作品タイトル不明
第85話 彼女は初めからいなかった
魔王がゆっくりと右手を掲げた。
掌の中心で黒い魔力が渦を巻き、空気がびりびりと震える。世界そのものが息を潜めているかのようだった。
「これで終わりだ、龍夜。お前の抵抗も、ここまでだ」
瞬間——
ゴォォンッ。
目に見えない衝撃波が俺の胸を直撃した。
鉄の塊を全力で叩きつけられたような衝撃ではない。それ以上だ。
全身の骨が一瞬で 軋(きし) み、肉が引き裂かれるような痛みが爆ぜた。
体が地面から引き剥がされ、数十メートルは軽く吹き飛ばされる。
玉座の間の魔の床に叩きつけられ、壁に正面から激突し、何度も跳ね返った。背中が壁にめり込み、肋骨が何本か折れる嫌な音が響いた。
肺から空気が完全に抜け、息が止まる。
口の中に熱い鉄の味が広がった。血だ。大量の血。
「ぐ……っ……はあっ……!」
地面に手をついて立ち上がろうとした。
指先が震える。左腕が痺れて動かない。膝ががくっと崩れ、額が土に突っ込んだ。
それでも歯を食いしばって体を起こす。息を吸うだけで胸が焼けるように痛い。視界が揺れ、血が目に入って赤く滲む。
「くそ……まだ……いける……!」
魔王は十歩も離れていない場所に、悠然と立っていた。
傷一つ負っていない。息一つ乱れていない。ただ薄く、嘲るような笑みを浮かべているだけだ。
その余裕が、俺の胸をさらに 抉(えぐ) る。
「ふん。まだ立ち上がるか。面白い……だが、もう少し楽しませてやろう」
魔王の声が低く響いた。
次の瞬間、俺の頭の中に何かが滑り込んできた。
冷たく、ねばつく黒い霧のような感覚。
精神攻撃——いや、違う。もっと深い。魂を直接掴まれているような。
「な……っ!?」
視界が一瞬、真っ白になった。
そして、脳裏に浮かぶミユウの顔が……ぼやけた。
「ミユウ……?」
最初はただの幻覚かと思った。
でも違う。
ミユウの笑顔が、ゆっくりと色を失っていく。
金色の髪、優しい瞳、いつも俺を「龍夜くん」と呼んでくれた声。
すべてが、古い写真が色褪せるように薄れていく。
「待て……おい、待てよ……!」
俺は頭を抱えた。
魔王の声が、頭の中で直接響く。
『どうした、龍夜。ミユウなど、最初から存在しなかっただろう?』
「は……? 何を言って……」
記憶が、勝手に書き換わっていく。
ミユウと初めて出会ったあの森の情景が、突然「一人で歩いていた記憶」に変わる。
一緒に戦ったあの夜の思い出が、「俺一人で魔物を倒した」ことにすり替わる。
ミユウが俺の傷を癒してくれた温もり……それすら「ただの幻だった」と塗りつぶされる。
ミユウが俺の隣で眠っていた夜の安らぎ、彼女の小さな手が俺の指に絡まる感触、すべてが「なかったこと」になる。
「う……そだろ……? ミユウは……俺のそばに……」
胸が締め付けられる。
違う。違うはずだ。
ミユウは本物だった。俺を守ってくれた。笑ってくれた。
一緒に未来を語り合った。あの約束も……全部、偽りだったというのか?
頭の中でミユウの声が、ゆっくりと消えていく。
『龍夜くん……わたし、 最高天使(イリゼ) の仕事が終わったら……』
その声すら、風に溶けるように遠ざかる。
俺は必死に思い出そうとする。ミユウの匂い、彼女の体温、彼女が最後に俺に向けた微笑み。
なのに、すべてが白い霧に包まれて、掴めない。
まるで、最初からこの世界にミユウという少女など存在しなかったかのように。
「やめ……ろ……! ミユウは……俺の……!」
俺は地面を拳で叩いた。
血がにじむ。痛みで我に返ろうとする。
でも魔王の精神攻撃は容赦ない。
今度は視界そのものが変わった。
周囲の森が、突然「誰もいなかった場所」になる。
ミユウがいつも座っていた岩が、空っぽ。
彼女の残り香すら感じない。
心にぽっかりと穴が開いたような、底知れぬ喪失感。
俺は一人だった。ずっと一人だった。
ミユウと過ごした日々など、夢でさえなかった。
『ほら、見ろ。ミユウなど、最初からいなかった。お前は一人だった。お前が守ろうとしたすべては、幻想だった。今、ようやく本当の孤独を知っただろう?』
「はっ……はぁっ!」
心臓が絶望に陥ったように悲鳴を上げる。
魔王がゆっくり歩み寄ってくる。その足音が、俺の鼓動と重なる。体はまだ衝撃波のダメージで動けない。精神は完全に崩壊寸前。涙が勝手に溢れてきた。
ミユウ……本当にいなかったのか?
俺は……何のために戦ってきたんだ……?
彼女の笑顔を思い浮かべようとするたび、頭が痛み、記憶がさらに白く塗りつぶされていく。
「くそ……っ……うそだ……ミユウは……いるはず……!」
それでも俺は剣を握り直そうとした。
指が震えて、柄を掴めない。
魔王は俺のすぐ眼前まで来て、ゆっくりと手を伸ばした。
その掌から、再び黒い霧が漏れ出す。
「まだ諦めないか。素晴らしい執念だ。だが、もうお前の心は俺のものだ。ミユウの存在は永遠に消えた。お前が信じていたすべてが、最初からなかったものになる……」
俺の視界が、再び暗転する。
ミユウの最後の笑顔が、完全に白く塗りつぶされていく瞬間——
俺はただ、地面に膝をついたまま、震えていた。
この差は……絶望的すぎる。
魔王はまだ、本気のほんの一部すら見せていない。
体はボロボロ。
心は、ミユウを失った穴で埋め尽くされている。
それでも……俺は、まだ……諦められない、彼女が本当にいたという、この最後の確信だけを、握り潰されないように必死に抱きしめていた。