作品タイトル不明
第83話 螺旋の中で、愛だけが俺を支えた
螺旋階段(らせんかいだん) の冷たい 石段(せきだん) が、 靴底(くつぞこ) を容赦なく滑らせた。
古い 城(しろ) の地下深くに刻まれたこの階段は、ただの通路なんかじゃない。永遠に続く 螺旋(らせん) の 回転(かいてん) が 視界(しかい) を狂わせ、 平衡感覚(へいこうかんかく) を根こそぎ奪う。
壁は湿った 苔(こけ) に覆われ、指先で触れればぬるりと粘つく 感触(かんしょく) が残った。
天井(てんじょう) は低く、頭上をかすめる空気が重く 淀(よど) んでいる。
息をするたび、 肺(はい) の奥に冷たい 湿気(しっけ) が染み込んでくるようだった。
石の 隙間(すきま) から 滴(したた) る 水音(すいおん) が、遠くで絶え間なく響き、まるでこの場所が生きて 脈打(みゃくう) っているかのように感じられた。
俺は、アストラルフレイムを握りしめた右手に力を込めながら、胸の奥で静かに息を吐いた。
(ここが……最後の 戦場(せんじょう) か)
その瞬間、低い 唸(うな) り声が響き、 上級悪魔(じょうきゅうあくま) が姿を現した。
「わたしは今までの 小型悪魔(こがたあくま) とは違う。 貴様(きさま) は今ここで死ぬ 運命(うんめい) から逃れられん! 」
その叫びが螺旋階段全体に 反響(はんきょう) し、何重にも重なって耳を 劈(つんざ) く。
魔王(まおう) の呪いによって犯された 心臓(しんぞう) が、恐怖で 早鐘(はやがね) のように激しく打ち始めた。
鼓動(こどう) が耳の奥で鳴り響き、まるで自分の体が別の生き物に支配されているような 錯覚(さっかく) に 陥(おちい) る。
黒い 翼(つばさ) が天井の 突起(とっき) を 掠(かす) めてバサリと鳴った。
その一振りだけで空気が震え、湿った風が俺の 頬(ほお) を叩く。
赤く 爛(らんらん) と輝く 瞳(ひとみ) が、 暗闇(くらやみ) の中で俺を捉えていた。奴の存在そのものが、この狭い空間をさらに 圧迫(あっぱく) してくる。
吐息(といき) が熱く、 腐臭(ふしゅう) を帯びた息が階段を這い上がってくる。
(クソ狭い……)
剣を横に振れば 即座(そくざ) に壁に当たる。 横薙(よこな) ぎは不可能だ。
縦に斬るか、突くしかない。悪魔の 巨体(きょたい) はさらに不利を強いるはずだった。翼を広げられないこの空間では、奴はただの重い 肉塊(にくかい) に成り下がる——そう思っていた。
「逃げ場はないぞ、人間」
低く、粘つくような笑い声が響く。その声は甘く、耳の奥に絡みつくように這い上がってきた。
背筋が凍る。悪魔が一歩、階段を降りてくる。爪が石を削る乾いた音が、俺の神経を 逆撫(さかな) でする。 石屑(いしくず) がパラパラと落ち、俺の足元に散らばった。
俺は歯を食いしばり、右足を一段踏み込んだ瞬間——
「——ッ!」
悪魔の爪が左肩を 抉(えぐ) りながら通り過ぎた。
灼熱(しゃくねつ) の痛みが爆発し、血の 生臭(なまくさ) さが一瞬で 鼻腔(びこう) を満たす。
傷口から熱い液体が 溢(あふ) れ、背中をべっとりと濡らしていく。
肩の骨が 軋(きし) むような感覚。肉が裂ける湿った音が、自分の耳にまで届いた。
爪が骨に引っかかった瞬間、鈍い 衝撃(しょうげき) が全身を 貫(つらぬ) き、視界が一瞬白く 閃(ひらめ) いた。
( 曲(ま) がり 角(かど) の 死角(しかく) から……!)
