軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第71話 人間界に背を向けて

「また、勉強してたのか? 」

ボーガンとの死闘を終え、選手控え室に戻った俺は、思わず足を止めた。

長机の上いっぱいに教科書や試験用紙が広げられ、その向こうでミユウが真剣な顔つきでペンを走らせている。蛍光灯の白い光が彼女の銀髪を淡く照らし、肩先にかかる細い髪が、さらりと揺れた。

「龍夜くん! 」

俺に気づいた瞬間、ぱっと花が咲いたように表情を輝かせ、ぴょんと椅子を離れて駆け寄ってくる。その勢いのまま胸に飛び込まれ、俺は慌てて抱き止めた。

腕の中の身体は驚くほど熱い。頬は火照り、目の下には薄く隈くまが浮かんでいる。

「そんなに無理しなくても、大丈夫なんじゃないか? 」

問いかけると、ミユウは首を横に振った。

「だって、 総合順位(リザルト) で一位にならないと、 最高天使(イリゼ) になれないもの。 実技(じつぎ) に出られない分、 筆記試験(ひっきしけん) で頑張らなきゃ」

そう言って、するりと俺の腕を抜け、また机へ戻る。背筋を伸ばし、黙々と答案に向き合う横顔は、どこか痛々しいほどに凛としていた。

地球にいた頃の自分を思い出す。授業を抜け出し、漫画ばかり読んでいた日々。将来のことなど深く考えもしなかったあの頃の俺が、いまこの光景を見たら何と言うだろう。

自嘲(じちょう) が胸の奥で苦く滲む。

俺は彼女の隣に腰を下ろした。すると、緊張の糸が切れたのか、ミユウがそっと肩に頭を預けてくる。

「少し、だけ……」

小さな声。触れ合う体温が、戦いの名残で冷えかけていた俺の心をゆっくり溶かしていく。

「水だ。アストリアの 海水(かいすい) を薄めた。 疲労回復(ひろうかいふく) に効くらしい」

水筒を差し出すと、彼女は両手で受け取った。

「ありがとう。美味しい」

喉を鳴らして飲み干すと、ほうっと息をつく。その吐息が、ほんのり桜色に染まった頬を震わせた。

しばしの沈黙。遠くから、観客席のざわめきがかすかに届く。

「……ボーガンの 幻覚(げんかく) でな」

俺は口を開いた。

「お前がいない人間界での生活を見せられた」

あの陰湿な術。色を失った街。誰の笑顔もない日常。そこにミユウの姿だけが欠けていた。

胸が締めつけられる。

「お前がいない生活なんて、考えられなかった。あそこに居続けたら、俺はきっと、何も変われなかった」

強さを求める理由も、戦う意味も持たず、ただ流されるだけの自分。

「お前が教えてくれたんだ。本当の強さは、守りたい人ができた時に与えられるって」

「龍夜くん、わたしは別に何も……」

戸惑いに揺れる瞳。俺は椅子から立ち上がり、彼女の前に 跪(ひざまづ) いた。驚いたように瞬くその目を、まっすぐ見つめる。

左手をそっと取る。細く、温かな指。

「俺はもう、人間界には戻らない」

言葉にした瞬間、不思議と迷いは消えた。

「ずっとここにいて、お前を守る」

それが俺の選んだ道だ。

「そんな……龍夜くんの家族は……? 」

震える声。大粒の涙がこぼれ落ちる。

「母さんたちは、俺がここまで成長したことを喜んでくれるはずだ」

嘘ではない。俺はようやく、自分の意志で未来を選んだのだから。

ミユウは堪えきれず、俺に抱きついた。細い腕が背中に回る。肩越しに伝わる鼓動は早く、それでも確かに生きている証のように温かい。

静かな時間が流れる。互いの呼吸が重なり、世界が二人だけに縮まっていく。

その時、不意に扉が開いた。

「カイルも、ボーガンも倒すとは。 噂(うわさ) 通り、大したものね」

凛とした女の声。

振り向くと、深紅の装束に身を包んだ剣士が立っていた。燃えるような赤髪。鋭い眼差しが、まっすぐ俺を射抜く。

「わたしは西の 赤(あか) い 河(かわ) の国の代表、ルシアン。あなたの頭脳、試させてもらうわ」

外道な罠や幻惑ではなく、純粋な実力で斬り結ぶという自負が、その立ち姿から伝わってくる。

俺は咄嗟にミユウを抱き寄せた。彼女の肩がびくりと震える。

「龍夜くん……」

「大丈夫だ」

耳元で囁き、強く抱きしめる。彼女の髪から甘い香りが立ちのぼり、胸の奥に静かな炎が灯る。

人間界で死に物狂いで学んだ医学の知識。 解剖学(かいぼうがく) 、 神経伝達(しんけいでんたつ) 、筋肉の構造。あの頃はただ未来を掴むための手段だった。それがいま、戦いの中で生きている。

剣筋の癖、呼吸の乱れ、視線の動き。すべてが読み取れる。

俺はゆっくりと息を吐いた。

恐れはない。ただ、守るべき存在が背後にいる。それだけで十分だ。

控え室を出ると、闘技場の光が眩しく差し込む。観衆の歓声が波のように押し寄せる。

背後から、ミユウの声がかすかに届いた。

「龍夜くん、お願い……」

振り返らない。振り返れば、きっと迷いが生まれる。

拳を握り締める。爪が掌に食い込む痛みが、決意をさらに固めた。

どんな相手でも負けない。どんな策でも打ち破る。

俺はもう、弱かった頃の自分ではない。

世界を救うつもりはない。ただ一人。

彼女だけを、守り抜く。