作品タイトル不明
第54話 仮初の日常 5
翌日も、柔道部――いや、やはりどう考えても「声出し部」としか呼びようのない部活動の、仮体験入部は続いていた。
朝のグラウンドには、すでに熱がこもっている。
まだ午前中だというのに、太陽は容赦なく照りつけ、土は乾ききり、踏みしめるたびに白い砂埃が舞い上がった。
遠くでセミが鳴き始め、その音が余計に暑さを強調してくる。
集合した時点で、すでに制服の背中には汗がにじんでいた。
「今日も行くぞぉぉ! 」
ゴリの怒声が、拡声器なしでグラウンド全体に響き渡る。
この人の喉はいったいどういう構造をしているのだろうか、とどうでもいいことを考えつつ、俺はスタートラインに立った。
「まずは十周! 声出せ! 気合入れろ! 」
昨日と同じメニュー。
だが、同じだからこそ、違いもはっきり分かる。
「1! 2! 1! 2! 」
「セイッ! ハッ! セイッ! ハッ! 」
謎の掛け声を叫びながら、俺はグラウンドを駆ける。
肺に空気を送り込み、一定のリズムで足を運ぶ。
――重くない。
昨日は一周目から太腿が悲鳴を上げ、五周目には意識が遠のきかけていた。
だが今日は違う。苦しいことに変わりはないが、身体が悲鳴を上げる一歩手前で踏みとどまっている。
今朝、まだ薄暗いうちに家を出て、近所を十キロ走った。
正直、途中で何度もやめたくなったが、それでも足を止めなかった。
昨夜もそうだ。
布団に入る直前まで、腕が震えなくなるまでダンベルを持ち上げ続けた。
眠りに落ちる瞬間、指先がまだじんじんと痺れていたのを覚えている。
――無駄じゃなかった。
十周目のゴールラインを踏みしめた瞬間、息は荒くなったが、視界は揺れていなかった。
膝に手をつくこともなく、そのまま立っていられる。
続くダンベル運動でも、腕は悲鳴を上げていたが、最後まで落とさずにやり切った。
「……ふん」
ゴリが腕を組み、俺をじっと見つめる。
その視線は、教師というより、獲物を値踏みする肉食獣のそれに近い。
「告白クラッシャーの一年にしちゃ、体験入部にしては上出来だな」
周囲から、また小さな笑い声が漏れる。
どうやら俺の二つ名は、もう完全に消えそうにない。
「だがな」
ゴリは一歩前に出て、口角を吊り上げた。
「今日の追加訓練は、これまでとは次元が違う」
嫌な予感が、背筋をなぞる。
「体育館で、正座一時間だ」
……正座。
一瞬だけ、気が抜けた。
それだけなら、やったことがある。
アストリアでの修行の日々。
精神を鍛える名目で、何も考えず、ただ正座を続ける時間があった。
石畳の冷たさ、静寂、呼吸だけに集中する感覚。
――いける。
そう思った自分は、甘かった。
体育館の扉を開けた瞬間、空気が肌にまとわりつく。
熱気と湿気が混じった重たい空気。
窓は開いているはずなのに、風はほとんど入ってこない。
床に正座した瞬間、違和感が走った。
硬い。
想像以上に、容赦なく硬い。
十分もしないうちに、足首が痺れ始め、ふくらはぎに熱がこもる。
汗が首筋を伝い、制服のシャツが背中に貼りついた。
――くそ……。
呼吸を整えようとするが、暑さで集中が削がれる。
アストリアの修行とは、まるで別物だ。
冷たい石畳と、蒸し風呂のような体育館では、条件が違いすぎる。
「姿勢が崩れてるぞ! 」
「根性見せろ! 」
ゴリの怒声が飛ぶたび、意識が現実に引き戻される。
太腿の感覚が、少しずつ遠のいていく。
耐えろ。
まだだ。
俺は、必死にミユウの姿を思い浮かべた。
作り笑いじゃない、本当の笑顔。
安心したように目を細める、あの表情。
――取り戻す。
彼女の笑顔を。
奪われた日常を。
そして、この世界の平穏を。
魔王を倒し、世界を救う。
そのためなら、この程度で折れている場合じゃない。
時間が、異様に長く感じられた。
やがて――
「終了! 」
その声が聞こえた瞬間、全身の力が抜けた。
倒れ込むと思った。実際、視界が一瞬揺れた。
だが。
――立っている。
痺れは強烈だが、床に崩れ落ちていない。
自分の足で、しっかりと立っている。
少しだけ、確かな実感があった。
昨日より、今日。
確実に、俺は強くなっている。
だが、安堵する間もなく、ゴリは続けた。
「よし。体験入部の三人、最後の試練だ」
最後、という言葉に、胸がざわつく。
「全員、二階へ上がれ! 」
体育館の二階、観客席の最前列まで移動させられる。
「そこから、コートに向かって」
ゴリは顎をしゃくった。
「名前と目標を叫べ! 」
意味不明だが、もう突っ込む気力もない。
他の体験入部者が、次々と叫ぶ。
「俺の目標は! 女性柔道選手の佐々木かなえ選手みたいになることです! 」
無理だろ、と心の中で突っ込みつつも、ゴリは大笑いして合格を出す。
「有名になって! 不労所得で暮らすことです! 」
正直すぎる目標だが、これも合格。
――基準が分からない。
そして、俺の番。
「一年三組! 瀬野龍夜! 」
ゴリの声に促され、前へ出る。
「目標は――っ! 」
言葉が、喉で詰まった。
魔王。
救世主。
異世界。
言えるわけがない。
「……っ、目標は……」
「なんだ? 言えないのか? 」
視線が集まる。
見学に来ている生徒たちの気配が、背中に突き刺さる。
俺は、一度大きく息を吐いた。
逃げるな。
曲げるな。
そして、叫んだ。
「みんなが、安心して暮らせる世界を作ることです! 」
一瞬の静寂。
続けて、胸の奥から言葉を引きずり出す。
「たった一人の、大切な女の子を守れるくらい、強くなりたいです! 」
次の瞬間、女生徒たちが次々と倒れていく音が響いた。
「ほう? 」
ゴリの目が、面白そうに細められる。
「はっはっはっはっ! 」
豪快な笑い声。
「いい! 三人とも合格だ! 」
「明日の体験最終日には、実践に出してやる。上級生相手にな」
実践。
本物の戦い。
――必ず、強くなる。
――必ず、覚醒する。
救世主として。
俺は拳を握りしめ、静かに前を見据えた。