螺旋の構造が視界を完全に 遮(さえぎ) る。次の攻撃がどこから来るかわからない。
俺は体を 捻(ひね) り、剣を真上へ突き上げた。 刃先(はさき) が悪魔の腹を浅く裂く。だが、すぐに黒い霧のような 再生(さいせい) の煙が傷を覆い始めた。煙が 渦(うず) を巻き、焼けるような 臭(にお) いが広がる。
(まだ……浅い。再生が早すぎる。上級ってのは、こういう化け物なのか)
階段を駆け上がる。一歩ごとに視界が回転し、足元が不安定だ。世界自体が回っているように感じる。
悪魔は俺より三段上。翼を 畳(たた) んで追ってくるその姿は、 執拗(しつよう) な影のようだった。爪が石を引っ 掻(か) く音が、背後で絶え間なく響く。
ここで横に逃げられないのが 致命的(ちめいてき) だ。俺は手すりに左手をかけ、体重を預けて一気に三段飛ばしで跳んだ。
筋肉が悲鳴を上げる。肩の傷が裂け、新たな血が噴き出す。痛みはまだ、俺を動かせる燃料だった。跳んだ瞬間、階段の回転が体を外側へ引っ張り、バランスが崩れかける。
「甘い!」
悪魔が翼を広げようとして——だが、狭い階段がそれを許さない。
代わりに 急降下(きゅうこうか) してくる。黒い影が頭上を覆い、 風圧(ふうあつ) が髪を逆立てた。巨体が落ちてくる音が、 轟音(ごうおん) のように階段を震わせる。
その瞬間、俺は手すりを蹴り、壁を蹴って後ろに跳んだ。螺旋の外側—— 虚空(こくう) へ。
一瞬の無重力。体が浮かぶ感覚に、胃が浮き上がる。悪魔の目が見開くのが、はっきりと見えた。
あの余裕に満ちた瞳に、初めての 動揺(どうよう) が走る。奴の翼が 慌(あわ) てて広がろうとするが、壁に 阻(はば) まれ、 膜(まく) が引き裂かれる音がした。
「落ちろよ、上級様」
俺は剣を両手で振りかぶり、落ちながら悪魔の翼の付け根を狙って全力で斬り下ろした。
骨と膜が断ち切れる重い手応え。刃が深く食い込み、肉が裂ける感触が手に伝わる。
熱い 血飛沫(ちしぶき) が俺の顔に飛び散り、口の中に鉄の味が広がる。
悪魔の 咆哮(ほうこう) が階段全体を震わせ、壁がビリビリと鳴った。咆哮は低く唸る 獣(けもの) の叫びではなく、金属を削るような鋭い悲鳴だった。俺たちは絡み合ったまま、螺旋の底へと落ちていく——
……はずだった。
だが、悪魔は残った翼を強引に広げて壁に爪を立て、落下を止めた。爪が石に深く食い込み、火花が散る。石が 砕(くだ) ける音が爆ぜ、 破片(はへん) が俺の頬を掠めた。
俺だけが、剣を石段に深く突き刺して辛うじて踏み止まる。
刃が石を削る 耳障(みみざわ) りな音が反響し、頭の中で鳴り響く。腕の筋肉が引きつり、肩の傷から新たな血が噴き出した。
息が荒い。肺が焼けるように熱い。剣の 柄(つか) を握る指が、血で滑り、 関節(かんせつ) が白くなるほど力を込めた。
(くそ……ここで止まられたか。翼の一枚を 潰(つぶ) したはずなのに、まだ動けるのか……)
「はっ……! はっ……! 」
心臓が激しく脈打ち、俺は叫ぶように浅く早い呼吸を繰り返した。
まるで自分の鼓動が、螺旋階段全体を支配しているかのようだった。
冷たい石の感触が手のひらから伝わり、血が滴り落ち、石段を赤く染めていく。
その赤が螺旋の回転に沿って下へ下へと流れていくのを見ていると、妙な 既視感(きしかん) が胸を締め付けた。
上級悪魔の爪が、再び俺の 脇腹(わきばら) を抉った。
今度は深く。肉が裂ける音が、自分でもはっきり聞こえる。
爪が 内臓(ないぞう) を掠め、熱い血が噴き出す。
俺はよろめきながら手すりにしがみついたが、指が血で滑る。
螺旋の曲がり角が視界を完全に奪い、次の攻撃がどこから来るかわからない。死角だらけ。この階段は、今は完全に敵だった。
「 跪(ひざまず) け、人間。貴様の命はここで終わる」
悪魔の声が壁に反響し、何十重にも俺の頭を殴りつける。翼を畳んだ巨体が三段上からゆっくり降りてくる。俺は剣を構えようとしたが、左腕が 痺(しび) れて上がらない。肩の傷が深すぎる。血が目に入って視界が 滲(にじ) む。世界が赤くぼやける。
「くそ……っ」
俺は歯を食いしばって一段下がった。だが足がもつれる。螺旋の回転が体を外側へ引っ張る。
