作品タイトル不明
第78話 守ると決めたその手
数日後、ミユウの出席日数を補うため、俺たちはアストリアへ戻った。
石畳(いしだたみ) の道を踏みしめた瞬間、胸の奥に溜まっていた重い息が、ゆっくりとほどけていくのを感じた。
視界いっぱいに広がる 草原(そうげん) は柔らかな緑に染まり、風が吹くたびに波のように揺れる。甘い花の 香(かお) りが 鼻腔(びこう) をくすぐり、どこか 懐(なつ) かしい温度を帯びた空気が頬を 撫(な) でた。
ラステルとは、まるで違う。
ラステルは石と鉄の匂いが混じる 都市(とし) だった。
高く積み上げられた 建物(たてもの) 、絶え間なく行き交う 人波(ひとなみ) 、 商人(しょうにん) の声、 鍛冶場(かじば) の 火花(ひばな) 。
常に何かが動き、何かが 軋(きし) み、何かがぶつかり合っている。そこに立っているだけで、 否応(いやおう) なく戦いの予感を 背負(せお) わされる場所だった。
だがアストリアは違う。
ここには、 急(せ) き立てるような 喧騒(けんそう) はない。空は広く、雲はゆっくりと流れ、子どもたちの笑い声が遠くで 弾(はず) む。 時間(じかん) が、 穏(おだ) やかに息をしている。
長い戦いの 記憶(きおく) も、 身体(からだ) に 刻(きざ) まれた 疲労(ひろう) も、この空気の中では少しだけ遠ざかる。
魔界(まかい) の黒い空、血の匂い、 刃(やいば) のぶつかる 衝撃(しょうげき) 。それらが 幻(まぼろし) のように 霞(かす) んでいく。
今日は、ミユウの学校でバレーボールの試合があるらしい。
最高天使(イリゼ) を決める、大切な日。
その言葉を口にしたときのミユウの目は、 戦場(せんじょう) に立つ俺と同じ光を宿していた。
あいつは、ただの遊びだなんて思っていない。自分の 居場所(いばしょ) を、自分の手で 掴(つか) もうとしている。
昼頃、俺は落ち着かない足取りで学校へ向かった。
校門(こうもん) をくぐると、 乾(かわ) いた土の匂いと、汗の混じった熱気が流れ込んでくる。
グラウンドの 一角(いっかく) に 張(は) られた白いネット。その向こう側で、まだ試合は続いていた。
ぱん、と 鋭(するど) い音が鳴る。
ボールが空気を 裂(さ) き、 弧(こ) を 描(えが) いて落ちる。
ミユウが、 跳(と) んだ。
その瞬間、俺は息を 呑(の) んだ。
高い。
誰よりも高く。
細い身体が、信じられないほどの高さまで舞い上がる。 陽光(ようこう) を背に受けたその姿は、まるで本当に 天使(てんし) みたいだった。
腕(うで) が振り 抜(ぬ) かれる。
叩(たた) きつけられたボールは、重い衝撃音とともに相手コートへ 突(つ) き 刺(さ) さる。
土煙(つちけむり) が小さく上がり、相手の 守備(しゅび) は 一歩遅(おく) れた。
歓声(かんせい) が上がる。
だがミユウは止まらない。レシーブ、トス、そして再び 跳躍(ちょうやく) 。息を 荒(あら) げながらも、目だけは 澄(す) んでいる。
あいつは覚えているのだろう。
剣術大会(けんじゅつたいかい) での俺の戦いを。
逃(に) げないこと。最後まで 諦(あきら) めないこと。自分の 一撃(いちげき) を信じること。
それを、あいつは自分の戦場に持ち込んでいる。
相手の 強烈(きょうれつ) なスパイクが飛ぶ。ミユウは 滑(すべ) り込むようにして受け止める。土が舞い、 膝(ひざ) が 擦(す) れる。それでも立ち上がる。
仲間(なかま) たちの声が飛ぶ。
もう一度、ボールが上がる。
そして最後の一撃。
全身(ぜんしん) を使った 渾身(こんしん) のスパイクが、相手コートの 奥深(おくふか) くへ叩き込まれた。
笛(ふえ) が鳴る。
短く、しかしはっきりとした 勝利(しょうり) の合図。
わっと歓声が響き渡る。チームメイトに 囲(かこ) まれ、ミユウはもみくちゃにされていた。笑い声、涙声、 弾(はず) む息。
その中で、ふと顔を上げたミユウの視線が俺を 捉(とら) える。
次の瞬間、あいつは仲間の輪を 抜(ぬ) け出し、 一直線(いっちょくせん) に 駆(か) けてきた。
勢いのまま、俺の胸に飛び込む。
「 龍夜(りゅうや) くん! 見てた? 今の! 」
息を 弾(はず) ませ、 額(ひたい) に汗を浮かべ、 頬(ほお) を 紅潮(こうちょう) させながら、子どものように笑う。
「ああ、見てたよ。 凄(すご) かった」
本心(ほんしん) だった。
戦い方は違う。だが、あいつは間違いなく戦っていた。
周囲(しゅうい) でざわめきが起こる。
「 救世主様(きゅうせいしゅさま) ? 」
「あの剣術大会で 優勝(ゆうしょう) した人? 」
視線が集まる。 興味(きょうみ) 、 尊敬(そんけい) 、 憧(あこが) れ。ラステルで得た 名声(めいせい) が、ここアストリアにも届いているらしい。
だが俺の胸にあるのは 誇(ほこ) りよりも、別の感情だった。
ミユウは俺の服を 掴(つか) み、ぐっと引き寄せる。
「龍夜くん! わたし、わたしね、この試合で優勝したら……! 」
言葉が 弾(はず) みすぎて、続かない。
「分かったから。落ち着け」
背中をさすりながら、俺はあいつの 鼓動(こどう) を感じていた。早い。熱い。生きている音だ。
その 温(ぬく) もりが、急に 怖(こわ) くなる。
魔界での戦いが、 脳裏(のうり) をよぎる。 悪魔(あくま) の 咆哮(ほうこう) 、黒い刃、血の 飛沫(しぶき) 。
ここはアストリアだ。静かで、優しい場所だ。
だからこそ思う。
「……一人で行く」
口をついて出た声は、思った以上に低かった。
「え? 」
ミユウの目が揺れる。
本気(ほんき) だった。あいつを、あの 闇(やみ) に巻き込みたくない。 傷(きず) つく姿を、見たくない。
だがミユウは、はっきりと首を 振(ふ) った。
「いやよ。わたしも一緒に戦う」
迷いのない声。
さっきまで笑っていた 瞳(ひとみ) が、今は強い光を宿している。俺の服を 握(にぎ) る手に、力がこもる。
守(まも) られるだけの 存在(そんざい) で終わるつもりはない。そう言っている。
胸の奥が、熱くなる。
俺は深く息を 吸(す) い込んだ。
「分かったよ。けど、俺が 絶対(ぜったい) に守る」
それだけは 譲(ゆず) れない。
世界(せかい) を 救(すく) う気なんて、今もない。
正義(せいぎ) のためでも、名声のためでもない。
ただ、目の前にいるこの 少女(しょうじょ) と、笑って 未来(みらい) を 迎(むか) えたいだけだ。
魔王(まおう) を 倒(たお) す。
その先にある、ミユウとの 日常(にちじょう) を手に入れるために。
俺はあいつの手を取った。
温かく、小さな手。
アストリアの穏やかな風が、背中を 押(お) す。
ラステルの 喧騒(けんそう) も、魔界の闇も、すべて 越(こ) えていく。
守る。
何があっても。
この手だけは、 離(はな) さない。