軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第66話 夜の底に灯るもの

「う……痛……っ」

かすれた声が、狭い船室の空気を震わせた。

丸窓から差し込む朝の光はまだ淡く、波に反射した青が天井に揺れている。

船体がきしむたび、薄い光もまた静かに形を変えた。潮と木材の匂いが混じり、世界はどこか湿り気を帯びている。

俺の腕の中で眠っていたミユウが、ゆっくりと目を開けた。焦点の定まらない瞳が天井をさまよい、やがて苦しげに歪む。

両手がこめかみに伸びる。指先は驚くほど冷たい。

「動くな。まだ無理だ」

できるだけ穏やかな声で告げる。

あの夜のことは、俺の中でまだ整理がついていない。だが、彼女の身体に残っているのは酒の後遺と、強い緊張の名残だ。解毒は済ませた。それでも衰弱した身体には重い。

「あ……わたし……」

言葉は途中で途切れた。

何かを思い出しかけて、息が浅くなる。

俺は触れたい衝動を抑え、ほんのわずか距離を保ったまま言う。

「ここは船室だ。もう安全だ」

それだけを、はっきりと。

ミユウは自分の肩を抱くように腕を回した。小さく震えている。その震えは恐怖だけではなく、自分自身を守ろうとする本能のようにも見えた。

俺は拳を握る。

守れなかったという事実は消えない。だが、いま必要なのは懺悔ではない。彼女の呼吸を、現実に繋ぎとめることだ。

「大丈夫だ。俺はここにいる」

近づきすぎないよう、しかし離れすぎない位置で、そう告げる。

しばらくして、彼女の視線がわずかに俺へ向いた。怯えは残っている。それでも、完全に閉ざされてはいなかった。

それからの数日は、ひどく静かな時間だった。

船は絶えず揺れている。外海に出てから波は荒く、床はときおり傾く。遠くで帆が鳴る音がするたび、船旅の現実を思い知らされる。

本来なら、俺は甲板で剣を振っているはずだった。迫る剣術大会。焦燥は胸の奥に燻っている。

だが俺は、アストラルフレイムを手に取らなかった。

代わりに、狭い船室の椅子に腰かけ、ミユウのそばにいる。

彼女はまだ長く立っていられない。立ち上がろうとして、すぐに眩暈に襲われる。身体の不調は心の緊張と絡み合い、思うように力が入らないのだ。

ある朝、洗面台へ向かおうとして二歩目でよろめいた。

「危ない」

反射的に腕を伸ばす。

触れた瞬間、彼女の肩がびくりと跳ねた。

その反応に胸が痛む。だが手を離せば転ぶ。俺はできるだけ力を抜き、支えるだけに留める。

「座ろう。無理はするな」

床にゆっくりと座らせる。

彼女の呼吸は速い。視線は揺れている。

俺はそっと言う。

「吸って……吐いて」

自分も同じ速度で呼吸を合わせる。

船の揺れと呼吸の波が、やがて同じ調子になっていく。

少しずつ、彼女の肩から力が抜けた。

拒絶のためではなく、安心のために、彼女は俺の袖を掴んだ。

その小さな重みを、俺は両手で包む。

夜は、いまだ彼女にとって優しくない。

眠りに落ちても、浅い。ときおり苦しげな声が洩れる。

俺は起こさぬよう、だが孤独に沈ませぬよう、傍らで囁く。

「俺だ。ここにいる」

それ以上の言葉は要らない。

過去を否定することはできない。忘れろとも言えない。

ただ、いまこの瞬間が安全であることを、繰り返し示すしかない。

ある晩、彼女は目を覚まし、しばらく天井を見つめていた。

「……龍夜くん」

「どうした」

「……まだ、ここにいる? 」

その問いに込められた不安の深さを思う。

「ああ。どこにも行かない」

短く、迷いなく答える。

彼女は目を閉じた。長い沈黙のあと、かすかに呟く。

「……こわかった」

その一言に、どれほどの感情が込められているのか。

俺はただ、彼女の額にかかる髪を整える。

「うん」

受け止める。

否定も、正論も、慰めもいらない。ただ事実として、その恐怖が存在したことを認める。

やがて、彼女の呼吸は深くなった。

三日目の昼、吐き気に襲われたときも、俺は慌てなかった。

桶を用意し、背を支える。

苦しそうに身体を折る彼女の背中を、一定の速さでさする。

波が船腹を打つ音と、彼女の荒い呼吸が重なる。

やがて静寂が戻る。

疲れ切ったように俯く彼女の手が、そっと俺の服を掴んだ。

拒むのではない。

確かめるように。

俺はその手を握り返す。

「……ありがとう」

彼女は小さく言った。

その声に、胸の奥がほどける。

回復は劇的ではない。光が差し込むような奇跡もない。

けれど確かに、彼女は戻ろうとしている。

夕刻、甲板に出る。

遠くにラステルの島影が見え始めていた。

大会は近い。

焦りがないと言えば嘘になる。だが、いまの俺の心を占めるのは、別のものだ。

守りたい。

ただそれだけ。

世界を救うつもりはない。

大義も名声もいらない。

彼女が、もう一度笑えるようになること。それだけでいい。

俺は剣を握る。

柄に宿るアストラルフレイムは、これまで沈黙していた。力を求めるほど、遠ざかっていった。

目を閉じる。

強さを証明したいのではない。

ただ、守ると決めただけだ。

その想いを、偽りなく胸に置く。

すると、掌にかすかな熱が生まれた。

激しくはない。

夜気に溶けるような、静かなぬくもり。

紫の光が、細く灯る。

それは怒りの炎ではなかった。誇示の輝きでもない。

決意に応えるような、穏やかな肯定。

胸の奥の重石が、ひとつ外れる。

俺はゆっくりと息を吐いた。

振り返ると、船室の窓辺にミユウの姿があった。毛布を肩にかけ、こちらを見ている。

目が合う。

まだ弱々しいが、そこには確かな光が戻っていた。

彼女は小さく頷く。

俺も頷き返す。

言葉はいらない。

船は静かにラステルへ進む。

揺れの中で、それでも前へ。

紫の灯は消えない。

俺は剣を下ろし、甲板に立ち続ける。

守るために。

ただ、それだけのために。