作品タイトル不明
第82話 世界を救うつもりはなかった。でも
古城の最深部、 黒曜石(こくようせき) の塔。
果てしない螺旋階段は、冷たく湿った空気を 孕(はら) みながら、闇の底から天井知らずの虚空へと 捩(ね) じれ上がっていた。
石壁には 苔(こけ) がびっしりと生え、ところどころに古い血痕のような赤黒い染みが残っている。
松明(しょうめい) の炎が風に 煽(あお) られるたび、赤と黒の影が壁を 這(は) い、まるで生き物のようにうねっていた。
一歩踏み外せば、数百メートルの 奈落(ならく) 。足元の石段は濡れて滑りやすく、 僅(わず) かな油断が命取りになる。
俺は荒い息を吐きながら、階段を駆け上がっていた。
「はっ……! はっ……! ぜ、はぁ……っ!」
魔王の呪いが刻んだ心臓病が、激しい運動と緊張で一気に暴れ出した。
呼吸は浅く、鋭く、喉の奥に刃物が突き刺さったみたいに痛い。
肺が焼ける。心臓が不規則に跳ね、胸の奥で鉄の鎖が締め付けるような感覚が何度も何度も繰り返される。
息を吸うたび、肺が縮こまって、吐き出すたび、胸が裂けそうな痛みが走る。
黒髪は汗で額にべったりと張り付き、視界を邪魔する。学校の制服は汗を吸い尽くしてずっしりと重く、布地が肌に貼りついて動くたびに不快な音を立てる。もう限界だった。
俺は剣を左手で握ったまま、右手で襟を 掴(つか) んだ。ボタンがぱちぱちと弾け飛び、白いシャツの前を乱暴に引き裂く。
肩から袖を 捻(ね) じり出すようにして脱ぎ捨て、上着を階段の段差に叩きつけた。続いてシャツも一気に引きちぎる。汗に濡れた胸板と腹筋が 露(あらわ) わになった。
肌は異様に青白く、古い傷跡が浮き出ている。流れている汗は、運動で出る爽快なものじゃない。
冷たく、粘つく、まるで死の予感を 纏(まと) ったような汗だ。 滴(しずく) が石段に落ちて、ぽたり、ぽたりと小さな音を立てる。その音が、俺の心臓の鼓動と重なって、妙に耳に残る。
数段上。
ラフィセルが振り返り、 愉(たの) しげに目を細めた。
「へぇ……面白いね、龍夜くん。それじゃあ、僕も本気を出そうかな」
優雅にマントの留め金を外し、 漆黒(しっこく) の布を 翻(ひるがえ) して投げ捨てる。
現れたのは透けるように白い肌と、細く引き締まった筋肉。胸の中央に 紅(くれない) い宝玉が埋め込まれているかのように、不気味に脈打っている。
汗などかいていない。まるでこの戦いを楽しむための、完璧に作られた舞台装置のようだった。
「逃げるのかい? それとも――」
低い、 嘲(あざけ) るような声が石壁に反響する。
「この塔の頂で、我が王座に 跪(ひざまず) くまで、永遠に追いかけてあげるよ」
虚空の鎌が、生き物のようにびくりと震えた。刃から黒い炎が 噴(ふ) き出し、階段の空気を 焦(こ) がす。
俺は数段下で剣を構え直した。アストラルフレイムが、俺の怒りを映すように真っ赤な炎を纏い、刃全体が赤熱して 唸(うな) っている。
「跪くのは――お前だ、ラフィセル」
声は 掠(かす) れていた。でも、決意だけは揺るがなかった。
「必ず、魔王を倒す!」
次の瞬間、二人の刃が激突した。
ガァァンッ!!
