作品タイトル不明
第79話 揺るがぬ選択
虚空黒王城(きょくうこくおうじょう) の前に立った瞬間、俺は息を呑んだ。
夜の闇を切り裂くようにそびえ立つ漆黒の城は、ただそこにあるだけで周囲の現実をねじ曲げていた。
黒曜石(こくようせき) でできた無数の尖塔は、空そのものを貪る獣の牙のように天を刺し、星の光さえ飲み込んでいた。
反射するどころか、光を吸い尽くす。塔の表面は鏡のように滑らかで、なのに何一つ映さない。ただ深い、底なしの黒がそこに広がっているだけだ。
城壁には無数の棘が逆さに生え、まるで生き物のように微かに蠢いている。
表面を這う闇の霧は、絶え間なく渦を巻きながらゆっくりと回転し、触れたものを内側から腐らせるような粘つく気配を放っていた。
近づくだけで肺が圧迫され、心臓が不規則に跳ねる。
空気は重く、冷たく、音すら吸い取られる。風は存在を失い、耳元でかすかに聞こえていたはずの自分の呼吸さえ、遠くの幻のように感じる。
月も星も、何も見えない。
虚空黒王城の周囲だけが、永遠に続く暗黒の穴のように、世界から切り離されていた。
「……行くぞ」
俺はミユウの手を強く握りしめた。
その小さな掌は、わずかに震えていた。でも彼女は逃げようとはしなかった。
ただ俺の顔をじっと見つめて、静かに頷く。
言葉はもう必要なかった。
俺たちは闇の中へ、一直線に走り出した。
魔界の侵入口を抜けた瞬間だった。
無数の低級悪魔が、まるで地面から湧き出るように立ち塞がった。
赤く燃える瞳、裂けた口から滴る涎、歪んだ四肢。火の息を吐きながら、低く唸る声が重なり合って不協和音になる。
鋭い牙が月光のない闇の中で白く光り、爪が空を掻く音が耳障りに響く。異様に長い舌が、獲物を味わうように空気を舐め回していた。
「邪魔だっ! 」
俺は即座に右手を掲げた。
アストラルフレイムが青白い炎の渦となって炸裂する。
炎は音もなく広がり、触れた悪魔の肉体を一瞬で炭化させた。
焼け焦げる臭いが鼻をつき、絶叫が廊下の奥まで反響する。
火の光に照らされた壁面では、黒い影が不規則に踊り、空間そのものが歪んで見えた。
闇の中で跳ねる無数の黒いシルエットは、まるで生きている悪意そのものだった。
一瞬の静寂。
「ふぅ……っ」
深く息を吐くと、ミユウが心配そうに俺を見つめた。
彼女の瞳は怯えと、でもどこか信頼を宿して俺を見上げている。
「龍夜くん? 」
「あぁ、大丈夫だ。行くぞ。俺から離れるなよ」
俺は無理やり口角を上げて笑ってみせた。
でも――胸の奥で、何かが軋んでいた。
魔界に入ってからずっと、心臓のあたりに細い棘が刺さっているような違和感が続いていた。
最初は気のせいだと思っていた。緊張のせい、疲労のせい。でも今は違う。
ちくちくと、時折鋭く刺す痛みが、徐々に間隔を狭めてきている。
息を吸うたびに肺の奥が引っかかり、吐くときに何か重いものが胸郭に残る。
――だめだ。ミユウに悟られるわけにはいかない。
俺は深く息を吐き、肩の力を抜いて痛みを誤魔化した。
彼女の前では、弱さを見せられない。見せてはいけない。
虚空黒王城の内部は、外観の百倍異様だった。
細長く、果てしなく続く暗い廊下。
壁も天井も黒曜石で覆われ、光を一切通さない。
足元の床には無数の亀裂が走り、歩くたびに微かに揺れているような錯覚を覚える。
空気は冷たく淀み、肺に入るたびに鉄の錆のような味がした。静寂を破るのは、遠くで囁くような小型悪魔の声だけ。
「侵入者が来たぞ……! 」
「魔王様の餌だ……! 」
その声が近づいてきた。
影の中から、一匹の小型悪魔が飛び出した。
細長い体に異様に長い爪。歪んだ口元から赤黒い液体が滴り落ち、床に落ちるたびに小さな煙を上げた。
次の瞬間――そいつはミユウの肩に飛びついた。
「や……っ! 」
彼女の悲鳴が、鋭く響いた。
「やめろ!! 」
俺は反射的に悪魔の胴を掴み、渾身の力で地面に叩きつけた。
骨が砕ける音。続けて放ったアストラルフレイムが、悪魔の体を貫通し、光の粒子に変えて消し去った。
燃え尽きる臭いと、ガラスが割れるような微かな残響だけが残る。
「はぁ……はぁっ……」
終わった、と思った瞬間だった。
胸の奥で、何かが弾けた。
今までのちくちくとした痛みが、一気に爆発した。
心臓が握り潰されるような、息が詰まるような激痛。視界が白く霞み、膝から力が抜ける。俺は思わずその場に膝をつき、胸を強く押さえた。
――なんだ、これ。
息ができない。
吸おうとしても空気が入ってこない。吐こうとしても、喉の奥で詰まる。
心臓が不規則に暴れ、肋骨の間を何本もの針が突き刺すように痛む。額から汗が一気に噴き出し、視界の端が暗転していく。
(やばい……なんだ、これ? 今? ここで?)
頭の片隅で冷静な自分が呟く。
でも体は言うことを聞かない。指先が震え、握っていたはずのミユウの手が、だんだん遠く感じる。
――だめだ。
こんなところで倒れるわけにはいかない。
ミユウが、俺を信じてる。
俺がいなくなったら、彼女は――
世界を救うつもりなんて、最初からなかった。
英雄になりたいわけでも、魔王を倒して称賛されたいわけでもない。
ただ――彼女だけは、守りたかった。
この痛みごと、この命ごと、全部投げ出してでも、ミユウの前でだけは「大丈夫だ」と言いたかった。
「……っぐ、はぁ……っ」
喉から鉄の味がした。
痛みの味だ。
(まだだ……まだ終わってない……! )
俺は歯を食いしばった。
爪を床に立て、ゆっくりと体を起こす。膝が震え、視界が揺れる。でも――立ち上がった。
額の汗を乱暴に拭い、ミユウの方を見た。
彼女の瞳は大きく見開かれ、恐怖と心配で揺れている。
「龍夜くん……!? 」
「――平気だ」
声が掠れた。嘘だって、自分でも分かる。
でも俺は、精一杯の笑みを浮かべて言った。
「ちょっと、息が上がっただけだ。すぐ治る」
ミユウは唇を噛み、俺の手を強く握り返した。
その小さな力が、俺の意識を現実につなぎ止める。
「……絶対、嘘つかないで」
「嘘じゃねぇよ」
俺はもう一度、深く息を吸った。
痛みはまだ引かない。でも――耐えられる。
彼女のためなら、耐えられる。
「行くぞ、ミユウ」
俺は再び彼女の手を握り、闇の奥へと足を踏み出した。
虚空黒王城の廊下は、まだ果てしなく続いている。
遠くで、無数の悪魔の気配が蠢き始めていた。
でも俺は、もう迷わない。
世界なんかどうでもいい。
ただ――この子だけは、守る。
胸の激痛を押し殺しながら、俺たちは闇の奥へと進んだ。