作品タイトル不明
第45話 名前を失った光
「……ッ!! 」
肺の奥に溜まりきっていた空気を、内側から叩き割るように吐き出し、俺は跳ね起きた。
喉の奥が焼ける。胸が痛む。呼吸の仕方すら思い出せない。
――生きている。
その事実を理解するより先に、心臓が暴れるように脈打ち、鼓動の振動が耳の奥を殴りつけてきた。
ここは――。
「……ここ、は? 」
掠れた声が、自分のものだと気づくまでに少し時間がかかった。
視界いっぱいに広がるのは、淡く発光する天井。
天界アストリアの宮殿、その一室。
何度も目にしてきたはずの光景なのに、ひどく遠い。
まるで、他人の人生の中に紛れ込んだみたいだった。
頭が重い。
思考が、濁った水の底を引きずられるように遅い。
――思い出せない。
俺は……何を……?
胸の奥が、ざわつく。
理由のわからない焦燥が、じわじわと広がっていく。
忘れてはいけないことがある。
忘れたままでいてはいけないことが。
その確信だけが、痛いほどはっきりしていた。
そして――
鼻を刺す、鉄の匂い。
空気を切り裂く、魔王の刃。
嘲るような、低い嗤い声。
俺の視界を塞ぐように、迷いなく飛び出してきた、小さな背中。
白い翼が、赤く染まった光景。
記憶が、容赦なく叩きつけられる。
「ミユウ!! 」
叫んだ。
確かに、叫んだつもりだった。
けれど、実際に零れ落ちたのは、声になりきらない息だけだったかもしれない。
守れなかった。
その事実が、刃物のように胸に突き刺さる。
守ると誓った。
何度も、何度も。
あの子が傷つくくらいなら、自分が倒れた方がいいと。
それが当たり前だと、疑いもしなかったのに。
結果はどうだ。
俺は生きていて。
あの子は――。
「……っ」
気づけば、拳を握りしめていた。
衝動のまま振り上げる。
壁でも、床でも、何でもよかった。
出来るなら、自分自身を殴り飛ばしたかった。
だが、その拳は途中で止められた。
「やめろ」
低く、感情を削ぎ落とした声。
隣に立っていたのは、ルゥだった。
常に冷静で、感情を表に出さない彼の顔に、はっきりと刻まれた疲労と喪失。
その表情を見た瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちた。
「ルゥ……! 」
縋るように、その名を呼ぶ。
「ミユウは?! 無事なんだろ?! ここにいるんだろ?! 」
自分でも分かる。
必死すぎる声だった。
否定してほしかった。
「大丈夫だ」と言ってほしかった。
けれど、ルゥは何も言わず、ただ静かに首を振った。
「あの子は、ここにはいない」
短い言葉。
それだけで、肺の空気が一気に奪われる。
「少なくとも、アストリアにはな」
「……ッ! 」
息が、詰まる。
「あの子は、あの時――確かに死んだ」
淡々と告げられた言葉は、現実そのものだった。
感情がないからこそ、逃げ場がない。
「魔王の刃から、お前を庇った時にな」
「そん……な……」
否定する言葉も、怒鳴る力も残っていなかった。
世界から色が消え、音が遠ざかっていく。
俺の中に残ったのは、圧倒的な虚無と後悔だけだった。
俺が弱かった。
俺が、間に合わなかった。
「あの子は……いま……どこに……」
喉の奥を引き裂くように、問いを絞り出す。
ルゥは一瞬だけ視線を逸らし、やがて静かに続けた。
「あの子は確かに死んだ。だが、正天使だった」
その言葉に、微かな希望が滲む。
「奇跡のように、わずかな生命力が残っていた」
希望と同時に、恐怖が押し寄せる。
「天使たちが連れ出した。今は、延命治療を受けている」
「……延命……治療? 」
その単語が、背筋を冷たく撫でた。
思い出す。
かつて見た、天使の治療。
命を繋ぐために、心を削り続ける、あの行為。
俺のせいで。
また、あの子を地獄に縛り付けている。
それからの時間は、曖昧だった。
一週間か。
一か月か。
あるいは、一年が過ぎていたのかもしれない。
昼と夜の区別も、意味を失った。
俺に残されたのは、祈ることだけだった。
何度も自分を責めた。
何度も、ここにいる資格はないと思った。
俺が近くにいたから、あの子は無理をした。
俺を守ろうとして、命を投げ出した。
それなら――
俺は、そばにいない方が良かったんじゃないのか。
そんな考えが、何度も、何度も頭を巡る。
もう、俺には――。
その時だった。
静かに扉が開き、ルゥが入ってくる。
その腕の中に、小さな身体を抱えて。
「……ミユウ……! 」
思わず駆け寄ろうとした俺を、ルゥが制した。
「静かにしろ」
ミユウは、驚くほど軽かった。
金色の髪は力なく垂れ、顔色は蒼白。
それでも、胸が微かに上下しているのを見て、ようやく理解する。
――生きている。
「出来る限りのことはした。あとは、この子自身の生きたいという思いにかけるしかない」
「あ……」
言葉が、見つからなかった。
それから、また祈る日々が始まった。
一日一羽、小さな鶴を折る。
不器用な指で、何度も失敗しながら。
折るたびに願う。
生きてほしい。
戻ってきてほしい。
昼にはハンモックで眠り、
夜には星を数えて目を閉じる。
これが、俺が欲しかったはずのスローライフ。
だが――
ミユウがいなければ、意味がない。
やがて、千羽目の鶴を折り終えた頃。
微かな気配に、俺は顔を上げた。
「ミユウ……? 」
祈るように、名前を呼ぶ。
「俺が……わかるか……? 」
返ってきたのは。
「だ……れ? 」
その一言が、静かに、確実に、俺の心を壊した。