金属の絶叫が螺旋階段全体を震わせ、衝撃波が石壁を 抉(えぐ) る。
火花が無数に散り、黒炎と 蒼(あお) い光が渦を巻いて絡み合う。虚空の鎌が上段から振り下ろされ、俺は両手で剣を構えて受け止めた。衝撃が骨まで響き、石段がぱきんと音を立ててひび割れる。
体勢が崩れ、背中が虚空に傾く。奈落の冷たい風が背筋を 撫(な) でる瞬間――俺は歯を食いしばり、全身の力を込めて鎌を押し返した。ラフィセルの腹を狙って、渾身の突きを放つ。
ラフィセルは薄く翼を広げ、後方へ跳んだ。螺旋の外壁に足を着け、重力を嘲笑うように体を反転させる。そのまま回転しながら斬りつけてくる。刃が空気を切り裂き、凄まじい風圧が俺の髪を逆立てる。
俺は階段の手すりに片足をかけ、体を捻ってかわした。剣先が石の手すりを深く削り、破片が闇の底へと落ちていく。鈍い音が遥か下方で響き、消えた。
「はははっ! 素晴らしい 足捌(あしさば) きだ! だがこの螺旋は僕の領域――重力すら、僕の味方だよ!」
ラフィセルが 哄笑(こうしょう) すると同時に、胸の紅い宝玉が激しく輝いた。階段全体が傾くような錯覚。体が浮き上がりかける。
このままじゃ、 埒(らち) が明かない。
でも、この身体で「それ」を解放するのは危険すぎる。心臓がもう、悲鳴を上げている。限界が近い。いや、もうとっくに越えているのかもしれない。
それでも――。
俺は息を止めた。意識を一点に集中させる。掌を握りしめ、爪が肉に食い込んで血が 滲(にじ) む。視界が狭まり、世界が金色に染まる。
地鳴りがした。
螺旋階段の石壁が、びりびりと震え、細かなひびが入る。
「うおおおおおおおおっ!!」
目を閉じ、低く、獣のような 咆哮(ほうこう) を上げた。
瞬間、俺の全身を黄金のオーラが包み込んだ。光は爆発的に膨張し、階段全体を照らし出す。
空気が焼け、熱風が渦を巻く。髪が逆立ち、瞳が金色に輝き、背中から光の翼のような残像が広がった。
体の中から、何かが溢れ出してくる。抑え込んでいた力が、 堰(せき) を切ったように解き放たれる。痛みさえ、熱に変わっていく。
「な……なんだ、これはっ!?」
ラフィセルが初めて――本物の衝撃に目を見開いた。虚空の鎌が手から滑り落ち、石段に転がる。
次の瞬間、俺の身体から放たれた黄金の爆風がラフィセルを直撃した。
「こ……こんなはずでは……っ!」
叫びが途切れ、彼の姿が光の中に飲み込まれる。黒い翼が千切れ、紅い宝玉が砕け散り、肉体が粉々に砕かれながら闇の彼方へ消えていった。
静寂が訪れた。
俺は目を閉じたまま、ラフィセルの気を探る。殺気も、存在も、何も感じられない。完全に、消え去った。
でも――その 刹那(せつな) 。
「ぐあっ……!」
心臓が激しく 痙攣(けいれん) した。まるで誰かに 鉄槌(てっつい) で叩き潰されたような痛み。視界が白く 霞(かす) み、膝が折れる。胸を押さえ、階段に倒れ込んだ。体が痙攣し、息が吸えない。
喉が締まり、肺が縮こまる。冷や汗が滝のように流れ、指先が 痺(しび) れて感覚がなくなる。意識が遠のき、死の匂いが 鼻腔(びこう) を満たす。体が言うことを聞かず、ただ震えるだけだ。心臓が、止まりそうで、止まらない。痛みが波のように押し寄せては引いて、また押し寄せる。
「龍夜くんっ! 」
ミユウの悲鳴が響いた。彼女が駆け寄り、俺の体を抱きしめる。柔らかな羽根が頬に触れ、温もりが伝わる。彼女の匂い、彼女の鼓動、彼女の涙――それだけが、俺をこの世界に繋ぎ止めている。
今までなら、この胸に額を預けただけで、どんな痛みも疲れも溶けていった。彼女の温かさが、俺の全てを 癒(いや) してくれた。でも今回は違う。魔王の呪いは 執拗(しつよう) で、容赦なく俺を 蝕(むしば) む。心臓が引き裂かれるような痛みは、彼女の腕の中でも消えない。
「お願い、しっかりして……! 死なないで、龍夜くん……! 」
ミユウの声は震え、もはや祈りに近かった。涙が俺の頬に落ちる。その一滴一滴が、熱くて、痛くて、愛しくて。
俺は震える指で、彼女の白い羽根を握りしめた。 喘(あえ) ぎながら、掠れた声で呟く。
「お……俺が、今まで……何かに、負けたこと……あ……あったか……?」
ミユウは激しく首を振った。あの剣術大会。どんな強敵にも、どれだけ傷を負っても、俺は一度も膝を折らなかった。
その記憶が、彼女の瞳に 蘇(よみがえ) る。彼女の瞳に映る俺は、いつも強かった。いつも、彼女を守るために立っていた。
「俺は……絶対に、負けねぇ……」
力を振り絞り、ミユウの頬を両手で挟んだ。冷たい唇が触れ合い、熱い息が交錯する。淡い金色の光が二人を包み、死の恐怖を押し 退(しりぞ) け、代わりに燃え上がる闘志へと変えた。彼女の涙が、俺の唇に触れる。その味は、塩辛くて、甘くて、生きている証みたいだった。
光が収まると、俺はゆっくりと立ち上がった。胸を押さえながら、しかし確かな足取りで。
魔王の玉座の間まで、螺旋階段はまだ果てしなく続いているように見えた。
それでも俺は、ミユウの手をしっかりと握り、痛みを噛み締めながら、一段、また一段――踏み締めるように登り始めた。
世界を救うつもりなんて、最初からなかった。
でも、彼女だけは――この腕の中に、絶対に守り抜く。
たとえこの心臓が砕け散ろうとも。