作品タイトル不明
第69話 仮面の影は笑う
「はっ……はぁっ……! 」
カイルを倒した直後の控え区画は、先ほどまでの歓声が嘘のように遠かった。
石壁にもたれかかった瞬間、膝から力が抜ける。胸元に手を当てると、制服の下でぬるりとした感触が広がった。裂けた布の奥から、まだ温かい血がじわじわと 滲(にじ) み出している。
星嵐剣(せいらんけん) の覚醒は、確かにカイルを圧倒した。だが同時に、俺の身体の奥深くまで焼き尽くすような反動を残していった。心臓が 胸郭(きょうかく) を打ち破りそうな勢いで暴れ、肺は空気を求めて浅く 痙攣(けいれん) する。
(……駄目だ。一回戦から、こんな 有様(ありさま) で)
視界の端が暗く揺れる。耳鳴りがして、遠くの 喧騒(けんそう) が波のように押し寄せては引いた。自分の呼吸音だけがやけに大きい。
「はっ……! はっ……! 」
肩が勝手に上下する。悔しさが込み上げた。勝ったはずなのに、立っていることすらままならない自分が情けない。
足音が近づく。
「 龍夜(りゅうや) くん……!」
ミユウが小走りで駆け寄ってくる。銀色の髪が揺れ、その瞳が不安に揺れていた。彼女は震える手で水筒を差し出す。
「アストリアの 海水(かいすい) 、少し薄めてあるの。 塩分(えんぶん) 、 補(おぎな) えるから……」
俺は無言で受け取り、口をつけた。冷たい液体が喉を通り、焼けつくような内側をわずかに 鎮(しず) める。だが胸の痛みは消えない。むしろ鼓動はさらに荒くなり、呼吸は短く、細かく刻まれていく。
「はっ……! はっ……! 」
自分の弱さに腹が立つ。拳を握りしめると、指先が白くなる。
次の瞬間、柔らかな感触が背中を包んだ。
ミユウが俺を抱きしめていた。彼女の大きな 羽(はね) がゆっくりと広がり、俺を 覆(おお) う。淡い光が滲み出し、春の陽だまりのような温もりが、じんわりと身体に染み込んでいく。
彼女の力は派手ではない。ただ静かに、確かに、傷口の熱を奪い、血の流れを 穏(おだ) やかにしていく。汗が引き、裂けた皮膚がゆっくりと閉じる感覚があった。暴れていた心臓も、やがて規則正しい拍動へと戻っていく。
それでも、俺の肩はしばらく震え続けていた。身体が落ち着いても、心のざわめきまではすぐに消えない。
「はい、これ」
ミユウが小さな 掌(てのひら) を開く。そこには、真っ赤に熟した 林檎(りんご) があった。
「さっき、街の 屋台(やたい) で買ったの。龍夜くん、お 腹空(す) くかなって思って……」
俺はそれを受け取り、歯を立てた。しゃり、と軽やかな音がする。みずみずしい 果汁(かじゅう) が口の中に広がり、甘酸っぱい香りが鼻へ抜ける。乾ききっていた身体が、ようやく生き返るようだった。
胸の奥に 溜(た) まっていた怒りと 焦燥(しょうそう) が、少しずつ溶けていく。
「……うまい」
「ほんと?」
「ああ。ありがとう」
そう言うと、ミユウはほっと息を吐いた。その 仕草(しぐさ) が、なぜか胸に 沁(し) みる。
俺は彼女の胸に額を預けた。彼女の左手をそっと握る。そこには、青い 宝石(ほうせき) がはめ込まれた 指輪(ゆびわ) が光っている。ミユウの瞳の色を思わせる、澄んだ 蒼(あお) 。 陽光(ようこう) を受けて、小さく揺れた。
カイルは強かった。 剣技(けんぎ) も 気迫(きはく) も、隙がなかった。だが、次に控える相手は、きっと別種の強さを持っている。力で押し 潰(つぶ) すのではなく、じわじわと精神を 削(けず) るような、そんな敵だ。
その予感は、 的外(まとはず) れではなかった。
やがて控え室の 扉(とびら) が 軋(きし) み、乾いた拍手が響く。
「ほっほっほ。あのカイルを倒すとは。若いのに、大したものですなぁ」
顔を上げると、 細身(ほそみ) の男が立っていた。白を 基調(きちょう) とした衣装に、 奇妙(きみょう) な 仮面(かめん) 。口元は笑っている形に作られているが、目の部分は黒く塗り 潰(つぶ) されている。
何より奇妙だったのは―― 気配(けはい) がないことだ。
闘気(とうき) も、 殺気(さっき) も、まるで感じ取れない。そこに立っているはずなのに、空気が 歪(ゆが) まない。存在の重みが、まるでない。
「わたしは東の 仮面王国(かめんおうこく) の代表、ボーガンと 申(もう) します」
名乗る声は柔らかい。だが、その音の奥に、どこか 湿(しめ) った響きがあった。 洞窟(どうくつ) の奥から 反響(はんきょう) するような、不自然さ。
「次の試合、楽しみにしておりますよ。あなたがどこまで 耐(た) えられるか」
耐えられるか――?
その言葉が妙に引っかかった。
ボーガンは 優雅(ゆうが) に一礼すると、背を向ける。その歩き方は静かで、足音がほとんどしない。布が 擦(こす) れる音だけが、ひそやかに残る。
俺は無意識に、彼の背中を 睨(にら) んでいた。視線が合ったわけでもないのに、ぞわりと 背筋(せすじ) が 粟立(あわだ) つ。
「龍夜くん……あの人……」
ミユウの声が小さく震える。
「ああ。わかってる」
あれは力で 殴(なぐ) る敵ではない。心の隙間に入り込み、足元から崩す 類(たぐい) だ。
俺は深く息を吸う。肺に空気を満たし、ゆっくり吐く。先ほどまで乱れていた呼吸が、今は確かに整いつつある。ミユウの光が残した温もりが、身体の奥に 灯(とも) っていた。
椅子に腰を下ろし、しばらく静かに目を閉じる。血の匂いも、歓声も、すべてを遠ざける。鼓動の音だけに意識を向ける。
どくん。どくん。
確かな、生の 証(あかし) 。
まだ立てる。まだ、戦える。
目を開けると、ミユウがじっと俺を見つめていた。その瞳は不安を抱えながらも、揺るがない信頼を宿している。
「龍夜くん、気をつけて。あの人……何を考えているのか、全然わからないわ」
「わからないからこそ、 油断(ゆだん) しない」
立ち上がる。足は、もう震えていない。
俺はミユウの手を一瞬だけ強く握り、そっと離した。
「大丈夫だ。俺を信じろ」
それは彼女に向けた言葉であり、同時に自分自身への 誓(ちか) いでもあった。
闘技場(とうぎじょう) へ続く 通路(つうろ) は薄暗い。石壁に 灯(とも) る 松明(たいまつ) の火が、ゆらゆらと影を揺らす。その先で、ボーガンが待っている。
仮面の奥に隠した本心も、 狙(ねら) いもわからない。だが一つだけ確かなことがある。
俺はもう、ただ静かに生きることだけを望んでいる少年ではない。
守りたいものがある。
そのためなら、どれほど不気味な相手でも、どれほど心を削られても、立ち向かう。
胸の奥で、静かに 炎(ほのお) が灯る。
星嵐剣の熱とは違う、穏やかで確かな光。
俺は一歩、闘技場へ踏み出した。