作品タイトル不明
第60話 透明な海、濁る心
アストリアの海は、地球のそれとはまるで別物だった。
足元に広がる水は、ただ青いのではない。
陽光を受けて、淡い翡翠色から群青へと、ゆるやかに階調を変えながら揺れている。岸辺から数十メートル離れてもなお、海底の白砂が透けて見え、細かな波紋の影が、まるで風にそよぐレースのように揺らめいていた。
小魚の群れが銀の針のようにきらめき、岩礁の隙間を縫う。海藻は濃い緑の帯となって、ゆっくりと呼吸するようにたなびいている。
地球の海も、決して濁ってばかりではなかった。
子どもの頃、家族旅行で訪れた南の海は、透き通る青をしていた。
それでも、ここまで底の輪郭がくっきりと見えることはなかったし、潮の匂いもどこか鉄のような、湿った錆の気配を含んでいた気がする。
だがアストリアの海は違う。
鼻をくすぐるのは、塩の刺激だけではない。どこか甘く、澄んだ空気が混じっている。肺の奥まで吸い込むと、胸の内側が洗われるような清冽さがあった。
——それなのに。
俺の心臓だけは、まるで嵐の中心に放り込まれたかのように荒れ狂っていた。
海岸では、すでに数隻の船が出航の準備に追われている。
太い綱がきしみ、帆布がはためき、木槌で楔を打つ乾いた音が響く。船体に塗られた防水油の匂いと、酒の蒸気が混じり合い、空気は熱を帯びていた。
船乗りたちは陽に焼けた腕をまくり上げ、笑い、怒鳴り、金貨の入った袋を振り回しては、勝ち誇ったように騒いでいる。革袋の中で金属がぶつかり合う音が、いやに耳に残った。
「ラステルまでは航路で何日くらいだ? 」
ルゥが無造作に問いかける。
「あん? そうだな……大体十日くらいだ。運が良けりゃな」
無精ひげを撫でながら、船乗りは肩をすくめた。
——十日。
その言葉を聞いただけで、胃の奥がひくりと縮む。地球なら、アメリカまで飛行機で十時間もあれば着く。窓の外に雲海を眺めて、機内食を食べて、映画を一本観れば、もう別の大陸だ。
それが、十日。
海の上で、逃げ場のない木の箱に揺られ続ける十日。
俺は自嘲気味に笑った。笑い声は、自分でも驚くほど乾いていた。
「まぁ、そうだな。俺のログポースによりゃ、嵐が迫ってきてる。幸運を祈るぞ、旅人たちよ。成功したら、報酬一千万魔唱石、だ」
船乗りは意地の悪い笑みを浮かべ、踵を返した。
その背中を見送りながら、ルゥが低く言う。
「……まぁ、検討する」
そして、俺を睨んだ。その視線は、言葉よりも雄弁だった。
——必ず剣術大会で優勝しろ。
そう言われているのと同じだ。
勘弁してくれよ。
今の俺には剣がない。アストラルブレイドは、魔王に向かって投げつけた。
あの瞬間、世界のすべてを断ち切るつもりで振り抜いた。手から離れた光の軌跡を、今でもはっきり覚えている。
それがない今、俺はほとんど丸裸だ。
こんな状態で、世界の剣豪たちと戦えというのか。
「面舵いっぱーい! 」
甲高い号令が響き、船が軋みながら動き出す。重い船体が水を押し分け、やがて滑るように沖へと進んだ。岸が少しずつ遠ざかり、砂浜の白が細い線になっていく。
最初は、揺れも穏やかだった。
だが、沖へ出るにつれ、船底を打つ波の衝撃がはっきりと伝わってくる。上下左右に、不規則に揺さぶられる感覚。足裏から脳天へ、ゆっくりと波が這い上がる。
胸の奥がむかつき、唾液がじわりと増える。視界の端がわずかに暗くなり、耳鳴りが混じる。冷たい汗が背中を伝い、指先が細かく震えた。
これが、船酔いか。
