軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第62話 主になるための一閃

あの大嵐を抜けたあとの海は、皮肉なほど穏やかだった。

帆を裂き、船体を軋ませ、何度も海へ叩き落とされそうになったあの夜が嘘のように、水平線は青く澄み、陽は何事もなかったかのように照りつけている。

だが、船のあちこちからは、まだ嵐の名残が悲鳴のように上がっていた。

割れた舷側。歪んだ舵。湿った木材の匂いと、焦げたロープの匂いが混ざり合い、甲板には乾ききらない潮が白く残っている。

このまま航海を続けるのは無謀だった。

俺たちは修理のため、ルスラ島へと針路を向けた。

港に近づくにつれ、空気の色が変わる。潮の匂いに混じって、酒と煙草と、どこか腐った果物のような甘ったるい臭気が鼻を刺した。

岸壁には粗末な小舟が無秩序に繋がれ、怒号と罵声が飛び交っている。どこかで瓶が割れる音がし、笑い声は酔いに濁っていた。

ルスラは、アストリアとは違う。

石畳は欠け、壁は煤け、通りには酒瓶と吐瀉物が散らばる。路地裏では子どもが無表情で座り込み、金目のものを探す目だけがぎらついていた。

腰に刃物を下げた男たちが、値踏みするようにこちらを見る。視線が肌に刺さるようだった。

「船の修理をして欲しい。何日かかる? 」

ルゥが港の奥にある修理屋へ声をかけた。そこは“修理屋”というより、壊れた船を寄せ集めて積み上げた廃材置き場のようだった。油で黒ずんだ布を肩にかけた男が、椅子にふんぞり返っている。

