作品タイトル不明
第44話 ミユウのことかーー
「はぁっ……! はぁっ…!」
俺はもう、肩を激しく揺らして荒々しい呼吸をしていた。
息を吸っても、身体の奥まで届かない。
胸が上下するたび、空気だけが抜けていく。
肺が疲れているのではなかった。
身体そのものが、もう呼吸を続ける前提で作られていない。
限界は、いつ越えたのか。
思い出せない。
すでにガレン、リリア、ラフィセルの3人と全力で闘い、魔力がとっくに枯渇していたことに、自分で気づかなかった。
それが、唯一の理由だった。
俺が倒れたら、終わる。
それだけを、何度も自分に言い聞かせていた。
視界が揺れる。
夜空が滲み、輪郭を失っていく。
星と雲の境界が溶け合い、どこからが空で、どこまでが地面なのか分からなくなる。
熱いのか、寒いのかも判然としない。
ただ、身体の内側から、鈍い音が聞こえていた。
何かが、確実に壊れている音だ。
それでも、足は地面を踏みしめていた。
立っているというより、倒れるのを先延ばしにしているだけだった。
闇の奥で、低い声が響く。
「苦しそうだな、救世主」
魔王の声は、余裕に満ちていた。
勝敗が、すでに決している者の声音だった。
「安心しろ。今、楽にしてやる」
楽に、か。
「……はぁ……ふざ……けんなよ……」
喉が張り付き、声が掠れる。
強がる力すら、残っていなかった。
黒い雲が裂ける。
その中心で、光が生まれた。
黒い短剣。
迷いがない。
躊躇もない。
一直線に、俺の心臓へ。
避けられない。
身体が、それを理解していた。
ああ、と思う。
ここで終わるのか。
恐怖はなかった。
ただ、静かな納得だけがあった。
――ごめん。
誰に向けた言葉だったのかは、分からない。
「龍夜くん――」
声。
次の瞬間、視界が反転した。
強い衝撃に、身体が地面へ叩きつけられる。
……痛くない。
それが、最初の違和感だった。
目を開ける。
ミユウが、いた。
俺の上に覆い被さるように倒れ、
黒い短剣を、その身で受け止めている。
一瞬、理解が追いつかない。
時間が、引き延ばされたみたいだった。
白い羽根が、闇の中に散っていく。
蒼白な顔。
微かに震える肩。
「……嘘だろ」
声が、自分のものに聞こえなかった。
喉が詰まり、呼吸が浅くなる。
これを現実として受け取ったら、
もう、元の場所には戻れない。
そう思った瞬間、
初めて、怖くなった。
「しっかりしろ……」
言葉が、うまく続かない。
「俺を……一人にするな……」
何を言えばいいのか、分からなかった。
何を言っても、足りない。
ミユウの瞳から、涙が零れる。
その理由を、考える余裕もなかった。
ただ、胸の奥が、何も感じなくなっていく。
指先に触れる。
冷え始めている。
それが、すべてだった。
思い出そうとしたわけじゃない。
記憶は、勝手に浮かび上がってきた。
初めて会った日のこと。
距離が近くて、空気が読めなくて、
気づけば、隣にいた。
いない時間を、
一度も前提にしたことがなかった。
九百年前も、同じだ。
何も分からなかった俺に、
最初に触れたのは、あの手だった。
――救われていたのは、どちらだったのか。
「ふん……手こずらせやがって」
魔王の声が、現実を引き戻す。
「やはり、正天使も偽りだったな」
その言葉で、
世界が、音を立てて切り離された。
偽り?
命を差し出した行為を、
その一言で片付ける場所に、
もう立っている理由はなかった。
怒り、というより、拒絶だった。
この世界そのものへの。
ミユウを抱き上げる。
軽い。
世界の重さが、
腕の中に収まってしまうほどに。
足が震える。
視界が赤く染まる。
それでも、立つ。
「ミユウのことか――」
声が、音になる前に壊れた。
叫びは、祈りに近かった。
力が溢れたのではない。
止めていたものが、消えただけだ。
魔王が、後ずさる。
「ぐあっ……なんだ、この力は……! 」
知らないのか。
これが、人間だ。
「ミユウのことを言わなければ……
命だけは助けてやったのに」
笑っていた。
自分でも分かる。
完全に壊れた笑みだ。
「俺は……全部、失った」
「ならば、その偽りの正天使の元へ――」
「バカヤローーーーッ!! 」
アストラルブレイドを投げる。
狙いは、もう意味を持たない。
当たるかどうかも、関係なかった。
結果だけが、残る。
魔王の咆哮が、夜に溶けていく。
「…… 核(コア) を……破壊しない限り……」
言葉は、もう頭に届かなかった。
ミユウを抱いたまま、
膝が折れる。
世界が、静かに暗転する。
次に目を開けた時、
彼女がいないなら――
それが、この世界の正体だ。