」

その一言で、俺は剣を握り直せた。 あのときの彼女の声が、今、俺の耳元で響いている。

痛い。

頭が割れそうに痛い。

魔王の支配が、俺の意識を無理やり引きずり戻そうとする。黒い糸が再び絡みつき、肉を抉る。

でも、ミユウの声が、それを引き剥がす。

「龍夜くん! 龍夜くんッ!! 戻ってきて! 一人で戦わないで! 私はここにいる! 龍夜くん!」

声が、光の矢のように俺の心臓を貫いた。

視界が一瞬、真っ白に弾ける。

魔王の黒い霧が、視界の端からゆっくりと剥がれ落ちていく。

指が——俺の指が、剣の柄をギリギリと握りしめ直した。

それは魔王の意志じゃない。

俺の意志だ。

「龍夜くん……! まだだよ! 魔王じゃなくて、龍夜くんの目で、私を見て!」

もう声はすぐそばだった。

ミユウが俺の足元にすがりついている。

彼女の小さな手が、俺のふくらはぎをしっかりと掴んでいる。

その温かさが、俺の体に「ここは俺の体だ」と、はっきりと教えてくれた。

魔王の叫びが、遠ざかっていく。

『……この……程度で……!』

そして、最後の一撃。

魔王が 渾身(こんしん) の衝撃波を放つ。

ミユウの体がぐらりと傾き、力尽きたように地面に崩れ落ちた。

「龍夜くん、愛してる。最後まで守れなくて、ごめん……ね……」

その最後の囁きで、すべてが決まった。

頭の中で魔王の気配が、引き潮のように一気に引いていく。

黒い糸が全部千切れ、俺の神経が一斉に「俺のものだ」と主張し始めた。

剣が、手から滑り落ちる。

ガシャン——という金属音が、やけに大きく、静寂の中に響いた。

「……ミユウ……」

彼女が完全に崩れ落ちる瞬間、俺は咄嗟に腕を伸ばし、ミユウを抱き止めた。

黄金の羽根はほとんど剥がれ、細い身体は血にまみれている。

それでも、胸が微かに上下している。

まだ、生きている。

「しっかりしろ! なんでこんな……! 俺のために!」

俺は膝を折り、ミユウを強く抱き寄せた。

体が重い。魔王の 残滓(ざんし) がまだ 疼(うず) いている。でも、もう大丈夫だ。

俺は戻った。

「俺……戻ったよ、ミユウ。

龍夜くん……じゃなくて、龍夜が、ちゃんとここにいる」

ミユウが虚ろに目を開き、弱々しく、けれど確かに微笑んだ。

「龍夜……くん」

その瞬間、俺たちの間に暖かな光が生まれた。

最初は小さな、淡い 灯火(ともしび) のようだった。

ミユウの胸元から、俺の胸元から、それぞれ一筋の光がゆっくりと立ち上り、空中で出会う。

二つの光は、まるで恋人同士が手を繋ぐように絡み合い、互いを確かめるように震えた。

そして、静かに、けれど力強く、一つに重なり合う。

光は金色と銀色が混じり合い、柔らかく脈打つ。

暖かくて、優しくて、どこか懐かしい。

それは、俺たちがこれまで積み重ねてきた時間そのものだった。

笑った日も、泣いた日も、喧嘩した日も、抱き合って眠った夜も——すべてが、この光の中に溶け込んでいた。

「これ! わたしたちの……!」

ミユウが、信じられないというように声を上げた。

涙がまた溢れる。でも今度は、悲しみの涙じゃない。

喜びと、 安堵(あんど) と、愛情の涙だ。

「……みたいだな」

俺はゆっくり立ち上がり、魔王を睨みつけた。

もう、何も恐れない。

世界を救うつもりはなかった。

そんな大それた使命なんて、最初から背負う気などなかった。

でも、この子たちだけは——ミユウと、これから生まれてくる命だけは、絶対に守りたい。

父親として。

かけがえのない家族として。

静かだが、確かな決意が、胸の奥で燃えていた。