手すりの向こうは真っ暗な虚空——落ちたら終わりだ。底なしの闇が、俺を誘うように口を開けている。
悪魔が 嘲(あざけ) るように低く笑った。その笑い声が、甘く、優しく、まるで古い友人のように耳に絡みつく。
「ふふ……まだ 足掻(あが) いているのか。龍夜よ。ミユウと初めて出会った日のことを思い出してみろ。貴様は、『くっつくな!』と叫んで彼女を突き放しただろう」
言葉が、胸の奥深くに突き刺さる。
あの日の記憶が、フラッシュバックのように一気に 蘇(よみがえ) った。
ふわふわの銀髪を揺らし、瞳をキラキラさせて飛びついてきたミユウを、俺は冷たく突き放した。彼女が一人泣いていた夜も、俺は見て見ぬふりをした。守る守ると口では言いながら、何度もミユウを見捨てた。彼女の小さな背中が遠ざかっていく姿を、俺は何度も見送った。
瞬間、ミユウの声が響いた。
「龍夜くん! 聞かないで! わたし、 最高天使(イリゼ) になって思い出したの。900年前、初めて龍夜くんに出会った日のこと。あなたはいつもわたしを守ってくれてた。お願い! 自分を信じて! 」
その声が、氷のように冷え切っていた俺の心に、温かな 灯(ひ) を灯した。
(……ミユウ)
胸の奥が、熱くなる。痛みも、恐怖も、全部を押し退けて、ただ彼女への想いだけが溢れ出す。愛おしさが、体の芯まで染み込んでいく。
さっきまで悲鳴をあげていた心臓が、ゆっくりと、穏やかに落ち着いていくのを感じた。
鼓動が、静かに、確かなリズムを取り戻す。傷口の熱が引いていくわけではないのに、体が軽くなる。力が、湧き上がってくる。
不思議だ。これが 最高天使(イリゼ) の力なのか。それとも、ただ俺がようやく本当の気持ちに触れただけなのか。
俺は両手でアストラルフレイムを構えた。
悪魔はさらに一歩降りてくる。嘲りとも、愉快がっているとも取れる笑みを浮かべて。
「真実の愛だの 幻想(げんそう) だ。今さら『守る』などと口にするな。お前の剣は、いつも遅い。お前の 決意(けつい) は、いつも 脆(もろ) い。……ほら、見ろ。お前の血が、螺旋を下へ下へと流れていく。まるでお前の人生のように、ただ落ちていくだけだ」
悪魔の声が甘く、優しく、耳の奥に溶け込む。まるで 催眠術(さいみんじゅつ) のように、足から力が抜けていく。
視界が暗くなる。息が熱い。肺が焼けるように痛い。心臓が爆発しそうだ。 幻覚(げんかく) の中で、銀髪の小さなミユウが泣きながら消えていく。
(違う……これは幻覚だ。今は、あの子だけは守るんだって決めたんだ。絶対に……)
悪魔が最後に、 囁(ささや) くように言った。声が、愛おしげにさえ聞こえる。
「 諦(あきら) めろ、龍夜。お前は最初から、螺旋の底に落ちる運命だったんだ。……一緒に落ちようか? 永遠(えいえん) に。そこなら、過去の 罪(つみ) も、痛みも、全部忘れられるぞ」
その瞬間、悪魔の尾が 鞭(むち) のようにしなり、俺の足を払った。
体が浮く。階段が遠ざかる。手すりが、指先から滑り落ちる。
「落ちろ……!」
俺は 咄嗟(とっさ) に剣を石段に突き刺し、落下を食い止めた。
刃が石を削る耳障りな音が響き、火花が暗闇に散る。腕の筋肉が限界を超えて悲鳴を上げる。
血まみれの指が剣柄から滑りそうになる。痛みが全身を駆け巡る。視界が白く点滅する。
上から、悪魔の優しい笑い声が降ってくる。
「まだ……足掻くのか? 可愛いな、人間。お前のような弱者が、なぜここまで……」
俺の視界が暗くなる。体が重い。心が折れそうになる。あの日の後悔が、悪魔の言葉と混じり合って、俺を底なしの闇へ引きずり込もうとする。息ができない。もう、終わりか——
でも——
「……黙れ! 愛が俺を突き動かしてるんだ!」
血を吐くような声で叫び、剣を握り直した。
悪魔の言葉が頭の中で反響している。螺旋階段の冷たい石が、俺の最後の意地を嘲笑うように冷たい。血の味が口の中に広がる。痛みが、俺を目覚めさせる。
ここで終わるわけにはいかない。絶対に。
悪魔の弱点は真実の愛だ。この愛が、汚れた悪魔なんかに負けるはずはない。
螺旋はまだ、回り続けている。底は、まだ見えない。
だが、俺は這い上がる。必ず。
ミユウの笑顔が、胸の奥で静かに輝いていた。あの柔らかな光が、俺の血に混じって、全身を巡っていく。