軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第57話 仮初の日常 8

「で、どこがわからないの? 」

次の日。

本格的に星隆医科大学の模擬試験対策に取りかかった俺は、過去問を開いた瞬間、脳の奥で何かが軋む音を聞いた気がした。

ページを一枚めくる。

そこに並ぶ専門用語の群れ。

整然と並んでいるはずの文字列が、まるで未知の暗号のように見える。

——読める。

だが、理解できない。

目は文字を追っているのに、意味が頭に入ってこない。理解しようとするたびに、脳の奥がじん、と熱を持つ。冷や汗が首筋を伝った。

これは本当に、日本語か?

俺は無言でノートを閉じ、パソコンを起動する。ディスコードを立ち上げ、通話ボタンを押す指がわずかに震えていた。

数秒後、画面に映ったのは 如月隼斗(きさらぎはやと) の顔。やけに落ち着いた表情が腹立たしいほど安定している。

「分からない所が分かりません」

言った瞬間、自分でも情けないと思った。だが事実だ。

俺は中学の教科書を画面に掲げる。例の、黄ばんでいるだけの、落書きだらけの本。

「……。」

沈黙。

その沈黙が、やけに重い。通信が途切れたのかと錯覚するほど、時間が止まる。

そして次の瞬間。

「あっははははは!! 」

爆笑。

本気で笑っている。腹を抱え、肩を震わせ、涙まで浮かべている。

顔が一気に熱くなった。

羞恥が胸を締め付ける。

そのとき。

「ちょっと龍! いつまでゲームしてるの? 明日も早いんだから、もう寝なさいよ! 」

キッチンから母さんの声が飛ぶ。フライパンに何かを落とす音と、換気扇の回転音が混ざる。

「ゲームじゃないよ! 勉強だって! 」

「夜中に笑い声上げて何が勉強よ! 」

最悪のタイミングだ。

「あ、ミュートにしてなかった。ごめんごめん」

如月隼斗は悪びれもせず言う。

俺は深く息を吐いた。逃げたい。だが、逃げられない。

「いいよ。教えてあげる。あくまで模試だから、そんなに気張らなくていい。時間はこのくらいで大丈夫? 」

その声は柔らかい。けれど目の奥は静かに真剣だった。

――ここから、逃げない。

そう決めた。

それから始まった三重生活。

早朝。

まだ空が灰色の時間に起きる。制服の下にジャージを着込み、柔道の朝練へ向かう。冷たい空気が肺に刺さる。

道場の床は冷え切っていて、裸足で立つと体温が奪われる。

投げられる。

叩きつけられる。

受け身の衝撃が背中を走る。

だが体の痛みは、頭の疲労よりずっと分かりやすい。

学校では授業を受けながら、机の中に忍ばせた単語帳を指でなぞる。

前頭葉、海馬、扁桃体。文字を繰り返し見るたび、少しずつ輪郭がはっきりしていく。

それでも、足りない。

夜。

パソコンの光だけが部屋を照らす。家族は寝静まり、時計の秒針だけがやけに大きく響く。

如月隼斗の指導は容赦がなかった。

「そこは丸暗記じゃない。仕組みを説明して」

ホワイトボードに図が描かれる。神経回路が線で繋がれ、電気信号の流れが示される。

「どうしてそうなる? 」

問いが飛ぶ。

俺は必死に言葉を探す。曖昧な理解はすぐ見抜かれる。

のんびりした普段の口調は消え、鋭さだけが残る。

叩き直される。

基礎から。

数日後には、頭の中が医学用語で埋まっていた。

「ゼントウヨウ……カイバ……」

無意識に呟きながら廊下を歩く俺に、拓哉が声をかける。

「よう、告白クラッシャーの龍夜! 勉強捗ってるか! 」

「……普通」

自分でも声に力がないのが分かる。

「って、顔やばいぞ。ゾンビだぞそれ」

鏡を見なくても想像できる。目の下のクマ、焦点の合わない視線。

「仕方ないだろ。やったことないことやってるんだから」

そうだ。

俺は今、自分の限界の外側にいる。

特に力を入れているのは、脳の記憶中枢。

人が覚える仕組み。

忘れる理由。

ページを読み進めるうちに、ふと気づく。

もし——

もしそれを完全に理解できたら。

胸が、わずかに熱を帯びる。

その晩も二時を回る。

「先生、俺、限界です」

まぶたが落ちる。

「でも君、教えたらすぐ覚える。教え甲斐があるよ。さすが、ミユウちゃんの王子様だね」

その言葉が、静かに刺さる。

王子様。

俺はそんな大層な存在じゃない。

けれど——

そう在りたいと思っている自分がいる。

三ヶ月後。

模擬試験当日。

開始の表示が出た瞬間、心臓が跳ねる。

問題文を読む。

以前なら真っ白になっていた箇所が、今は違う。

完全ではない。だが、意味が分かる。

解ける問題がある。

——戦えている。

一週間後。

結果通知を開く指先が冷たい。

E判定。

「……え? 」

期待と現実の落差が、胸に落ちる。

教室で思わず叫ぶ。

「拓哉ぁ! E判定ってなんだ! 良い判定って意味かぁ! 」

視線が集まる。女子のひそひそ声。

「まぁ、次頑張れってことだな」

軽い。

その軽さが逆に堪える。

夜。

柔道着を脱ぎ、鞄を放り、ベッドに倒れ込む。

三ヶ月。

積み上げた時間が、砂の城みたいに崩れた気がした。

悔しい。

情けない。

でも。

完全な無力感ではない。

俺は、何も知らなかった三ヶ月前の俺ではない。

そのとき。

『我が名はアストラルフレイム。汝の純粋な心、確かに認めよう。』

胸の奥に響く声。

現実と異界の境界が、薄く揺らぐ。

『悪魔族の進行が本格化している。気を引き締めよ』

俺はゆっくり起き上がる。

カーテンを開ける。

夜空。

一番星が、静かに光っている。

仮初の日常。

柔道も、勉強も、模試も。

全部が、どこかで繋がっている。

拳を握る。

アストリアの景色が薄らと見える。

新たな闘いが、始まる。