作品タイトル不明
第53話 仮初の日常 4
「よろしくお願いしゃす!! 」
翌日の放課後。
俺は柔道部の部室の前に立ち、腹の底から声を張り上げた――つもりだった。
……噛んだ。
はっきり、盛大に噛んだ。
自分でもわかる。語尾が変な方向に転がり、音程まで裏返っている。
言い終わった直後、時間が止まったみたいに周囲が静まり返った気がした。実際にはそんなことはなく、部室の中からガタガタと物音も聞こえていたのに、俺の世界だけが切り離されたような感覚だった。
やってしまった。
胸の奥が一気に熱くなる。
顔に血が集まり、耳までじんじんする。自分が今どんな表情をしているのか、想像するだけでいたたまれない。
穴があったら入りたい。
いや、できることなら今すぐ地面に飲み込まれたい。
それでも俺は、ここに立っている。
昨日の野外フェス。
あの、音と光と人の波に溢れた空間の中に、悪魔族の連中が紛れ込んでいた。
偶然じゃない。
俺を追って、人間界にまで足を踏み入れてきたのだ。
逃げ続けるだけでは意味がない。
守るためには、立ち向かう力が要る。
アストリアを守るため。
そして、この何気ない日常――人間界を守るため。
そのために必要なのは、派手な魔法でも、奇跡的な覚醒でもない。
まずは、逃げずに立ち続けられる体。
殴られても、投げられても、倒れない肉体。
だから今朝、俺は半ば勢いで柔道部の仮体験入部届けを提出した。
提出した瞬間は「やるしかない」と思っていたのに、今はもう後悔がじわじわと広がっている。
「あん? 」
低く、腹の底から響くような声が部室の奥から聞こえた。
「一年生の体験入部? 」
現れたのは、学園内で“ゴリ”と呼ばれている柔道部主将――田中キャプテン。
近くで見ると、噂以上に威圧感がある。
分厚い胸板、太い腕、無駄のない筋肉。人間というより、壁が歩いているみたいだった。
ゴリは無言のまま俺の前に立ち、頭のてっぺんから靴先まで、ゆっくりと視線を這わせた。
まるで値踏みだ。
「……なんだ」
短く、低い声。
「ヒョロガキじゃねーか」
一言で切り捨てられる。
「確か、あの……告白クラッシャーとかって呼ばれてる一年だろ」
その単語が出た瞬間、胃のあたりがぎゅっと縮む。
「違う! 違わない! けど……違う、あれ? 」
口が勝手に動いた。
頭の中では「落ち着け」と叫んでいるのに、言葉は全然制御できない。緊張しすぎて、何を否定したいのか自分でもわからなくなっていた。
ゴリは俺の様子など気にも留めず、顎で部室の中を指した。
視線を向けると、そこには柔道着姿の部員たちと、その周囲を取り囲むように集まった女生徒たちの姿があった。
柔道部名物の見学者――という名の観客。
視線が刺さる。
俺が動くたびに、ひそひそと声が漏れるのがわかる。
「まぁ……」
ゴリが小さく鼻で笑った。
「目つきだけは、本気みたいだな」
その一言に、胸の奥がわずかにざわついた。
自分でも気づいていなかった何かを、見抜かれたような気がした。
「いいだろう」
ゴリの声が一段低くなる。
「この三日間で、貴様の甘ったるい根性を叩き直してやる。覚悟しろよ」
その言葉と同時に、空気が変わった。
圧。
目に見えない重さが、肩にのしかかってくる。呼吸が浅くなり、心臓が早鐘を打つ。
正直、この場で気絶してもおかしくなかった。
「よし! 」
ゴリの号令が響く。
「一年生全員、グラウンド走り込み十周! 」
……は?
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
十周?
この炎天下で?
視線をグラウンドに向ける。照り返す熱気が、立っているだけで体力を削ってくる。
殺す気か。
心の中で叫びながらも、俺は無言でジャージに着替え、他の部員たちと並んだ。
今さら引き返せる雰囲気じゃない。
「1! 2! 1! 2! 」
掛け声とともに走り出す。
足音が地面を叩くたび、肺の中の空気が乱暴に出入りする。
走るだけでもきついのに、声を出し続けるのは想像以上に辛かった。
喉がすぐに乾き、息が擦れる。
三周目。
膝が笑い始める。
足の感覚が曖昧になり、地面を蹴っている実感が薄れていく。
これが、体力不足というやつか。
「一年! 声が小さい! 」
「すいやせん!」
反射的に返事をする。
……柔道部って、もしかして声出し部なんじゃないか?
そんなどうでもいいことを考えているうちに、ようやく十周目。
ゴールした瞬間、視界がぐらりと歪んだ。倒れ込みそうになる体を、必死に踏みとどまる。
「一年の体験部員! 」
ゴリの声が飛ぶ。
「体験にしちゃ、いい根性してるな」
ほんの一瞬だけ、胸の奥に灯りがともる。
「だがよ」
その続きで、すべてが凍りついた。
「次の訓練で、お前の精神は簡単に崩れる。覚悟しとけ」
……まだ、次がある。
正直、もう限界に近い。
だが、ここで弱音を吐いたら終わりだ。
「次! 」
ゴリが指示を出す。
「ダンベル、両腕十キロ! 」
「うぃす!!」
返事だけは勢いで出た。
――気絶しかけた。
腕が上がらない。
筋肉が内側から裂けそうなほど痛い。
しかも、なぜか謎の掛け声付き。
「セイッ! ハッ! セイッ! ハッ! 」
もう完全に意味がわからない。
「はぁ……はぁ……」
息も整わないまま、俺はゴリを見上げた。
「主将……まだ、実践は、させてもらえないんですか?」
「はっ」
ゴリが短く笑う。
「気の早いやつだな」
そして、淡々と言い放った。
「明日から、学校に来るまでの道を毎朝十キロ走れ。ダンベル運動も三日間続けろ。それができたら、考えてやってもいい」
今日と同じ地獄を、あと三日。
簡単な道じゃない。
逃げたくなる。投げ出したくなる。
それでも――
本当に強くなるというのは、きっとこういうことだ。
派手さも近道もない、地道で、苦しくて、誰にも褒められない道を進むこと。
俺は、歯を食いしばった。