作品タイトル不明
第73話 君の祈りを背に
「 龍夜(りゅうや) くん、大丈夫? 」
かすれた声が、すぐそばで震えていた。
「ああ……大丈夫だ」
そう答えたものの、足元はまだ頼りない。ルシアンの黒煙の 後遺症(こういしょう) が肺の奥に残り、 呼吸(こきゅう) は浅く、胸の奥がじわりと焼けるように痛む。視界の端がわずかに揺れ、世界が遠のきそうになる。
それでも俺は、ミユウの肩に腕を回し、 選手控(せんしゅひか) え室へと戻った。
扉が閉まると、外の歓声が遠ざかる。石造りの壁に囲まれた静かな空間。薄い灯りが天井から落ち、俺たちの影を床に長く引き伸ばしていた。
椅子に深く腰を下ろし、胸に手を当てる。何度も、何度も、ゆっくりと息を吸い、吐く。
吸って。
吐いて。
乱れた鼓動を押さえ込む。
「はい、水」
ミユウが差し出した水筒を受け取り、口をつける。冷たい水が喉を通り、熱を帯びた身体を内側から静めていく。
「……これ、毒とか入ってねーよな」
軽口のつもりだった。
けれど。
「……っ、もう! 」
頬をふくらませ、ぽかぽかと俺の胸を叩くミユウ。その仕草があまりにも愛らしくて、思わず笑みがこぼれた。
「わ、痛っ。悪かったって」
彼女の両手を捕まえ、そっと引き寄せる。華奢な身体がふわりと近づく。
「お前、よく笑うようになったな」
「あ……」
ミユウの瞳が、ほんの少し揺れた。
あの日。海賊に襲われ、全てを奪われかけたあの日。
彼女の笑顔は消えた。花のようだった表情は凍りつき、人形のように動かなくなった。
あのとき、俺は何もできなかった。
だからこそ。
今、こうして目の前で笑っている姿が、奇跡のように思える。
指先で彼女の頬に触れる。やわらかく、あたたかい。
やがて呼吸は整い、身体の痺れも消えていった。黒煙の 呪縛(じゅばく) は完全に解けたのだと、はっきりとわかる。
ミユウは床に座り込み、俺を見上げている。ポケットから白いハンカチを取り出し、額の汗を拭ってくれた。
ただの布切れのはずなのに、不思議と心が静まる。
彼女の指先は震えているのに、その動きは優しい。
「……良かった」
そう呟いた笑顔は、もう以前の無邪気なだけのものではなかった。
凛(りん) として、静かで、どこか覚悟を宿している。
守られるだけの少女ではない。
それでも――守りたいと思わせる光。
「次の敵は……今までの比じゃない」
胸の奥がざわつく。
まだ 闘技場(とうぎじょう) に立ってもいないのに、遠くから震えるような 殺気(さっき) が伝わってくる。
「離れているのに、わかるんだ。あいつは強い」
「龍夜くん……」
「だから、もう一度、俺に力を貸してくれ」
彼女の頬を両手で包む。桜色に染まるその肌が、指先に熱を残す。
「お前が信じてくれるなら、俺は負けない」
その言葉に偽りはない。
本当は。
今すぐ抱きしめて、離れないと誓って、どこか遠くへ連れ去ってしまいたい。
誰にも触れさせたくない。
壊したいほどに愛おしい。
だが、それは違う。
壊すのではない。
守るのだ。
俺はそっと、彼女の唇に触れた。
一瞬の、淡い 接吻(せっぷん) 。
それだけで、血が巡る。恐れが溶ける。心が澄み渡る。
離れたとき、ミユウは潤んだ瞳で俺を見つめていた。
その瞬間。
控え室の扉が、重々しく開いた。
空気が変わる。
凍りつくような圧力が、部屋を満たす。
北(きた) の 国(くに) の 国王(こくおう) と呼ばれる男。
世界最強の 剣士(けんし) 。
アルス。
長身の影がゆっくりと差し込む。腰には銀色の二刀が揺れている。その刃は鞘に収まっているにもかかわらず、むき出しの殺意を放っていた。
氷のような視線が、真っ直ぐにミユウへ向けられる。
咄嗟に、俺は彼女を背後に 庇(かば) った。
「ふぅん。それが貴様の弱点か」
低い声が、石壁に反響する。
「カイル、ボーガン、ルシアン……。倒して浮かれているのだろうが」
ゆっくりと歩み寄るたび、床が軋む。
「そう上手くいくと思うなよ」
目が合った瞬間、背筋が凍った。
これまでの敵とは次元が違う。
力の質が違う。
まるで巨大な刃そのものが、人の姿を取っているかのようだ。
「次の試合で、貴様は俺の前に 跪(ひざまず) く」
静かな断言。
「どこまで強くなったか、試させてもらうぞ」
言い終えると、アルスは 踵(きびす) を返し、扉の向こうへ消えた。
重たい沈黙が残る。
ミユウの指が、そっと俺の袖を握る。
「龍夜くん……怖い」
小さな声。
俺も怖い。
けれど、それを見せるわけにはいかない。
「大丈夫だ」
彼女の手を握り返す。
「どんな相手でも、俺は負けない」
強く。
強く。
彼女の温もりを確かめる。
もし、この身体が壊れたとしても。
立てなくなったとしても。
それでも。
守る。
それだけは、揺るがない。
遠くで再び歓声が上がる。
決戦の 刻(とき) が近い。
扉の向こうに広がる光と喧騒。
その中心に、アルスは立っているのだろう。
俺はゆっくりと立ち上がる。
足はもう震えていない。
胸の奥で、静かな炎が燃えている。
それは怒りでも憎しみでもない。
ただ、守りたいという想いだけでできた炎。
ミユウがそっと微笑む。
その笑顔が、俺の背中を押す。
扉に手をかけた瞬間、ほんのわずかに振り返る。
彼女の姿を、目に焼きつける。
それが俺の帰る場所。
深く息を吸う。
そして、光の中へ踏み出した。
背後で、ミユウの祈るような気配が静かに揺れている。
そのぬくもりを胸に抱いたまま。
決戦の舞台へ、俺は歩いていった。