作品タイトル不明
第52話 仮初の日常 3
今日から、本格的に野外フェスのケータリングのバイトが始まった。
まだ朝靄の残る時間帯、会場となる広大な空き地には、無数のテントとトラック、機材が並び、すでに騒がしさを帯びていた。空気には、鉄の匂いと、焼き始めたばかりの肉の脂の匂い、そして微かに甘い飲み物の香りが混じっている。
これが“祭りの裏側”か、と感心する間もなく、俺は流れ作業のようにスタッフ登録を済まされた。
首から下げられたスタッフパス。
そして、手渡された専用Tシャツ。
胸元には、誰がどういう意図で決めたのか、理解に苦しむ文字が、でかでかとプリントされている。
――「アイドル!」
……一番いらない。
思わず遠い目になるが、抗議する暇もなく着替えさせられ、現場に放り込まれた。
鏡を見る余裕もなかったが、たぶん俺は、人生で一番“場違い”な姿をしている。
仕事の手順自体は、意外なほど単純だった。
注文を確認し、料理を受け取り、指定されたテーブルへ運ぶ。それだけだ。
だが、その“だけ”が、とんでもなく重い。
「そこ! 8番テーブルに運んで! 」
「急いで袋に詰める! モタモタするな! 」
怒号が飛び交い、足元ではコードが絡み、背後では鉄板が鳴る。
立ち止まる暇はなく、考える暇もない。
身体がいくつあっても足りないとは、まさにこのことだ。
額から流れる汗が目に入り、視界が滲む。
それでも動き続けるのは、倒れた瞬間に“使えない”と判断されるのが、なんとなく分かっているからだった。
今日のフェスの一番の目玉は、新人男性アイドルグループ、B-BEASTの新曲お披露目単独ライブ。
その情報は、嫌というほど耳に入ってきた。
30万円の分岐点。
B-BEASTのスタッフとして選ばれた俺は、どうやら“演出補助”の役割も担っているらしい。
とにかく目立たせろ。
新人だからこそ、インパクトが命だ。
そう言われ、俺は持てる限りの技術を使って、派手なプロジェクションマッピングを用意した。
夜空を裂く光、ステージと連動する映像、観客の視線を一瞬で奪う仕掛け。
……まさか、それが仇になるとは、この時は思いもしなかった。
やがて、B-BEASTの出番がやってきた。
新人アイドルの新曲初披露ということもあり、会場は早くも異様な熱気に包まれている。
ペンライトの波がうねり、期待と高揚が、肌にまとわりつくようだった。
俺は会場全体の安全確認のため、スタッフパスを外し、一人の観客として人混みに紛れ込んだ。
視線を走らせ、異変がないかを探る。
その時点では、まだ“普通のフェス”だった。
トークショーが終わり、照明が落ちる。
静寂のあと、一気に音が弾けた。
新曲披露の始まりだ。
歓声が地鳴りのように響き、身体の芯まで震わせる。
空気そのものが揺れているようだった。
――その瞬間。
俺の中に、言葉にならない違和感が走った。
センターで踊る、白のイメージカラーに包まれたメンバー。
セラフィム。
ステージから遠く離れているはずなのに、確かに――視線が合った。
(ふふっ)
耳元ではなく、頭の奥に直接響く声。
!!
悪魔だ。
理屈ではなく、本能が叫んでいた。
(やっと逢えたね。救世主くん)
「……っ! 」
背筋が凍る。
「お前ら、なぜここに! 」
(君が人間界に逃げたって聞いて、追って来たんだよ。僕たち悪魔族の情報網を、甘く見ないでよ)
ステージ上では、完璧な笑顔とダンス。
だが、その裏で放たれる悪意が、皮膚を刺す。
「く……っ、この歌を……やめろっ! 」
次の瞬間、頭が割れるような痛みが走った。
立っていられない。膝が笑い、視界が歪む。
周囲を見ると、観客たちも次々と崩れ落ちていく。
「なんか、この歌……素敵」
「う〜ん、眠くなる……」
陶酔と混濁。
意識を奪う旋律。
(ミユウちゃんも、可愛いものだね)
「なんだと?! 」
怒りが、痛みを押しのけて噴き上がる。
セラフィムが、軽く指を鳴らした。
すると、俺が用意したプロジェクションマッピングが、唐突に歪み――映し出されたのは、ミユウの姿だった。
(記憶がないのに、純粋に君の帰りを待ってる)
「ミユウのことを……言うな! 」
再び指が鳴る。
ミユウの顔が苦痛に歪み、悲鳴を上げることもなく、映像は霧のように消滅した。
「違う……これは……幻覚だ! 」
俺は叫び、咆哮とともに魔力を解放する。
映像は弾け飛ぶように消え去った。
(それは君次第だよ)
嘲笑。
次の瞬間、ステージ上の6人の悪魔たちが、会場へ向けて一斉に衝撃波を放った。
悲鳴。
逃げ惑う人々。
破壊されるセット。
「やめろ! 一般人まで巻き込む気か! 」
俺は残された、わずかな魔力をかき集め、結界を張る。
何重にも、必死に。
だが、次々と浴びせられる衝撃波が、それを削っていく。
――このままじゃ、持たない!
(ふぅん、つまんないの)
急に、圧が消えた。
「……っ、はぁっ……! はぁっ……! 」
俺は膝をつき、肩で荒い呼吸をする。
肺が焼けるように痛い。
(次は魔界で会おう。救世主くん)
そう言い残し、悪魔たちの気配は霧散した。
「あら? 私、ここで何してたんだっけ?」
「B-BEASTは? 」
観客たちが、次々と目を覚まし始める。 だが、誰も異変を正確には覚えていない。
――守れた。ギリギリで。
だが、同時に痛感する。
こんなんじゃ、まだ足りない。
体力も、魔力も、覚悟も。
もっと強くなる。
ミユウにも、人間界にも、二度と手出しはさせない。
30万円のバイト代を、汗で湿った手で握り締めながら、俺は静かに、だが確かに誓った。