作品タイトル不明
第43話 救世主は、1人では立てない
世界が、静かになった。
それは突然のことだった。
嵐のように荒れ狂っていた魔力の奔流が、まるで嘘だったかのように消え失せ、空気が張りつめた膜のように固まる。
風が止む。
轟音が遠ざかる。
天使たちが恐慌に駆られ、悲鳴をあげながら散っていくはずの羽音すら、もう聞こえない。
音という音が奪われた世界に、残されたものは、たった二つだけだった。
ひとつは――魔王の心臓の音。
恐怖と怒りがないまぜになり、早鐘のように打ち鳴らされる、生々しい鼓動。
もうひとつは――俺の内側から聞こえてくる、力の声。
――まだだ。
――もっと出来る。
――壊せ。
――殺せ。
理性とは無関係に、甘く囁くその声に、俺は思わず口の端を歪めた。
「……うるせぇな」
小さく呟いたつもりだったが、静まり返った世界では、それすらやけに大きく響いた。
魔王が、赤黒く光る瞳を細める。
その視線には、憎悪だけではない。
理解できないものを前にした恐怖と、認めたくない現実への拒絶が、はっきりと浮かんでいた。
「来てみろ……救世主! 」
魔王の咆哮が、空間を震わせる。
何百年、いや、それ以上の時を生き、積み上げてきた憎悪と絶望が、声となって叩きつけられる。
世界そのものに対する呪詛のような叫びだった。
それでも。
「……行ってやる必要もねぇよ」
俺は一歩も動かなかった。
剣も振るわない。
距離も詰めない。
ただ、拳を握りしめる。
魔力が、内側で渦を巻く。
制御なんてしていない。
力を、解放しただけだ。
「な――っ!? 」
魔王の声が裏返る。
次の瞬間、魔王の身体が見えない衝撃に叩き上げられ、宙を舞った。
地面に激突し、岩盤を砕きながら何度も転がる。
轟音が、遅れて戻ってきた。
「ぐ……ぅ……! 」
魔王は呻き声を上げながら、無理やり立ち上がる。
砕けた腕、歪んだ脚。
だが、それらは黒い魔力に覆われ、瞬く間に再生していった。
「……不死、か」
俺は息を吐く。
厄介だが、想定内だ。
「この……名ばかり救世主がぁ! 」
魔王は叫び、怒りに任せて突進してくる。
その速度は、先ほどまでとは比べものにならない。
だが――遅い。
俺は手を突き出す。
「来ないのか? 」
指を開くと同時に、圧縮された魔力が解放された。
空間そのものが歪み、衝撃波が魔王を叩き潰す。
「ぐあっ! クソガキがぁっ! 」
魔王は再び吹き飛ばされる。
だが、今度は空中で体勢を立て直し、着地と同時に黒い短剣を生成した。
その刃から、禍々しい気配が溢れ出す。
――その瞬間だった。
胸の奥で、嫌な音がした。
ギシ、と。
何かが軋む感覚。
息が、うまく吸えない。
肺が空気を拒むように、浅く震える。
――使いすぎた。
「はぁ……っ、はぁ……っ……」
心臓を押さえ、無理やり呼吸を整えようとする。
だが、鼓動は早まるばかりで、視界の端がじわりと暗む。
冷や汗が、頬を伝って落ちた。
魔王は、その変化を見逃さなかった。
「……ほう」
赤い瞳が、嗤う。
「限界か? 救世主よ」
魔王はゆっくりと距離を詰めてくる。
獲物をいたぶるような、嫌な歩き方だった。
「ならば――次は、私の番だ」
「く……っ! 」
俺は反射的にアストラルブレイドを構える。
だが、腕が重い。
剣の感触が、遠い。
――まずい。
そう理解した瞬間。
「龍夜くん! 無茶しないで! 」
ミユウの声が、世界に割り込んできた。
振り返ると、そこにいたのは、小さな身体で必死に立つミユウだった。
足は震え、唇は噛みしめられている。
それでも、その瞳だけは、真っ直ぐに俺を見ていた。
「神様……お願い……! 」
ミユウは天を仰ぎ、声を振り絞る。
「私を……もう一度、正天使にしてください!
龍夜くんと……一緒に戦いたいの! 」
その言葉に、俺の胸が強く締めつけられた。
――世界のためじゃない。
――正義のためでもない。
ただ、俺の隣に立つためだけの祈り。
その想いに、神々は沈黙しなかった。
黄金の光が、ミユウを包み込む。
空気が震え、神聖な気配が世界を満たしていく。
銀色のツインテールは金色に変わり、幼い身体は、神に近い存在――正天使の姿へと変貌した。
「ミユウ……」
言葉が、喉で止まる。
――美しい。
だが、それ以上に、胸が痛んだ。
また、無理をさせた。
俺のせいで。
「安心して」
ミユウは静かに微笑む。
その声は、いつもの無邪気なものではなかった。
「私が、一緒に戦うから」
ミユウが俺の手を取る。
その温もりが、胸の奥に絡みついていた恐怖を、ゆっくりとほどいていく。
呼吸が、整う。
心臓の鼓動が、落ち着いていく。
魔王が、一歩後ずさった。
「……馬鹿な……」
その声には、明確な怯えが混じっていた。
「小娘ごときが……神の力を……! 」
「小娘、ね」
ミユウは静かに言い返し、俺の手を強く握る。
「私は、どの時代の龍夜くんも、大好きよ」
守られる側が、支える側になっている。
その事実が、胸を締めつける。
それでも。
この手を、離したくなかった。
「ミユウ……俺も、大好きだ」
その言葉と同時に、力が満ちていく。
「魔王! 」
俺は剣を構え直す。
「これで終わりだ!
俺たちの力、見せてやる! 」
「龍夜くん! 今よ! 」
二人の力が、重なる。
光と闇が激突し、世界が悲鳴を上げる。
「ぐ、ああああああああっ!! 」
魔王の断末魔が、空を裂いた。
――終わった。
――やっと、終わった。
だが、空はまだ黒く、世界は、沈黙したままだった。
俺は力尽き、ミユウの胸に倒れ込む。
「龍夜くん! 」
「……まだ、だ」
掠れた声で、そう言った。
「これぐらいで……終わる俺じゃ……ねぇ」
ミユウの肩を借り、俺は立ち上がる。
この身体が、どこまで持つのか。
答えは、まだ出ていない。
心臓を押さえ、
黒く薄曇る空を、睨みつけた。
――救世主は、ひとりでは立てない。
それでも、俺は前に進む。