作品タイトル不明
第63話 触れられない優しさ
船の修理が終わった翌朝、まだ薄い靄の残る海へ、俺たちは再びラステルへ向けて漕ぎ出した。
新しくなった船体は、以前よりもわずかに幅が広く、喫水も深い。
波が横から叩いても、腹の底に響く揺れは幾分やわらいでいる。
甲板の板も張り替えられ、まだ新しい木の匂いが残っていた。潮の塩気と混じり合い、鼻の奥がひりつく。
それでも海は海だ。遠くで白波が砕けるたび、胃の奥がひくりと縮む。だが以前のように、立っていることすらままならないほどではない。船酔いは、少しだけ、俺を許してくれていた。
夜明けと同時に甲板へ出た。冷たい風が肌を刺す。朝露のような塩の粒が、裸足の足裏にざらりとまとわりついた。
アストラルフレイムを抜く。
刃は、まだ眠っているように静かだった。だが油断すれば、すぐに牙を剥く。それを、俺は知っている。
振り下ろす。
空気が裂ける音が、耳の奥で震えた。
振る。振る。振る。
いつの間にか、三時間が過ぎていた。
あのゴブリン退治の時――俺の意志とは無関係に、アストラルフレイムは暴走した。血の匂いに酔い、炎を噴き上げ、俺の腕を引きずるように振るわせた。
あの時、確かに一瞬だけ、剣が俺を認めた気がした。俺の「守りたい」という、ただそれだけの感情に応じたように思えた。
だが、それは思い上がりだった。
剣は、俺を試している。
主従を決めるのは、感情ではない。覚悟と、支配だ。
制服はとうに脱ぎ捨てた。上半身は裸同然だ。布をまとっていては、すぐに汗で重くなり、動きが鈍る。朝の冷気など、とうに感じなくなっていた。
肩から胸へ、汗が筋を描いて落ちる。塩辛い滴が唇に触れ、舌先で舐め取ると、鉄の味が混じった。どこかを噛んだのかもしれない。
「く……っ! 」
刃が、唐突に軌道を逸らす。
本来ならば斬り下ろすはずの角度から、横へと流れ、甲板の縁をかすめた。木が削れ、ささくれが舞う。
「だぁっ!! 」
歯を食いしばる。両腕に力を込め、無理やり軌道をねじ戻す。肘が軋み、肩が焼けるように痛む。
また振る。
また逸れる。
まるで、俺の未熟さを嘲るように。
視界の端が白くちらつく。呼吸が浅くなる。胸が焼け、肺が空気を拒む。
それでも止めない。
ラステルでの剣術大会まで、あと七日。
世界の剣豪が集うあの場で、この剣に振り回されるようでは、話にならない。俺が主だと、認めさせる。力で、心で、すべてで。
振り下ろした瞬間、膝が笑った。
力が抜ける。
そのまま、崩れ落ちた。
「はぁっ……はぁっ……! 」
甲板に手をつく。木の温もりが、火照った掌に心地よい。だが、すぐに冷たくなる。汗が滴り、板に小さな水溜まりを作った。
腕が震える。指先に力が入らない。アストラルフレイムの重みが、やけに遠く感じた。
足音。
ぱたぱたと、小さく急ぐ音。
「龍夜くん! 無茶しすぎよ! 」
振り向くと、ミユウが水筒を抱えて立っていた。寝起きのままらしい柔らかな髪が、風に揺れている。頬は心配でこわばり、唇がきゅっと結ばれていた。
声を返そうとしたが、喉がひりついて音にならない。
ミユウが膝をつき、俺の額に触れようと手を伸ばす。
その瞬間、反射的に腕を払っていた。
「あ……」
乾いた音。
思ったより強く弾いたらしい。ミユウが小さく息を呑み、手を押さえる。
その目に浮かんだのは、痛みよりも、戸惑いだった。
そして、ほんの少しの、恐れ。
違う。
こんな顔をさせたいわけじゃない。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
赤くなった小さな手のひらが、やけに鮮やかに見えた。
「……ごめん」
掠れた声が、情けなく漏れる。
本当は、今すぐ指輪を渡したい。何もかも終わらせて、安心させたい。俺はお前を守ると、形にして伝えたい。
でも。
まだだ。
剣ひとつ御せない男が、何を誓う。
俺は、ミユウの手をそっと取り直す。震えが伝わる。どちらのものか、分からない。
その赤くなった手の甲に、唇を落とした。塩と、彼女の柔らかな匂いが混じる。
ミユウが、わずかに目を見開く。
「無茶、しないで」
かすれた声だった。
「あなたが倒れたら、意味ないんだから」
分かっている。分かっているのに。
よろよろと立ち上がる。だが足がもつれ、壁に凭れかかる。視界が揺れる。耳鳴りがする。
膝が、また折れた。
「龍夜くん! 」
今度は迷いなく、ミユウが抱きとめる。
金色の光が、静かに広がった。温かい。春の日だまりのような光が、肌を包む。焼けつくようだった筋肉が、ゆっくりとほぐれていく。荒れていた呼吸が整い、鼓動が落ち着く。
汗がすっと引いていく感覚。
それでも、奥底の疲労までは消えない。芯の部分に残る鈍い重さが、俺の未熟さを告げている。
「お前……」
どんなに突き放しても、どんなに拒んでも。
ミユウは、俺を見捨てない。
そのことが、嬉しくて、怖い。
俺が弱いままなら、いつか彼女を傷つける。剣だけじゃない。俺自身の未熟さが。
遠くで波が砕ける。潮風が、二人の間を抜けていく。
ラステルまで、あと七日。
その先に待つのは、剣術大会。名だたる剣豪たち。歓声と、嘲笑と、刃のぶつかり合う音。
俺はゆっくりと、アストラルフレイムを握り直した。
柄は温かい。まるで、こちらの覚悟を測るように。
逃げない。
もう、逃げない。
守りたいものがある。
そのためなら、剣に噛みつかれてもいい。血を吸われてもいい。だが、支配されはしない。
俺が主だ。
そう、心の奥で、何度も、何度も刻みつける。
ミユウの手が、そっと背に添えられる。
言葉はない。
それでも、その温もりだけで、俺はもう一度、立ち上がることができた。