作品タイトル不明
第56話 仮初の日常 7
俺は、今日ほど「まともに勉強した」と言える日はなかった。
それは自慢でも誇張でもない。
机に向かい、椅子に腰を落ち着け、途中で投げ出さずに文字を追い続けた――ただそれだけのことが、これまでの人生では、ほとんどなかったのだ。
ミユウの記憶を取り戻すこと。
アストリアに、きちんとした医療設備を作ること。
言葉にするだけなら簡単だ。
誰だって、「守りたいものがある」と口にすることはできる。
だが、それを現実に引きずり出すには、行動しかない。
理屈ではなく、積み重ねだ。
だから俺は、星隆医科大学の学校案内を取り寄せた。
分厚い封筒を開け、机に広げた瞬間、紙の重みがそのまま現実としてのしかかってくる。
最新鋭の医療機器。
基礎医学から臨床、手術を想定した実践的な教育環境。
全寮制、七年。
七年――。
頭の中でその数字を反芻しただけで、胃の奥がきりきりと痛んだ。
長い。
あまりにも長い。
それでも、ページを閉じる気にはなれなかった。
逃げる理由より、進まなければならない理由の方が、はるかに重かったからだ。
とりあえず、俺は中学校の数学の教科書を引っ張り出した。
医学以前に、基礎が崩壊している自覚だけはある。
ページを開いた瞬間、思わず息が漏れる。
聖徳太子の顔には、どこかで見た青いロボットのような落書き。
倫理の説明欄には、ゲームの攻略法の呪文めいたメモが、乱雑な字で書き殴られている。
当時の俺は、勉強という行為を完全に舐めていた。
覚えるくらいなら、描く。
考えるより、笑わせる。
その積み重ねが、この教科書だ。
可笑しくて、情けなくて、
気づけば、笑いながら目頭が熱くなっていた。
こんな人間が、今さら医学を目指す。
冷静に考えれば、冗談にもほどがある。
――それでも。
九百年分の記憶を失い、世界から切り離されてしまったミユウ。
積み重ねてきた時間を奪われ、理由もわからないまま孤独の中に置き去りにされた彼女。
彼女を救うには、奇跡では足りない。
祈りでも、覚悟でも、感情だけでも足りない。
確かな技術が必要だ。
柔道の練習が終わったあと、汗の残る体のまま机に向かう。
空いた時間はすべて、文字に費やした。
ゲーム以外で、これほど頭を使ったことはない。
医学書に並ぶ専門用語は、異世界の呪文のようで、意味を理解するたびに脳が悲鳴を上げる。
集中力が限界に近づいた、そのときだった。
扉が、ノックもなく勢いよく開いた。
「よう! 告白クラッシャーの龍夜 ! 柔道部、決まったんだって?」
乱入してきたのは、拓哉。
小説家志望で、そして致命的に空気を読まないクラスメイトだ。
楽しそうに笑いながら、俺の肩をバンと叩く。
その瞬間、張り詰めていた集中が音を立てて崩れ、反射的に俺は医学書に額を打ちつけていた。
鈍い音。
「あ ? 医学書 ? 攻略本じゃなくて?
ヒャハー、最高じゃん! またネタ増えた! 」
拓哉は踊るように動きながら、ノートに何かを書き込んでいる。
「拓哉……今だけは、静かにしてくれ……
本当に、頭が限界なんだ」
絞り出すように言うと、拓哉は一瞬だけ目を瞬かせた。
「まぁなぁ。ヒポクラテスの倫理にゲームの攻略法書いてるやつが、星隆医科大学目指すって、そりゃファンタジーだわ」
こめかみがぴくりと跳ねる。
図星だからこそ、腹が立つ。
だが、拓哉は悪びれずに続けた。
「そこまで本気ならさ。見学くらい行ってみれば? 」
試しに。
見学だけなら。
その言葉は、不思議なほど軽く、俺の背中を押した。
次の休みの日。
半ば引きずられる形で、俺は星隆医科大学の門をくぐった。
整然と並ぶ建物。
無駄のない動線。
空気そのものが張り詰めている。
ここは、覚悟のない人間が立つ場所じゃない。
そう直感的にわかる。
出迎えたのは、六年生で獅子寮の寮監を務める男―― 如月隼斗(きさらぎはやと) 。
「君が、告白クラッシャーで異世界転生の子?」
何でもないことのように言われ、思わず息を詰めた。
拓哉の拡散力に、別の意味で感心する。
「……医学的に、興味ある」
「はい? 」
「ちょっと来て。すぐ終わるから」
流されるまま、俺は検査を受けることになる。
視力、反射、血圧、簡易的な身体チェック。
「異常なし。
……本当に、興味深い体だ」
如月隼斗は静かに言った。
「屋上に行こう。君の話を聞かせて」
屋上で、俺はミユウのことを話した。
記憶を失ったこと。
それでも、彼女がどれほど大切か。
「優しいね」
如月隼斗は空を見上げたまま、そう言った。
「三ヶ月後、模擬試験がある。受けてみるといい」
「俺、高一ですけど」
「模擬だ。オンラインだし、本番は三年になってからでいい」
そのとき、シャッター音が響いた。
「見て見て! 星隆学園の2大イケメン」
「尊い……」
「推せる」
次の瞬間、如月隼斗の声が鋭く飛ぶ。
「撮影禁止! 全部消せ! 」
女生徒たちはなぜか次々と倒れていった。
……頼もしい。
その夜。
俺は漫画もゲームも箱にしまい込み、机に向かった。
柔道と、勉強。
すべては、ミユウのため。
何度も俺のために、自分を犠牲にしてきた彼女のためなら、いくらでも踏ん張れる。
灯りの下、ページをめくる音だけが続く。
夜は、静かに更けていった。