作品タイトル不明
第64話 守れなかった距離
ラステルまであと三日。
順風を受けていたはずの海が、その日だけ妙に重かった。潮の匂いが濁り、空は鉛色に沈み込む。甲板に立った瞬間、胸の奥に嫌なざわめきが走った。
視線の先、霧を裂くようにして現れたのは、黒塗りの巨船だった。
帆は煤けた夜のように暗く、船首には獣の頭を模した禍々しい装飾。船体に刻まれた無数の傷が、これまで奪ってきた命の数を物語っている。重々しい舵の軋みとともに、その船は俺たちの進路を塞ぐように横付けした。
次の瞬間、鉤付きロープがいくつも飛んできて、俺たちの船縁に食い込んだ。
「かかれぇ! 」
怒号が轟く。
荒くれ者たちが、猿のような身軽さでロープを伝い、次々と乗り込んでくる。
腕には古傷、腰には曲刀、歯の欠けた口から酒臭い息を撒き散らす。甲板に降り立つや否や、積み荷の箱を蹴り飛ばし、樽を割り、金目の物を漁り始めた。
悲鳴が上がる。木箱が砕ける音、金貨が床に散る甲高い響き、男たちの下卑た笑い声。船は一瞬で地獄絵図と化した。
「きゃあああっ! 」
その声だけが、はっきりと耳に刺さった。
振り向いた瞬間、ひとりの海賊がミユウの肩を乱暴に掴み上げているのが見えた。金髪が乱れ、白い腕が空を掻く。
「離せ! 」
叫ぶより早く、海賊は彼女を担ぎ上げ、鉤縄を使って敵船へと引き戻っていく。
しまった。
胸を殴られたような後悔が突き抜けた。ここ最近、剣の修行に没頭していた。
強くならなければと焦るあまり、彼女の隣に立つ時間を削っていた。
守ると決めたはずなのに。
俺は迷わずロープに飛びついた。掌に荒縄が食い込み、皮膚が裂ける。だが痛みを感じている暇はない。敵船へと身体を引き上げる。
足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
湿った木材の匂い、血と酒と汗の混じった濃厚な臭気。甲板には奪った荷が山積みにされ、見張りの海賊たちが笑いながら分け前を巡って言い争っている。
俺は船内へ飛び込んだ。
長い廊下が奥へと伸びている。天井は低く、ランプの炎が不安定に揺れ、壁に歪んだ影を落としていた。
遠くからは怒号と金貨の擦れる音、女の泣き声、酒樽を打ち鳴らす音が混ざり合い、不気味なざわめきとなって響く。
ミユウの気配を探しながら走る。鼓動が早い。焦りが喉を締めつける。
曲がり角を抜けたところで、ひとりの海賊が立ちはだかった。
上背があり、腕は丸太のように太い。片目に傷跡を残し、にやりと口角を吊り上げている。
「なんの用だ? 」
挑発するような声音。
怒りが腹の底で弾けた。
「ミユウをどこへやった? 」
自分でも驚くほど低い声が出た。
「ミユウ? あぁ、あの金髪の嬢ちゃんか。さぁな。今頃どうなってるかは知らんがな」
背筋を冷たいものが走る。
「そこをどけ」
俺はアストラルフレイムを構えた。刃に宿る淡い光が、揺れる灯りに呼応して脈打つ。
「どうしても通りたきゃ、俺たちを倒してから行くんだな」
男が顎でしゃくると、奥から下っ端どもがぞろぞろと現れた。五人、いや六人。曲刀、斧、短銃。獣のような目がこちらを囲む。
一斉に来た。
床を蹴る音が重なる。刃が空気を裂く。
俺は踏み込んだ。
最初の一撃を弾き、その勢いのまま横薙ぎに払う。火花が散り、ひとりが壁に叩きつけられる。背後からの斬撃を身体を捻ってかわし、肘を叩き込む。骨の砕ける感触。呻き声。
狭い廊下。退路はない。前へ出るしかない。
斧が振り下ろされる。剣で受ける。衝撃が腕を震わせる。すぐさま足払いをかけ、倒れたところへ柄頭を打ち込む。動かなくなる。
次、また次。
アストラルフレイムが手の延長のように動く。暴走の気配はない。熱は穏やかに、しかし確実に俺の意志に応えている。
ーー認められた、のか。
一瞬だけ胸が熱くなる。
だが最後のひとりが、怒号とともに突っ込んできた。素早い。刃が喉元を狙う。
身を沈め、間合いを詰める。刃と刃が擦れ合い、火花が散る。そのまま肩口へ斬り上げた。
血が壁に飛び散る。
静寂。
荒い息だけが、狭い廊下に響く。
剣先から滴る血を振り払い、俺は目を閉じた。
深く、息を吸う。
雑音を消し、意識を澄ませる。ミユウの気を探す。あの柔らかな光のような気配を。
だが、何も掴めない。
船の軋み、遠くの笑い声、波の打ちつける音。どれも違う。
嫌な予感が、胃を冷たく締めつける。
まさか。
また失うのか。
守ると誓ったのに。隣にいると決めたのに。
恐怖が一気に込み上げる。胸が苦しい。心臓が暴れ、指先が震える。
頼む。無事でいてくれ。
祈るように呟き、俺は再び走り出した。
廊下を駆け抜け、階段を飛び降り、扉を蹴破る。視界が揺れる。汗が目に入る。傷口が開き、脇腹を熱いものが伝う。それでも止まらない。
世界を救うつもりなんてない。
ただ、彼女だけは。
その想いだけが、俺の足を前へと運ばせていた。