作品タイトル不明
第49話 眠れぬ夜、最後の夜
「……眠れないのか? 」
自分の声が、思っていたよりも低く、静かな夜気に溶けていった。
部屋の前に立っていたのは、ナイトガウンを羽織ったミユウだった。
月明かりが廊下の窓から差し込み、彼女の金色の長い髪を淡く照らしている。
絹糸のようなその髪は、かつて何度も俺の指をすり抜けてきたはずなのに、今はどこか現実味が薄く、触れれば消えてしまいそうだった。
顔色は蒼白で、目の下にはくっきりとしたクマが浮かんでいる。眠れていないのだと、一目で分かった。
涙を溜めた瞳はかすかに揺れ、呼吸は浅く、時折小さく肩が震える。
――ああ。
彼女は、どれほど長い夜を、ひとりで耐えてきたのだろう。
暗く、寒く、誰にも気づかれないまま。
眠ることさえ許されない、不安と恐怖に満ちた夜を。
「一緒に……寝ようか?」
できるだけ柔らかく、彼女を脅かさないように声を選ぶ。
俺がそっと手招きすると、ミユウは一瞬だけ躊躇い、それから小さく頷いた。
ゆっくりと近づいてきて、まるで壊れ物に触れるような慎重さで、俺の膝に腰を下ろす。
その体重は驚くほど軽かった。
胸に抱き寄せると、ミユウはほっとしたように息を吐き、額を俺の胸元に押し当てる。細い指が、縋るように服を掴んだ。
「……私、怖いの……」
震える声が、胸の奥に直接響く。
抱きしめる腕に、自然と力がこもった。
「……悪魔族が、もうそこまで来てるって……。それに……」
言葉が途切れ、彼女は一度、深く息を吸った。
「……夢で、何度も見るの。思い出せないのに……でも、分かるの。とても大切な人が……死ぬ夢……」
声は掠れ、ほとんど囁きに近い。
それでも、痛いほどはっきりと伝わってきた。
――未来の予感か。
それとも、すでに失われた記憶の残響か。
「大丈夫だ」
即座に、迷いなく言った。
「俺がいる。朝までずっと、こうして抱きしめてる」
それは慰めでも、気休めでもない。
誓いだった。
ミユウはしばらく黙ったまま、俺の胸の中で小さく震えていたが、やがてその震えは徐々に収まり、呼吸がゆっくりと整っていく。
長い睫毛が伏せられ、まぶたが静かに閉じられた。
――眠った、のか。
その寝顔を見下ろした瞬間、胸が締め付けられた。
ミユウの身体が、わずかに透けている。
月明かりが、彼女の輪郭を通り抜けている。
視界が、ゆっくりと歪み始めた。
アストリアの宮殿の天井が、溶けるように遠ざかり、代わりに見慣れた白い天井が重なっていく。
――時間だ。
「……お別れだ」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
俺はミユウをそっとベッドに横たえ、前髪をかき上げる。
滑らかな額に、静かに唇を落とした。
「……いや、違うな」
小さく、独り言のように呟く。
「俺は、人間界でやることがある」
ミユウの指を、そっと握る。
その温もりを、確かに覚え込ませるように。
体力をつける。
ミユウに贈る指輪を買う。
医学を学ぶ。
守るために。
救うために。
どれだけあっても、足りない。
それでも、積み上げるしかない。
「必ず、すぐ戻る」
眠り続けるミユウは、何も答えない。
それでも、その穏やかな表情が、何よりの返事だった。
「……愛してる」
そっと囁く。
もう何度言ったか、分からない。
それは告白ではなく、祈りであり、誓いだった。
どんな試練も、どんな恐怖も、共に乗り越えるという約束。
その誓いを祝福するかのように、窓の外では満天の星が瞬いている。
身体が、ふわりと軽くなる。
意識が、遠のいていく。
浮遊感に包まれた瞬間、アストリアの景色は完全に消え――
次に目を開けた時、そこは学校の保健室のベッドだった。
消毒薬の匂い。
カーテン越しに聞こえる、クラスメイトたちのざわめき。
保健の先生が、慌ただしく行き来する足音。
「ああ……」
思わず、息が漏れた。
――俺の異世界生活は、終わったのか。
胸に残る温もりを、無意識に握りしめる。
違う。
終わりじゃない。
これからが、本番だ。
悪魔族との戦いが、本格的に始まる。
必ず、終わらせる。
ミユウの悲しみも、恐怖も、不安も。
俺は保健室の窓を睨みつけ、何度も、何度も誓った。