作品タイトル不明
第61話 掴んだ命、揺るがぬ意志
「……っ、くしゅん! 」
二人きりの甲板に、乾いたくしゃみが弾けるように響いた。
振り返ると、夕焼けの橙に染まった空を背に、ミユウが小さく肩をすくめている。
西の空は燃えるように赤く、海面はそれをそのまま映したかのように、揺れるたびに金色の破片を撒き散らしていた。だが美しい景色とは裏腹に、潮風は冷たく、肌を刺すように吹きつけてくる。
「寒いのか? 」
俺が声をかけると、ミユウはいつものように明るい笑顔を作った。
「ん、ちょっと」
無理をしているのが、すぐにわかる。頬はわずかに青ざめ、指先は風に晒されて白くなっていた。
「これ、着てろ」
制服のジャケットを脱ぎ、そっと肩にかけてやる。
俺の身体にはもう潮と汗の匂いが染みついているはずだが、ミユウはそれを嫌がるどころか、胸元をぎゅっと掴んで目を細めた。
「あ……暖かい。龍夜くんの匂い」
「そうか? 俺の服なんて汗だらけだぞ」
「ううん、それが好きなの」
屈託のない言葉が、胸の奥に静かに沈んでいく。じんわりと、芯から温まるような感覚。
制服なんて、ただ学校に籍を置く証明書みたいなものだと思っていた。
俺を規則で縛るための、息苦しい鎖。だが、いまは違う。誰かを温められる布切れなら、悪くない。自嘲気味に笑うと、ミユウが不思議そうに首を傾げた。
「でも龍夜くんは? 」
「俺は平気だ」
実際、寒くないわけじゃない。だが、そんなことはどうでもいい。こいつに震えられるほうが、よほど堪える。
「お前に風邪引かれる方が困る」
そう言って肩を抱き寄せると、華奢な身体が俺に寄り添った。冷えた肩越しに伝わる体温が、かすかに震えている。
そのときだった。
「嵐がくるわ」
ミユウの声が、風に溶けそうなほど小さく震えた。
顔を上げると、さっきまで茜色だった空の向こうに、墨を流したような黒雲が広がっている。雲の奥で、白い閃光が不気味に瞬いた。低く腹に響く雷鳴が、遅れて海を震わせる。
「そうだな」
船は帆を張ったまま、ゆっくりと、だが確実にその暗雲へと進んでいく。回頭する気配はない。逃げ場はない。
最初は、ぽつり、ぽつりと水滴が落ちてきた。甲板に染みを作る程度の、控えめな雨。それが数十秒も経たないうちに、牙を剥いた。
雨粒は粒ではなく、鞭になった。横殴りに叩きつけられ、頬に当たるたびに痛みを残す。視界は白く煙り、波が船腹を打ち据えるたび、足元がぐらりと傾く。
風速は一気に上がった。息を吸おうと口を開けば、空気ではなく雨水が流れ込む。立っているだけで全身が押し戻される。雷鳴はすぐ頭上で炸裂し、閃光が世界を一瞬だけ真昼に変える。
その瞬間だった。
突風が、刃のように吹き抜けた。
「きゃあああっ! 」
ミユウの身体が、軽々と宙に浮いた。
「ミユウ! 」
考えるより先に、身体が動いていた。右手で柵を掴み、指が軋むほど力を込める。足裏で甲板を蹴り、身体を捻る。左手を伸ばす。
指先が、空を掴む。
――届け。
もう一度、風が唸る。雨で視界は滲み、ミユウの輪郭が揺れる。それでも、俺は手を伸ばした。
細い手首を、掴んだ。
「龍夜! ミユウを離したら承知しないぞ! 」
帆を畳んでいたルゥの怒号が飛ぶ。
「うるせえ! 絶対に離さねーよ! 」
怒鳴り返す声は、自分でも驚くほど低く、腹の底から出ていた。
風は容赦なく二人を引き裂こうとする。柵を握る右手に、ぎり、と嫌な感触が走る。肩が軋み、筋が引き千切れそうになる。
「りゅうや……くん……わたし、もうダメ。力が……」
ミユウの指から、力が抜けていく。
だが、俺は離さない。
「絶対に諦めない! 」
喉が裂けるほど叫ぶ。風圧で身体が持っていかれそうになるたび、歯を食いしばる。腕の筋肉が悲鳴を上げる。右肩が限界を訴える。
それでも、掴んだ。
守ると決めたものは、何があっても守る。
突風が一瞬だけ弱まった。その隙を逃さず、全身の力を一点に集める。柵を蹴り、腰を引き、引き上げる。
ミユウの身体が甲板へと戻る。
勢い余って、二人まとめて転がり、硬い板に叩きつけられた。肺から空気が強制的に吐き出される。
「……っ、はぁっ……! はぁっ……! 」
荒い呼吸が、嵐の轟音に紛れる。だが、腕の中には確かな重みがあった。
温かい。生きている。
怖かった。あと一秒、遅れていたら。あの手が滑っていたら。
スローライフだの、穏やかな余生だの、そんなものはどうでもいい。
俺はこいつを守る。
それだけだ。
身体を起こそうとした瞬間、右腕に鈍い衝撃が走った。
「つ……っ! 」
肘から先が痺れ、力が抜ける。見ると、あり得ない角度に歪んでいた。
無茶な姿勢で全体重を支えた反動だろう。骨がやられたらしい。冷や汗が背中を伝う。
「龍夜くん! 」
ミユウが膝をつき、俺の腕に両手を重ねる。
淡い光が、指先から溢れ出す。嵐の闇の中でもわかるほど、柔らかく、温かな光。
骨を包む痛みが、ゆっくりとほどけていく。ずれていた感覚が元に戻り、血が巡る。
「お前、この力、前より……」
以前なら、力を使った直後に膝をつき、顔色を失っていた。だが今は違う。息は乱れているが、しっかり立っている。
「うん、学校で勉強したの。ちゃんとコントロール出来るように」
誇らしげに笑う顔は、さっきまで嵐に攫われかけていた少女と同一人物とは思えない。
「お前……強くなったな」
「龍夜くんも」
その言葉に、胸が熱くなる。
俺はミユウを抱き寄せ、濡れた髪に口づけた。嵐はまだ唸っているが、さっきまでの猛威はない。雲が流れ、裂け目から月光が差し込む。
遠く、闇の向こうに小さな陸影が見えた。
逃げない。
どんな嵐でも、どんな運命でも。
俺は救世主だと祭り上げられようが、どう呼ばれようが構わない。肩書きではなく、自分の意志で立つ。
ルゥの部屋の方角から、青白い光が揺らめいている。アストラルフレイムが、かすかに応えるように脈動していた。
嵐を越えた甲板で、俺はまっすぐ前を見据える。
もう、揺るがない。
この手で掴んだ命を、二度と離さない。