作品タイトル不明
第41話 救世主を辞める誘惑
「ふぅん……リリアもガレンも、型なしか。」
瓦礫が転がり、血と焦げた匂いが残る戦場に、間の抜けた声が落ちた。
その声音に、勝者の余裕はない。達成感も、誇りもない。ただ、退屈と失望だけがあった。
ラフィセルは、心底つまらなさそうに肩をすくめる。
「九百年も続いた物語のわりには、随分あっけないね」
その一言は、今ここに至るまでのすべてを、軽々と踏み潰す力を持っていた。
積み重ねた覚悟も、流した血も、選び続けてきた決断も――意味がなかったと言わんばかりに。
「まあ、いいや」
そう呟くと、彼は興味を失った玩具を床に放り投げるように視線を滑らせる。
次に向けられた先。
ミユウ。
「ミユウちゃんも、可愛くない」
胸の奥が、ひやりと冷えた。
「あのまま、僕の言う通りにしていれば、この世界の女王にしてあげたのに」
女王。
選ばれる者。守られる者。
戦う必要も、傷つく必要もなく、何ひとつ決めなくていい場所。
――甘い。
それは、痛みを知る者ほど抗えない誘惑だった。
「……ッ」
ミユウの瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。
恐怖でも、欲でもない。
「人として当然の迷い」
その揺れを、俺は見逃さなかった。
「聞くな! ミユウ! 」
叫んだ声は、焦りを隠しきれていなかった。
ラフィセルは、その反応を見て、愉快そうに唇を歪める。
「ほら」
彼は、ゆっくりと、噛み砕くように言葉を重ねる。
「怖いよね。痛いよね。……もう、十分じゃない? 」
それは慰めの形をした命令だった。
「頑張らなくていい」「考えなくていい」と、逃げ道を示す声。
「一度、 誘惑(テンプ) に触れた者はね」
空気が、じわりと歪む。
「一生、そこから逃げられないんだ」
「や……っ!」
ミユウが顔を背けた瞬間、足が床を離れた。
見えない何かが彼女の身体を絡め取り、宙へと引き上げる。
「う……! 」
喉が締め付けられ、息が浅くなる。
視界が揺れ、小さな身体が無力に引き寄せられていく。
「ほら、ミユウちゃん」
ラフィセルは、優しく諭すような声で続けた。
「戦わなくていい。選ばなくていい」
その言葉は、恐怖を理解した上で突きつけられる。
だからこそ、残酷だった。
「名ばかりの救世主なんて放っておいてさ。僕らと一緒に、スローライフしよう」
――スローライフ
その言葉が、俺の中で嫌な音を立てて軋んだ。
「偽りの天使共なんて、全部殺しちゃえばいい」
怒りが、血流を逆流するように走る。
拳を握り締め、爪が食い込む。
まずい。
このままじゃ――また、力に呑まれる。
その瞬間。
「……黙りなさい」
澄んだ声が、戦場の空気を切り裂いた。
「ミユウ……? 」
そこにいたのは、いつもの彼女じゃなかった。
怯えている。確かに、怖がっている。
それでも――逃げない。
「怖いわよ」
ミユウは、震えを隠さない声で言った。
「すごく怖い」
正直な言葉だった。
だからこそ、続く言葉が強かった。
「でも……分かってる」
ラフィセルを、真っ直ぐに見据える。
「それを選んだら、私は私じゃなくなる」
女王になること。
守られること。
楽になること。
それは、彼女が“何者かであること”を放棄する選択だった。
「スローライフなんて言葉を……あんたが使わないで」
一歩、踏み出す。
足は震えている。それでも、止まらない。
ラフィセルの眉が、わずかに動いた。
「その言葉を使っていいのは――」
息を吸い、吐き、恐怖を押し込める。
「逃げなかった人だけ」
そして、はっきりと告げた。
「龍夜くんだけよ」
その瞬間、ミユウは理解した。
守られてきた自分は、もういない。
恐怖ごと、前に出る。
両肘が、ラフィセルの腹に突き刺さった。
「――ッ!! 」
鈍い衝撃音。
拘束が砕け、空気が弾ける。
「な……? 」
ラフィセルが、信じられないという顔で崩れ落ちた。
俺は反射的に駆け寄り、ミユウを抱き止める。
小さな身体が、激しく震えている。
「……怖かった」
胸元で、掠れた声が漏れる。
「でも……選ばなかった」
顔を上げ、微かに微笑う。
「だって、あれは“楽な方”だもの」
その言葉に、胸の奥が強く締め付けられた。
――守られたのは、俺の方だ。
「ふぅん……」
ラフィセルが、ゆっくりと立ち上がる。
声に、初めて感情の色が混じった。
「じゃあ次は、君だ。救世主」
距離が詰まる。
視線が、俺の内側を覗き込む。
「九百年」
囁きが、頭の奥に直接触れる。
「同じ役を、何度も何度も」
視界が揺れた。
「頑張っても、死んで、忘れられて」
膝が、わずかに軋む。
「もう、やめたくならない?」
――なる。
一瞬、確かにそう思った。
「君がやめても、世界は続く」
甘い声。
「次が来るだけだ」
俺は、深く息を吸った。
「……確かに、楽だろうな」
ラフィセルの目が、細まる。
「でも」
一歩、踏み出す。
「終わらせる意志を持った救世主は、今までいなかった」
視線を逸らさない。
「逃げ続けたお前には……分からない」
――パァン!
意志に応えるように、光の障壁が弾ける。
ラフィセルが、後方へ吹き飛ばされた。
「……いい加減にしろよ」
静かな声。
だが、そこに迷いはなかった。
「つまんないなぁ」
起き上がりながら、ラフィセルは子供のように頬を膨らませる。
「おっと……ガレンが起きたみたいだ」
楽しげに告げる。
「さあ、救世主」
その目が、妖しく光る。
「君がどこまで“やめずに”いられるか――見せてもらうよ」