作品タイトル不明
第66話 夜の底に灯るもの
「う……痛……っ」
かすれた声が、狭い船室の空気を震わせた。
丸窓から差し込む朝の光はまだ淡く、波に反射した青が天井に揺れている。
船体がきしむたび、薄い光もまた静かに形を変えた。潮と木材の匂いが混じり、世界はどこか湿り気を帯びている。
俺の腕の中で眠っていたミユウが、ゆっくりと目を開けた。焦点の定まらない瞳が天井をさまよい、やがて苦しげに歪む。
両手がこめかみに伸びる。指先は驚くほど冷たい。
「動くな。まだ無理だ」
できるだけ穏やかな声で告げる。
あの夜のことは、俺の中でまだ整理がついていない。だが、彼女の身体に残っているのは酒の後遺と、強い緊張の名残だ。解毒は済ませた。それでも衰弱した身体には重い。
「あ……わたし……」
言葉は途中で途切れた。
何かを思い出しかけて、息が浅くなる。
俺は触れたい衝動を抑え、ほんのわずか距離を保ったまま言う。
「ここは船室だ。もう安全だ」
それだけを、はっきりと。
ミユウは自分の肩を抱くように腕を回した。小さく震えている。その震えは恐怖だけではなく、自分自身を守ろうとする本能のようにも見えた。
俺は拳を握る。
守れなかったという事実は消えない。だが、いま必要なのは懺悔ではない。彼女の呼吸を、現実に繋ぎとめることだ。
「大丈夫だ。俺はここにいる」
近づきすぎないよう、しかし離れすぎない位置で、そう告げる。
しばらくして、彼女の視線がわずかに俺へ向いた。怯えは残っている。それでも、完全に閉ざされてはいなかった。
◇
それからの数日は、ひどく静かな時間だった。
船は絶えず揺れている。外海に出てから波は荒く、床はときおり傾く。遠くで帆が鳴る音がするたび、船旅の現実を思い知らされる。
本来なら、俺は甲板で剣を振っているはずだった。迫る剣術大会。焦燥は胸の奥に燻っている。
だが俺は、アストラルフレイムを手に取らなかった。
代わりに、狭い船室の椅子に腰かけ、ミユウのそばにいる。
彼女はまだ長く立っていられない。立ち上がろうとして、すぐに眩暈に襲われる。身体の不調は心の緊張と絡み合い、思うように力が入らないのだ。
ある朝、洗面台へ向かおうとして二歩目でよろめいた。
「危ない」
反射的に腕を伸ばす。
触れた瞬間、彼女の肩がびくりと跳ねた。
その反応に胸が痛む。だが手を離せば転ぶ。俺はできるだけ力を抜き、支えるだけに留める。
「座ろう。無理はするな」
床にゆっくりと座らせる。
彼女の呼吸は速い。視線は揺れている。
俺はそっと言う。
「吸って……吐いて」
自分も同じ速度で呼吸を合わせる。
船の揺れと呼吸の波が、やがて同じ調子になっていく。
少しずつ、彼女の肩から力が抜けた。
拒絶のためではなく、安心のために、彼女は俺の袖を掴んだ。
その小さな重みを、俺は両手で包む。
◇
夜は、いまだ彼女にとって優しくない。
眠りに落ちても、浅い。ときおり苦しげな声が洩れる。
俺は起こさぬよう、だが孤独に沈ませぬよう、傍らで囁く。
「俺だ。ここにいる」
それ以上の言葉は要らない。
過去を否定することはできない。忘れろとも言えない。
ただ、いまこの瞬間が安全であることを、繰り返し示すしかない。
ある晩、彼女は目を覚まし、しばらく天井を見つめていた。
「……龍夜くん」
「どうした」
「……まだ、ここにいる? 」
その問いに込められた不安の深さを思う。
「ああ。どこにも行かない」
短く、迷いなく答える。
彼女は目を閉じた。長い沈黙のあと、かすかに呟く。
「……こわかった」
その一言に、どれほどの感情が込められているのか。
俺はただ、彼女の額にかかる髪を整える。
「うん」
受け止める。
否定も、正論も、慰めもいらない。ただ事実として、その恐怖が存在したことを認める。
やがて、彼女の呼吸は深くなった。
◇
三日目の昼、吐き気に襲われたときも、俺は慌てなかった。
桶を用意し、背を支える。
苦しそうに身体を折る彼女の背中を、一定の速さでさする。
波が船腹を打つ音と、彼女の荒い呼吸が重なる。
やがて静寂が戻る。
疲れ切ったように俯く彼女の手が、そっと俺の服を掴んだ。
拒むのではない。
確かめるように。
俺はその手を握り返す。
「……ありがとう」
彼女は小さく言った。
その声に、胸の奥がほどける。
回復は劇的ではない。光が差し込むような奇跡もない。
けれど確かに、彼女は戻ろうとしている。
◇
夕刻、甲板に出る。
遠くにラステルの島影が見え始めていた。
大会は近い。
焦りがないと言えば嘘になる。だが、いまの俺の心を占めるのは、別のものだ。
守りたい。
ただそれだけ。
世界を救うつもりはない。
大義も名声もいらない。
彼女が、もう一度笑えるようになること。それだけでいい。
俺は剣を握る。
柄に宿るアストラルフレイムは、これまで沈黙していた。力を求めるほど、遠ざかっていった。
目を閉じる。
強さを証明したいのではない。
ただ、守ると決めただけだ。
その想いを、偽りなく胸に置く。
すると、掌にかすかな熱が生まれた。
激しくはない。
夜気に溶けるような、静かなぬくもり。
紫の光が、細く灯る。
それは怒りの炎ではなかった。誇示の輝きでもない。
決意に応えるような、穏やかな肯定。
胸の奥の重石が、ひとつ外れる。
俺はゆっくりと息を吐いた。
振り返ると、船室の窓辺にミユウの姿があった。毛布を肩にかけ、こちらを見ている。
目が合う。
まだ弱々しいが、そこには確かな光が戻っていた。
彼女は小さく頷く。
俺も頷き返す。
言葉はいらない。
船は静かにラステルへ進む。
揺れの中で、それでも前へ。
紫の灯は消えない。
俺は剣を下ろし、甲板に立ち続ける。
守るために。
ただ、それだけのために。