軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第70話 俺の居場所

審判の合図が、乾いた金属音となって闘技場に響き渡った。

その瞬間、俺はアストラルフレイムを構えた。柄を握る手のひらに、これまで積み重ねてきた訓練の記憶が滲む。砂の匂い、歓声、張り詰めた空気。すべてが一つの線となって、俺の背筋を貫いていた。

だが、対峙するボーガンは、まるで散歩の途中で立ち止まった老人のように微動だにしない。剣を抜く様子もなく、ただ細身のステッキをくるりと指先で回し、口元に薄い笑みを浮かべている。

「もう、疲れたでしょう? 」

甘ったるい声が、空気を震わせることなく、直接脳裏に落ちてきた。

「戦いたくないのに、戦わされて」

視界が一瞬、揺らぐ。こめかみの奥がじんと熱を帯び、足元の砂が遠くなる。

「……やめろ」

喉から絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。

「あなたが望んでいたのは、もっと穏やかな日々だったはずです。昼はゴブリン退治のような軽い仕事をこなして、ハンモックで昼寝をして、夜は星を数えて眠る。責任も重圧もない、優しい世界」

闘技場の景色が溶け、黒い幕が降りる。

次に目を開けたとき、俺は見慣れたアパートの前に立っていた。

薄い灰色の外壁。郵便受けに差し込まれたチラシ。夕暮れの匂い。どこまでも現実味のある風景に、心臓が痛む。

ドアノブに触れる。冷たい金属の感触。押し開けると同時に、弾けるような声が飛び込んできた。

「あっ! にいちゃん! やっと帰ってきたー! 」

妹の葵が、勢いよく胸に飛び込んでくる。軽い体重、シャンプーの匂い。俺は無意識に腕を回し、頭を撫でた。

「なんだ? 龍夜、やっと帰って来たのか? 」

兄の健一が新聞から顔を上げ、苦笑する。台所からはカレーの匂いが漂ってくる。母さんが鍋をかき混ぜながら、振り向きもせずに言う。

「そんなに泥だらけで帰ってきて。早くお風呂入っちゃいなさい」

胸が締めつけられる。懐かしさと安堵が、波のように押し寄せる。

二階の自室に上がると、畳の匂いが鼻をくすぐった。ベッドには柔道着が無造作に置かれ、本棚には異世界転生の漫画が整然と並んでいる。背表紙には「スローライフ」の文字が躍る。

あの頃の俺は、責任を背負う勇気もなく、ただ楽な未来を夢見ていた。異世界に行けば、何もかもがうまくいくと信じていた。

「戻りなさい」

ボーガンの声が、背後から囁く。

「ここはあなたの居場所です。戦う必要など、どこにもない」

学校の風景が重なる。教室のざわめき。三年生の佐々木先輩が、頬を染めて立っている。

「ずっと、好きでした」

差し出された手を、俺は握る。温もりがあるはずのその手は、なぜか空虚だった。皮膚の感触はあるのに、鼓動が伝わってこない。

その違和感が、胸の奥を強く打つ。

違う。

俺が探していた温もりは、こんなものじゃない。

風に揺れる銀色の髪。真っ直ぐな瞳。震えながらも、俺を信じてくれた少女の姿が、闇の奥から浮かび上がる。

ミユウ。

あの日、俺は決めたはずだ。世界を救う覚悟なんてなかった。それでも、彼女だけは守ると。

幻影の空がひび割れ、光が差し込む。家族の笑顔が、粉々に砕け散った。

「なぜ抗うのです」

ボーガンの声が、初めて苛立ちを帯びる。

闘技場の砂の感触が足裏に戻る。落としかけていたアストラルフレイムを、俺は強く握り直した。

「ボーガン。俺は、逃げない」

喉の奥から、熱いものがせり上がる。

「俺の居場所は、ここだ」

地面を蹴り、跳躍する。空気が裂ける音が耳元で弾けた。

ボーガンは眉一つ動かさず、再び精神の波動を放つ。今度は重い。鉛のような圧力が全身を包み、呼吸を奪う。心の奥底に潜む後悔や恐れを掘り起こし、増幅させる力。

膝が折れかける。

そのとき、アストラルフレイムの刃が、淡く震えた。

紫の光が、刀身の内部から滲み出る。まるで、俺の鼓動と呼応するように。

星風剣。

その名を口にした瞬間、剣が応えた。

闘技場の上空に、夜空のような深い蒼が広がる。昼間であるはずの空に、無数の光点が瞬いた。風が渦を巻き、砂を巻き上げる。

星の軌跡が一本の流星となって、俺の刃に集束する。

ボーガンの目が見開かれる。

「精神を、断ち切るだと」

俺は一歩、踏み込んだ。重圧が消える。迷いが剥がれ落ちる。

これまでの敗北、逃げたくなった夜、泣きたいほどの無力感。それらすべてが、今の俺を形作っている。

守りたいものがあるから、立ち上がれる。

「終わらせる! 」

星風剣を振り下ろす。

紫と蒼の光が交差し、轟音とともに爆風が闘技場を包んだ。観客の悲鳴と歓声が混ざり合い、世界が白く染まる。

衝撃が収まったとき、ボーガンは膝をついていた。ステッキは半ばから断たれ、砂に転がっている。

「愚かな……。感情など、脆いだけの力のはず」

「違う」

俺は静かに答えた。

「感情があるから、強くなれる」

ボーガンの身体が、光の粒となって崩れていく。最後に浮かべた表情は、嘲笑ではなく、どこか寂しげだった。

静寂が、闘技場を満たす。

やがて、地鳴りのような歓声が湧き上がった。耳が震えるほどの拍手と叫び。だが、不思議と息は乱れていない。心の奥が、澄み渡っている。

俺は観客席を見上げた。

銀色の髪が揺れる。涙を浮かべながら、それでも笑っているミユウの姿があった。

その笑顔を見た瞬間、胸の奥に温かな光が灯る。

二度と忘れない。

二度と離れない。

世界を救うつもりは、きっと今もない。それでも。

彼女の隣に立つために、俺は戦う。

アストラルフレイムの光が静かに収まり、風が優しく吹き抜けた。

その瞬間、俺はただの少年ではなくなった。

守ると決めた想いを、最後まで貫く者として。

星の風は、確かに俺の背を押していた。