作品タイトル不明
第55話 仮初の日常 6
今日は、俺の柔道部入部が正式に決まるかどうか――その運命の日だ。
体育館へ向かう廊下の時点で、いつもと空気が違うのが分かった。
ざわざわとした声。視線。ひそひそと交わされる噂話。その中心に、どうやら俺がいるらしい。
体育館の扉を開けた瞬間、確信に変わった。
――多い。
昨日も十分すぎるほどだったはずの見学の女生徒たちが、今日は明らかに倍以上に増えている。
壁際、観覧スペース、果ては入口付近にまで、ぎっしりと人だかりができていた。
「やっぱり……俺目当て、だよな」
自覚してしまった途端、胃の奥が少し重くなる。
視線が集まること自体には慣れてきたはずなのに、この数はさすがに落ち着かない。
「おい、女生徒! うるさいぞ! 静かにしろ!!」
体育館中に響き渡る怒鳴り声。ゴリ――柔道部顧問であり、鬼のような体格を誇る男が一喝すると、「ひぇっ!」と情けない悲鳴が上がり、ざわめきは一気に鎮まった。
……が。
静かになっただけで、視線は一切逸れていない。むしろ、熱量が増している気すらする。
俺は軽く息を吐き、さっさと更衣室へ向かった。
柔道着に着替え、帯を締める。布の感触が掌に伝わる。その感覚が、妙に現実的で――不思議と心が落ち着いた。
体育館の縁に座り、順番を待つ。
――不思議だ。
アストリアで感じていた、あの魔力の乱れも、胸を締め付けるような恐怖も、今日はまったくない。
代わりに、胸の奥にあるのは、静かな集中だけだった。
考えているのは、ただ一つ。
目の前の敵を倒すこと。
それだけだ。
意識は一点に収束し、感覚が研ぎ澄まされていく。床のきしむ音、柔道着の擦れる音、誰かの息遣いまで、やけに鮮明に耳に入る。
先に体験入部していた二人の一年生が呼ばれ、本決定が告げられる。拍手が起こり、少し遅れて歓声が上がった。
――次は、俺だ。
名前を呼ばれる前から、視線が一斉に集まるのを嫌でも感じる。だが、それすらも今は振り払えた。
体育館の中央へ歩み出る。
向かいに立つのは、二年生の先輩。体格も経験も、明らかに俺より上だ。だが、不思議と怖さはなかった。
互いに一礼し、深く頭を下げる。
「よろしくお願いします!!」
今度は噛まなかった。腹から声を出したせいか、自分でも驚くほど大きな声が体育館中に響いた。
「始め!」
ゴリの合図と同時に、空気が張り詰める。
きゅっ、きゅっと、裸足が床を滑る音が響く。間合いを探り合い、互いの動きを読む。
先輩は、思っていたよりずっと速かった。
だが――俺の神経は、それ以上に研ぎ澄まされていた。
先輩の動き一つ一つが、まるでスローモーションのように見える。肩の傾き、重心の移動、指先の力の入り方。そのすべてが、手に取るように分かる。
拳が腹を狙って飛んでくる。
――来る。
察知した瞬間、身体が勝手に反応した。半歩引き、攻撃を躱す。次の瞬間、先輩が柔道着を掴み、力任せに投げに来る。
だが、俺は素早く受け身を取り、床を転がりながら体勢を立て直す。そして逆に、先輩の柔道着を掴んだ。
「――っ!」
力を込め、一気に投げる。
先輩の身体が宙を舞い、鈍い音を立てて床に叩きつけられた。
「ありがとうございました!!」
自然と口から言葉が出る。
……息が切れていない。汗も、ほとんど流れていない。
確実に、力が上がっている。
その事実を実感した瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。
女生徒たちが歓声を上げる。黄色い声が体育館に響き渡るが、すぐにゴリの怒声がそれをかき消した。
「静かにしろと言っているだろうが!!」
再び凍りつく女生徒たち。その様子に、内心で苦笑する。
「なかなかやるな! 告白クラッシャーの一年!」
その呼び名、もう定着したのか……。
「だが、あと九人! 九人倒せば、正式に部員として認めてやる!」
「……はっ?!」
思わず本音が漏れる。
九人?
一瞬、頭が真っ白になりかけたが、すぐに自分を叱咤する。
慌てるな。
――悪魔が、あと九匹増えただけだ。
そう思えば、やることは同じだ。
俺は先ほどと同じ要領で、次々と先輩たちと組み合っていく。経験の差はあれど、動きはすべて見えていた。
一人、また一人。
投げ、受け身を取り、立ち上がる。その繰り返し。
九人目ともなると、さすがに息が上がってきた。肺が熱を持ち、脚に重さを感じる。それでも、意識は途切れなかった。
そして――。
「よくやったな」
低く、響く声。
「だが、最後の相手はこの俺だ」
ゴリが、前に出てきた。
近くで見ると、その迫力は凄まじい。鍛え抜かれた屈強な肉体。太い腕。鳴らされる指の音が、ゴキゴキと体育館に響く。
思わず喉が鳴る。
「よろしくお願いします!!」
威圧感は確かにあった。だが、足は止まらない。
俺は迷わず、ゴリに向かって突進した。
隙を狙い、柔道着を掴もうと腕を伸ばした――その瞬間。
「きゃーっ!!」
女生徒の悲鳴が、鋭く響いた。
俺の動きが、ぴたりと止まる。
「……これでも来るか?」
その声と同時に、記憶が弾けた。
アストリアで、ミユウがラフィセルに捕まった、あの瞬間。
頭の中でフラッシュバックし、胸の奥から魔力が暴れ出す。怒りが、一気に溢れ出した。
――やめろ。
――ダメだ。
――また、力に飲み込まれる。
俺は大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。必死に魔力を抑え込む。
視線を向けると、ゴリの近くに、怯えた女生徒がいた。
俺は一歩踏み出し、女生徒をゴリから引き離す。そして、庇うように前に立った。
「女子は……っ!」
視界の端で、ゴリを魔王のように錯覚する。だが、暴走はさせない。
力を制御し、地に足をつける。
「男子の飾りじゃねーんだよ!!」
叫びと同時に、全身の力を乗せる。
次の瞬間、ゴリの巨体が宙を舞い、床に叩きつけられた。
体育館が、一瞬静まり返る。
そして――。
「はっはっは!! いい根性だ!」
ゴリが豪快に笑った。
「今日からお前ら三人、正式に俺たちの仲間だ!!」
「……」
膝から力が抜けそうになるのを、必死で堪える。
「おい! 大丈夫か?!」
俺は振り返り、女生徒の肩を掴んで無事を確認する。
「は……い」
女子は、完全に目をハートマークにしていた。状況を理解しているのかいないのか、ただ俺を見つめている。
その様子を見た見学の女生徒たちから、再び黄色い悲鳴が上がり、体育館中に響き渡った。
「ま、さっきのは演技だったんだけどな」
ゴリが頭を掻きながら言う。
「お前の精神力を試すためのな」
「……はぁ……」
思わず、深いため息が漏れた。
何はともあれ。
俺の柔道部入部届は、正式に受理された。
こうして、俺の人間界での修行――体力と精神力を極限まで鍛える日々が、静かに始まったのだった。