作品タイトル不明
第47話 失われた記憶をさがして
「ここに……いたのか……。」
声をかけた瞬間、自分の喉がひどく渇いていることに気づいた。
掠れた音しか出なかったのは、寒さのせいじゃない。
「あ……」
短い返事とともに、ミユウの肩がわずかに揺れる。
俺はようやく、アストリアの宮殿の裏庭で、川を覗き込んでいるミユウを見つけた。
澄んだ水面には朝の光が差し込み、きらきらと揺れている。その光をただ黙って見つめる背中は、小さく、ひどく心細く見えた。
声をかけるまで、どれほどの時間、ここに立ち尽くしていたのだろう。
近づけば壊れてしまいそうで、遠ざかれば消えてしまいそうで、足が動かなかった。
朝、目を覚ましたとき、宮殿の部屋にミユウの姿はなかった。
寝台の隣。
いつもなら、そこにあるはずの温もりがなかった。
また、失うのか。
その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥が冷たく締めつけられ、息が浅くなる。
心臓の音がうるさくて、世界の音が遠のいていく。
言い知れない恐怖と不安に突き動かされ、俺は汗だくになって宮殿中を探し回っていた。
名を呼ぶことすら怖かった。
呼んで、返事がなかったら――それだけで、何かが壊れてしまいそうだったから。
毎夜、悪夢にうなされては悲鳴を上げて飛び起きる。
喉が裂けるほど嗚咽を漏らし、呼吸の仕方さえ分からなくなる。
九百年。
共に生き、笑い、泣き、何度も死線を越え、積み重ねてきた時間。
そのすべての記憶を失い、ミユウは空っぽの人形のようになってしまった。
それでも――。
それでも、彼女はここにいる。
立っている。歩いている。前を向こうとしている。
その事実だけが、俺をかろうじて繋ぎ止めていた。
今のあの子は、誰よりも強くて、誰よりも孤独だった。
「ごめんなさい。ここに来たら、何か思い出すかもしれないって……。よく、夢で川が出てくるから」
振り返ったミユウの表情は、どこか怯えていて、それでも必死に平静を装っていた。
その視線は、俺を見ているようで、どこか遠くを見ている。
ごめんなさい。
その言葉は、記憶を失ってから、毎日のように繰り返されてきた。
朝も、昼も、夜も。
何かを口にするたび、息をするたび、まるで自分の存在そのものを謝り続けるかのように。
失ったことへの罪悪感。
思い出せないことへの恐怖。
そして、俺に向けられた、必要のないはずの申し訳なさ。
そんなものは、いらないのに。
ただ生きていてくれればいい。ここにいて、同じ空気を吸って、今日を一緒に過ごしてくれれば、それだけでいい。
それだけで、俺は何度でも立ち上がれるのに。
「ごめんなさい……」
その一言で、胸の奥が軋んだ。俺が積み重ねてきた想いも、願いも、祈りも、すべて否定されたような気がして、息が詰まる。
「ごめんなさい。何をしても、思い出せないの。神官長や、大司教様にも話を聞いたんだけど……」
「思い出そうとすると、頭の中にモヤがかかって……まるで、思い出すのを拒否してるみたいで……」
言葉を選びながら話すたび、ミユウの指先が小さく震えているのが見えた。
自分を責める癖だけが、記憶の代わりに残ってしまったみたいだった。
――あぁ。
ずっと喪失感だけで満たされていた胸の奥に、じんわりと温かいものが流れ込んでくる。
この子は、逃げていない。忘れたまま、何も考えずに生きようとしているわけじゃない。
思い出せなくても、向き合おうとしている。
壊れてもいいと、覚悟を決めて、立っている。
額には大粒の汗。
肩は小さく震え、唇は強く噛みしめられていた。
思い出すために、壊れてしまいそうなほどの力を、今も使っているのだ。
俺は、いつもお前を傷つける。
守りたいと願うたびに、結果的に苦しめてしまう。
それでも、離れることだけは、どうしてもできなかった。
だから――。
「……無理、するな」
喉の奥から、掠れた声が零れ落ちる。
涙が溢れそうになるのを、必死で押し殺しながら。
「無理に思い出さなくていい。俺は……今の……ありのままのお前が、好きだ」
言葉にした瞬間、ようやく自分の本音に触れた気がした。
過去でも、記憶でもない。
今、ここにいる彼女”を、俺は確かに愛している。
後ろから、そっと抱きしめる。
拒まれないように、壊さないように、力を入れすぎないように。
ただ触れるだけで、伝わることを願って。
「あ……暖かい。私……知ってる。この手……」
その声に、胸が大きく跳ねる。
「思い出したのか?」
思わず、期待が声に滲んでしまう。
だが、ミユウは俺の胸の中で、ゆっくりと首を横に振った。
「雰囲気だけ……。安心する感じ。でも……肝心の名前が、どうしても……」
それでいい。
それ以上を、今は望まない。
名前を思い出せなくても、ここにある感情は嘘じゃない。
それだけで、十分すぎるほどだった。
俺はミユウの前に回り込み、目線を合わせて、静かに、確かめるように名を告げた。
「俺は、瀬野龍夜だよ。スローライフ狙って異世界転生してみたら、伝説の救世主だった」
少しだけ、肩の力を抜くつもりで言った言葉に、自分でも小さく笑ってしまう。
笑える余裕が残っていたことに、ほっとする。
「そして……九百年前から、ミユウの恋人だ」
答えを求めるためじゃない。
思い出してもらうためでもない。
ただ、何度でも伝えるために。
そのまま、ミユウの唇にキスを落とす。
記憶を呼び覚ますためではなく、今ここにいる彼女を抱きしめるために。
ゆっくりと、優しく、想いを込めて。
ミユウの目が見開かれ、次の瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「龍夜くん……! 龍夜くんっ……! 」
その声は、思い出した叫びではなかった。
過去に縋る声でもない。
“今、感じた確かさ”に必死に縋る、切実な悲鳴だった。
思い出さなくていい。
全部、失ったままでいい。
それでも、これからを生きていける。
新しい歴史を、何度でも、一緒に作ればいい。
その想いが伝わるように、俺は何度も、何度も、ミユウにキスを落とした。
――記憶がなくても、愛はここにあると、伝えるために。
「ごめんなさいは、もう言うな」
不意に、静かな声が零れた。
「え?」
戸惑ったように見上げるミユウの目を、俺はまっすぐに見つめ返す。
「お前が記憶を思い出せる世界を、俺が作る」
それは誓いでも、希望でもない。
ただの、決意だった。
「何年かかっても。どんな代償を払ってでも」
記憶は、戻らなくていい。
それでも構わない。
それでも――お前が笑って生きられる場所だけは、必ず俺が守る。
そう、心の奥で静かに誓いながら、俺は再びミユウを抱きしめた。
川の水音だけが、変わらず流れ続けていた。