「無料なら三日以上だな。急ぎなら……八百万魔唱石」

男は鼻を鳴らし、唾を地面に吐いた。こちらを見る目に、商売人の計算はない。ただ、弱い者を食い物にする捕食者の光だけがある。

「金目のもん持ってるなら、全部出せよ。特によ、そこの黒髪の兄ちゃん」

顎でしゃくられ、思わず身を固くした。視線が俺のポケットを射抜く。布越しにもわかる、あの小さな硬質な重み。

光るダイヤ。

ミユウに渡すための、指輪。

「っ……これは、ダメだ」

喉の奥が焼けつくように熱い。嵐の中でも、命を懸けても守ったものだ。アストリアに再び召喚されてから、渡す機会を失い続けてきた。だが、それでも、これは——。

「へぇ、生意気だな」

男の口元が歪む。黄ばんだ歯が見えた。

「なら、そこの嬢ちゃんで払ってもらうか」

その瞬間、時間が軋んだ。

ミユウの細い肩へ伸びる、油にまみれた手。爪の隙間に黒い汚れが詰まっているのが見えた。ぞわり、と背筋に冷たいものが走る。

「ミユウに触るな! 」

気づけば手首を掴んでいた。骨がきしむ感触が掌に伝わる。

相手の重心が崩れた瞬間、身体が勝手に動いた。柔道の型通りに腰を入れ、床へ叩きつける。鈍い衝撃音。埃が舞い上がる。

「なんだ、渡せねぇってのか」

周囲の男たちが立ち上がる。靴底が石を擦る音。酒臭い息が近づく。

「そこまで言うなら、体で稼いでこい。八百万魔唱石な」

嘲りが飛ぶ。

「龍夜くん……」

ミユウの声は小さい。それでも、震えを含んだその音が、俺の胸に深く刺さる。

「心配するな。お前はルゥと一緒にいろ」

そう言いながら、内心は煮えたぎっていた。金も力も、まだ足りない。守ると決めたのに、現実はこうだ。

俺は一人、港を離れ、ルスラの街へ足を踏み入れた。

昼間だというのに、薄暗い。建物が密集し、陽を遮っているからだ。

窓からは怒鳴り声や女の笑い声が漏れ、路地には血の跡が乾いて黒く残っている。視線を感じる。誰も助けてくれない、という無言の宣告。

やがて、古びた掲示板を見つけた。

【ゴブリン退治 ルスラの森奥地に潜む群れを討伐せよ 報酬:八百万魔唱石】

乱雑な字。紙は湿気で波打っている。

これだ。

喉が鳴る。憧れだった。勇者といえばゴブリン退治。物語の入口。だが、ここは物語じゃない。

森は、街の喧騒とは別の意味で淀んでいた。

一歩踏み入れた途端、空気が重くなる。

湿った土の匂い。腐葉土の甘い腐臭。枝葉が陽を遮り、昼なのに薄暗い。遠くで何かが折れる音がした。風が吹いていないのに、葉がざわめく。

ルスラの森は、不気味だ。

幹は黒ずみ、樹皮は裂け、ところどころに獣の骨が転がっている。白く乾いた骨に、赤黒い染みが残る。足元の泥は柔らかく、踏み込むたびにぬるりとした感触が靴底に絡みつく。

俺はアストラルフレイムを握った。

柄は熱を帯びている。脈打つような鼓動が掌に伝わる。まるで、生き物だ。

「来いよ。ゴブリン共! 」

声が木々に吸い込まれ、反響する。

次の瞬間、茂みが弾けた。

小柄な影が飛び出す。緑灰色の皮膚。ぎょろりとした黄色い目。裂けた口からは鋭い牙が覗き、唾液が糸を引く。腐った肉の臭いが鼻を突く。

ゴブリン。

想像よりもずっと生々しい。汚れた布切れを腰に巻き、錆びた短剣を握っている。足取りは素早く、獣のように低い。

俺は剣を振り上げた。

だが、刃があり得ない方向へ引かれる。

「おい、言うこと聞けって! 」

腕が持っていかれる。肩が外れそうになるほどの力。剣が勝手に軌道を描き、木の幹を抉る。火花が散り、焦げた木の匂いが立ち込める。

耳元で、嘲笑が聞こえた気がした。

アストラルフレイムは、俺の意志など意に介さない。暴れ、引きずり、振り回す。身体が振り子のように揺さぶられ、視界がぶれる。

その隙を突くように、ゴブリンが飛びかかる。鋭い刃が頬をかすめ、熱い痛みが走った。血の味が口に広がる。

「く……っ! 」

地面に膝をつきかける。泥が染み込む冷たさ。背後で枝が折れる音。振り返れば、さらに数体。数が増えている。

囲まれている。

呼吸が荒い。心臓が喉を叩く。

俺は歯を食いしばり、暴れる剣に逆らった。掌が焼けるように熱い。皮膚が裂ける感触。だが、離さない。

「ミユウも……指輪も、渡せないんだ! 」

叫びは、情けないほど単純だった。

だが、その瞬間、刃の震えが変わる。

暴走していた炎が、一瞬、収束した。紅い光が、刃に沿ってまっすぐ伸びる。耳鳴りが止み、代わりに低い唸りが響いた。

応えたのか。

俺は踏み込む。今度は、剣が逆らわない。

振り下ろせば、炎が尾を引き、ゴブリンの身体を焼き裂く。焦げた肉の臭い。甲高い悲鳴。倒れた身体が痙攣し、やがて動かなくなる。

次々と襲い来る影を、必死で斬り伏せる。腕は重く、息は切れ、視界の端が暗くなる。それでも、退けない。

最後の一体が倒れたとき、森は再び静まり返った。

鳥の声もない。風もない。ただ、焦げ跡と、倒れ伏す小さな死骸。

俺は膝をついた。

「これで……いいんだろ。八百万……魔唱石……」

声がかすれる。汗と血と泥で全身が重い。

街へ戻ったとき、修理屋の男は鼻で笑った。

「へぇ、やるじゃん。約束通り、船は明日中に直してやるよ」

金貨の入った袋が重く手にのしかかる。だが、心は軽くない。ただ、疲労だけが骨の奥に残る。

港へ戻ると、ミユウが駆け寄ってきた。

「龍夜くん! 」

その声を聞いた瞬間、張り詰めていた糸が切れた。視界が揺れる。

俺はそのまま、ミユウの胸元へ倒れ込んだ。柔らかな感触と、かすかな石鹸の匂い。温もりが、じわりと広がる。

憧れていたゴブリン退治。

物語の入口だと思っていた。

だが現実は、血の匂いと、焼けた肉の臭いと、暴れる剣と、守りたいものを守れないかもしれない恐怖でできている。

それでも。

俺は、主になる。

アストラルフレイムの主に。

そして、守ると決めたものの——主に。