地球でフェリーに乗ったことはあるが、ここまでではなかった。
アストリアの海は透明だが、その下に潜む水圧と潮流は、地球よりも重く、力強い。海そのものが、ひとつの巨大な生き物のようにうねり、船を翻弄している。
俺は柵に寄りかかり、吐き気と必死に戦った。胃の中身が逆流しそうになり、歯を食いしばる。心臓は揺れに合わせて不規則に跳ね、呼吸が浅くなる。
「龍夜くん? 大丈夫? 」
柔らかな声が、揺れる視界の中で輪郭を持つ。
ミユウが立ち上がり、こちらへ駆け寄ってきた。さっきまで、学校から支給された携帯電話で先生に休校の連絡を取っていたらしい。現実と異世界が奇妙に交差する光景に、くらりとする。
「……平気、じゃないかも」
情けない声が出た。
俺たちは、揺れの少ない上部甲板へ移動した。風が強く、帆が大きく鳴る。だが、視界が開けた分、いくらか楽だった。
「気分はどう? 」
「……さっきよりは、な」
俺は深く息を吸い込む。塩の匂い。湿った木材の匂い。遠くで煮炊きしているらしい、香草の香り。
鼻から吸い込んだ空気が、胸の奥をゆっくりと満たしていく。吐き気の波が、ほんの少し引いた。
ミユウがキッチンから戻ってくる。手には水の入った水筒。金属製の蓋を開け、そっと差し出してくれた。
ひと口含む。
冷たい。
舌の上で、やわらかくほどける。地球の水よりも、どこか丸い。
アストリアの水は、魔力を微かに帯びていると聞いたことがある。確かに、喉を通る瞬間、ほんのりと温かな光が体内に広がるような感覚があった。
「美味しい? 」
「あぁ……すっげぇ、うまい」
大げさじゃない。本当に、救われる思いだった。
酔いがゆるみ、身体の芯に力が戻る。俺はこみ上げる感謝を抑えきれず、ミユウを軽く抱きしめた。彼女の体温が、現実を引き戻してくれる。
「龍夜、ちょっとこっちへ来い」
低い声。
振り向けば、ルゥが立っていた。いつも絶妙なタイミングで現れる。
「……なんだよ」
わずかな苛立ちが混じる。
ルゥは無言で、長い布に包まれたものを差し出した。
「これがお前の新しい剣だ」
包みを解くと、銀色の柄が現れる。以前のアストラルブレイドよりも重い。握った瞬間、ずしりと腕に負荷がかかる。
冷たい。
ただの金属の冷たさではない。拒絶するような、無機質な硬さ。
だが、その奥底に、かすかな熱が眠っているのを感じた。
アストラルフレイム。
それはアストリアにおいて、神聖と畏怖の象徴だ。
神殿で灯される青白い炎は、穢れを焼き払い、祈りを天へと届けると信じられている。祭礼の日、聖職者たちはその炎を掲げ、街を巡る。炎は風に揺れても消えず、水をかけても揺らぐだけで、芯の光は失われない。
それは破壊の火ではない。浄化と再生の火だ。
この剣の芯にも、その火が封じられているのだろう。柄の奥で、かすかな鼓動のような振動が伝わる。だが、今はまだ、俺を主と認めていない。
「剣術大会で、そいつに自分が持ち主だと認めさせろ。力を安定させるんだ」
ルゥは叫ぶように言い、踵を返した。扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
「大丈夫? 」
ミユウが心配そうに見上げる。
「……まぁ、多分な」
本当は、まったく自信はない。
だが、言葉にした瞬間、それが現実になりそうで、飲み込んだ。
遠く、水平線の向こうに、黒い雲が見える。さっきの船乗りの予言が、頭をよぎる。
透明な海の下で、見えない潮流が渦を巻いているように。
俺の胸の奥でも、嵐は確実に近づいていた。