作品タイトル不明
第50話 仮初の日常 1
「あら、瀬野くん、気がついたのね」
耳元で、柔らかくも聞き慣れた声がした。
重たいまぶたをゆっくりと押し上げると、白い天井が視界いっぱいに広がる。
消毒液の匂い。カーテン越しに差し込む午後の光。点滴スタンドの規則正しい影。
――病院、か。
「あぁ、先生……すみません。俺、なんでここに……」
喉がひどく乾いていて、声は自分でも驚くほどかすれていた。
「三日前、持病の胃腸炎が悪化して気絶したのよ。検査もしたけど異常はなし。整腸剤がよく効いたみたいで安心したわ」
保健医の先生はカルテを閉じながら、事務的な口調でそう言った。
三日前。
その言葉が、頭の中で何度も反響する。
――待て待て待て。
理解が、まるで追いつかない。
俺は確かに、アストリアにいた。少なくとも三か月。
剣を握り、血を流し、祈りと絶望の中で戦い続けていたはずだ。あれほど濃密な時間が、たった三日で済まされるはずがない。
普通に考えれば、現実世界ではとっくに大騒ぎになっているはずだ。
「高校生、謎の疾走!」
「瀬野龍夜、行方不明!」
そんな見出しがニュースを埋め尽くしていてもおかしくない。
……三日前、だと?
重たい頭を必死に回転させ、ようやく一つの答えに行き着く。
あぁ、そうか。
天界と人間界では、時間の流れが違う。
それなら、辻褄は合う。
合う、が――。
「……誰だよ」
思わず、ぼそりと呟いた。
「人を、そんな持病持ちにしたのは」
「よぉ! 持病持ちの救世主さん、やっとお目覚めか?」
その声と同時に、病室の扉が勢いよく開いた。
保健医の先生が席を外した、その隙を狙ったかのようなタイミングだった。
踏ん反り返るように現れたのは、見慣れすぎた男――拓哉。
「やっぱり! お前か! 人を病気持ちにした犯人は!」
「えー! だって仕方ないじゃん!」
拓哉は悪びれもせず、肩をすくめる。
「この俺が、小説家バリの嘘設定で誤魔化してやったんだぞ? 感謝くらいしろよ。じゃなきゃお前、マジで『高校生、謎の疾走』とかでニュース沙汰だったんだからな」
「うぐ……」
言葉に詰まる。
確かに、正論だった。
「三日間、急性胃腸炎で入院。ストレスが原因。記憶は曖昧。完璧だろ?」
「……余計な設定盛るな」
だが反論は、それ以上続かなかった。
助けられたのは事実だ。
△△△
「……と、いうわけで」
拓哉はストローでドリンクをかき混ぜながら、満足そうに言った。
「チート能力を手放した剛田唱は、生まれ変わった正天使と結婚して、幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」
「それ、今言うか!?」
その日の放課後。
俺は半ば強引にファミレスへ連行され、例の異世界転生漫画の最終回ネタバレを一方的に聞かされていた。
「単行本派の奴もいるだろ!」
「いやいや、休載してた漫画な? 担当編集が気を利かせて、最終回まで予約投稿してたらしいぜ」
「余計な気遣いだ!」
俺はテーブルを叩き、思わず立ち上がりかけた。
「それに! 俺の新しいスマホ、まだ届いてねーんだよ! 記憶も曖昧、連絡先も飛んでる、なのにネタバレ食らうとか地獄かよ!」
「えー、いいじゃん。深夜アニメでももうやったし」
「お前いい加減にしろ!」
怒鳴り声が店内に響き、周囲の視線が一斉にこちらへ集まる。
数秒遅れて、冷静さが戻った。
……今のは、さすがに大人げなかった。
俺は無言で席に座り直し、氷の溶けたドリンクを一口飲んだ。
味が、しなかった。
――俺は、帰ってきたんだ。
アストリアでの戦いは、誰にも共有されない。
英雄譚も、血の重みも、祈りの声も。
ここではすべて、なかったことになる。
翌日。
学校に着いて下駄箱を開けた瞬間、異変は起きた。
ばさっ、と乾いた音とともに、大量の紙が足元に散らばる。
「……は?」
しゃがみ込み、一枚を拾い上げる。
――瀬野龍夜くんへ。
放課後、学校の裏庭へ来てください。
短い文面。だが、嫌な予感しかしない。
挑戦状。
これは、絶対にまずいやつだ。
(選択肢:逃げる)
即決だった。
俺は手紙の山を鞄に押し込み、踵を返す。
――が、遅かった。
「瀬野くーんっ!」
背後から、甲高い声。
振り向いた瞬間、視界いっぱいに広がる女子生徒の群れ。
「は……?」
逃げる。
だが、逃げても逃げても追いかけてくる。
「やめろ! やめてくれ! 俺は女子が苦手なんだぁ!」
心の中で、拓哉の顔を何度も踏みつける。
――覚えてろよ。
息を切らしながら、校舎の影を駆け抜ける。
胸の奥に、奇妙な感覚があった。
剣も、魔法も、奇跡もない。
だが、確かにここにある――この騒がしくて、どうしようもない現実。
これが、これからの日常。
アストリアと人間界の扉は、まだ開かない。
だが俺は、しばらくこの世界で生きていく。