作品タイトル不明
第65話 もう二度と離さない
――どこだ。
――どこだ。
――どこだ。
喉の奥で 呟(つぶや) きながら、俺は長い廊下を走っていた。
板張りの床は湿り気を帯び、踏み込むたびにぎしりと 軋(きし) む。
天井に吊るされたランプは油が切れかけているのか、頼りなく揺れ、 橙色(だいだいいろ) の光が壁に長い影を作っていた。
揺れる影はまるで俺自身の 焦燥(しょうそう) を形にした化け物のようで、どこまでも追いすがってくる。
潮と汗と、腐った酒の匂いが混ざり合った重たい空気。喉に貼りつくような湿気。遠くで男たちの 下卑(げび) た笑い声が響き、金属がぶつかる音が微かに混じる。
だが俺の耳は、それらをほとんど拾っていなかった。
探しているのはただひとつ。
ミユウの 気(き) 。
あの、 金色(こんじき) の、やわらかな光。
強い俺も、弱い俺も、情けない俺も、まるごと受け止めてくれる、あの温もり。
――探す。
――探す。
――探す。
胸の奥で鼓動が暴れる。息が荒い。肺が焼けるように痛い。だが止まれない。止まった瞬間に、あの光が消えてしまう気がした。
廊下の奥、わずかに違う気配があった。
かすかだ。
今にも消えそうな、細い 灯(ともしび)
金色の、柔らかな気。
弱っている。揺れている。まるで嵐の中の小さな炎だ。
小さな部屋の扉の隙間から、ほのかな光が漏れている。
「ミユウ! いるのか! 」
叫び声が喉を裂いた。だが返事はない。
嫌な予感が背筋を走る。
「く……鍵か」
ドアノブを回す。びくともしない。内側から 施錠(せじょう) されている。
考える余裕はなかった。
俺は一歩下がり、思いきり扉を蹴りつける。
鈍い衝撃が足裏から 脛(すね) へ、骨に響く。もう一度。さらにもう一度。
木材が裂ける音とともに、扉は内側へ弾け飛んだ。
部屋へ 雪崩(なだ) れ込んだ瞬間、鼻を刺す強烈な匂いに思わず息が詰まる。
酒だ。
濃く、 酸(す) えた匂い。 吐瀉物(としゃぶつ) と血の匂いが混じっている。
視界に飛び込んできた光景に、時間が止まった。
ミユウが、壁に繋がれていた。
両手両足を冷たい鎖で縛られ、無理な姿勢で吊られるように固定されている。手首と足首の皮膚は 擦(す) り切れ、赤黒く腫れ上がり、ところどころ血が 滲(にじ) んでいた。
セーラー服は汗と酒でぐっしょりと濡れ、肌に張りついている。白い布地は薄く透け、震える体の輪郭がはっきりと浮かび上がっていた。
金色の髪は乱れ、額に貼りつき、頬には乾いた涙の跡が白く残っている。
目は半ば開き、焦点が合っていない。 虚(うつ) ろに床を見つめている。
かすかな呼吸音だけが、彼女がまだ生きている証だった。
「……ミユウ」
足が震えた。
怒りより先に、恐怖が来た。
もし、間に合わなかったら。
もし、あの光が消えていたら。
胸の奥で何かがひび割れる。
俺は駆け寄り、彼女の頬に触れた。ひどく熱い。酒の匂いが強く漂う。
「しっかりしろ! 俺だ、 龍夜(りゅうや) だ! 」
肩を掴み、必死に呼びかける。
細い喉がかすかに動いた。
「……ん……りゅ……や……くん? 」
濁った声。舌がもつれ、言葉にならない。
瞳がわずかに揺れ、俺の顔を探す。
その瞬間、胸の奥で 堰(せき) を切ったように怒りが 溢(あふ) れ出した。
誰が。
誰が、ミユウをこんな目に遭わせた。
背後で、ゆっくりと拍手の音がした。
「へぇ。見つけたのか」
振り向くと、粗野な男が立っていた。無精ひげ、濁った目、腹の出た体。腰には剣。手には酒瓶。
鼻をつく強烈な酒臭。
「お前がやったのか」
声が低く震える。
「簡単だったぜ。この嬢ちゃん、泣きながらも強情でよ。だから無理やり飲ませてやったのさ」
男は酒瓶を振る。
「この船のメイドになれって言ったらよ、はい、だと。酔えば素直になるもんだ」
下卑た笑い声。
その言葉に、ミユウの指先がわずかに動いた。
「……そんな……こと……言ってない……」
かすれた声。
男が舌打ちする。
「うるせぇな、まだ意識あんのか」
ミユウは必死に息を吸い込む。
「わたしは……龍夜くんの……キスが……好きなの……不器用で……でも、優しくて……あんたとは……全然、違う……」
それだけ言い切ると、糸が切れたようにぐったりと頭を垂らした。
視界が赤く染まった。
もう、迷いはなかった。
この船ごと壊す。
だがミユウを抱えたままでは大技は使えない。
視線を走らせたその時、部屋の隅に黒い塊が見えた。
丸い鉄の塊。安全ピンのついた金具。
手榴弾(しゅりゅうだん) 。
海賊の顔色が変わる。
「おい、やめろ。それは――」
俺は鎖を斬り、ミユウを抱き寄せる。軽い。信じられないほど軽い。
彼女を片腕で支え、もう片方で手榴弾を掴む。
金属の冷たさが掌に食い込む。
安全ピンを引き抜く感触。硬い抵抗のあと、金属音が鳴る。
カチリ。
男の喉がひきつる。
「待て、話せばわかる! 」
「わかるかよ」
俺は無言で放り投げた。
放物線を描く黒い塊。
一拍の静寂。
次の瞬間、 轟音(ごうおん) 。
爆風が壁を打ち、床を揺らす。火薬の匂いと焦げた木材の臭いが一気に広がる。耳鳴りがする。
廊下から悲鳴が上がる。
「手榴弾だ! 爆発するぞ!」
怒号、足音、物が倒れる音。混乱。
俺はその隙にミユウを抱え、煙の中を走った。
背後でさらに爆発音。天井板が崩れ落ちる。熱気が背を焼く。
だが止まらない。
腕の中の鼓動が、まだかすかに打っている。
それだけで十分だった。
船へ戻り、甲板に飛び込む。
夜風が顔を打つ。塩の匂いが肺に流れ込み、ようやく息ができた。
どれだけ時間が経ったのか、わからない。
波の音だけが規則正しく響く。
俺はミユウを横たえ、乱れた前髪をそっと払った。
酒の匂いがまだ残っている。
だが呼吸は落ち着きつつある。
震える唇に、そっと触れる。
今度は不器用でもいい。
優しく、確かめるように。
額に口づけを落とす。
「もう、絶対に離さない」
潮風が二人を包み込む。
金色の気が、かすかに、しかし確かに強さを取り戻し始めていた。