作品タイトル不明
第4話 眠りを乱す存在
天蓋付きの寝台は、俺の体には柔らかすぎた。沈み込むたび、ここが自分の部屋ではないことを思い知らされる。枕元には淡い香のする花が飾られ、窓の外では夜の王宮を巡る兵士の足音が、規則正しく石畳を叩いていた。
眠れるはずがなかった。
壁にかかった金糸のタペストリーも、天井から下がる水晶のシャンデリアも、昼間はただ眩しいだけだったのに、夜になると余計に遠いものに見える。立派すぎる部屋。広すぎる寝台。誰かに与えられた、俺のためではない居場所。
俺はシーツを握りしめたまま、目を閉じることもできずにいた。
今日一日、頭の中で同じ言葉が何度も回っている。
伝説の救世主。
聖剣に選ばれし者。
天界アストリアが招いた、人間界の少年。
誰も、俺の名前から始めてはくれなかった。
瀬野龍夜。高校一年生。ただの男子高校生。剣道部でもなければ、武道の達人でもない。異世界に召喚された瞬間、何かすごい力に目覚めるわけでもなく、測定の水晶は俺の力を映さず、周りの期待だけが勝手に膨らんでいった。
朝から何度も会議室に呼ばれた。
白髪の老臣が、魔王軍の進軍状況を説明した。若い聖女が、聖剣覚醒の儀式について語った。騎士団長は、俺の護衛計画を当然のように読み上げた。
誰も悪気はない。
彼らは真剣だった。この世界を守るために、必死だった。
だからこそ、俺は何も言えなかった。
俺の返事を待つ視線の中で、できたのはうなずくことだけ。逃げ出したいと叫ぶ喉の奥を噛み潰して、わかったような顔をすることだけだった。
救世主なんて、冗談じゃない。
俺は、のんびり暮らしたかっただけだ。
小さな村に家を借りて、朝は畑を耕して、昼は川で釣りをして、夕方には森で薬草を摘む。たまにギルドへ行って、危なくない依頼を受けて、夜は安いスープを飲みながら、隣の席の冒険者の武勇伝に適当に相槌を打つ。
そんな、目立たない暮らしでよかった。
世界を救うために呼ばれたわけじゃない。
誰かの期待を背負うために、ここへ来たわけじゃない。
そう思うたび、胸の奥が冷たくなった。
扉が、小さく鳴った。
俺は反射的に顔を上げる。
「龍夜くん、起きてる?」
聞き慣れ始めた声だった。
ミユウ・ネフェルト。
この世界で、俺が最初に出会った少女。銀色の髪と青い瞳を持つ、王宮付きの案内役。見た目は俺と同じくらいに見えるのに、ふとした言葉の端に、俺よりずっと長い時間を知っているような響きが混じる。
「……起きてる」
返事をすると、扉が少しだけ開いた。
ミユウは顔だけを覗かせて、部屋の中を確かめるように見回した。
「入ってもいい?」
「今さら聞くのか」
「この前、ノックしなさいって言われたから」
「覚えてたんだな」
「ミユウ、ちゃんと覚えるよ」
そう言って、彼女は遠慮がちに部屋へ入ってきた。
昼間の明るさの中で見るミユウは、無邪気で、少し不思議で、やけに人懐っこい。けれど夜の灯りに照らされると、銀髪の輪郭が淡く光を拾って、同じ人物なのに別の存在のように見えた。
ミユウはベッドの近くまで来ると、すぐには座らず、俺の顔を覗き込んだ。
「眠れない?」
「眠れると思うか」
「思わない」
「即答かよ」
「だって、龍夜くん、昼間からずっと同じ顔してた」
「どんな顔だ」
「逃げたいのに、逃げられない人の顔」
返す言葉が見つからなかった。
ミユウは責めるようには言わなかった。ただ、見えているものをそのまま口にしただけみたいだった。
「明日も、ルシウスとの修行があるよ」
「ああ……」
その名前を聞いただけで、腕が重くなる。
ルシウス。
王宮騎士団に所属する青年剣士。年は俺より少し上くらいに見える。落ち着いた物腰で、礼儀正しく、剣を持つと空気が変わる。
最初に会ったとき、俺は正直、少し安心した。
騎士団長みたいな威圧感はない。老臣みたいに難しい話もしない。聖女みたいに神聖な言葉を並べるわけでもない。
けれど剣を渡された瞬間、その安心は消えた。
ルシウスは優しい。
優しいまま、逃げ道を塞ぐ。
「救世主だから強くなれ、とは言いません」
訓練場で、彼はそう言った。
「けれど、あなたが何も知らないまま戦場へ出れば、あなた自身が傷つきます。あなたを守ろうとする者も、傷つきます」
それは脅しではなかった。
ただの事実だった。
だから余計に、重かった。
「俺、向いてないと思うんだけど」
口から漏れた声は、自分でも情けないくらい小さかった。
「剣なんて振ったことないし、魔法も使えないし、測定不能とか言われても意味わかんないし。選ばれたって言われても、俺自身は何も変わってない」
ミユウは少しだけ目を伏せた。
「変わってないなら、これから変わればいいよ」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないよ」
すぐに返ってきた声は、思ったより静かだった。
俺が顔を上げると、ミユウはいつもの笑顔ではなく、真っすぐこちらを見ていた。
「簡単じゃないから、ルシウスがいるんだよ。龍夜くんが一人で全部できるなら、誰もそばにいらないでしょ」
「……それは」
「ミユウも、そばにいる」
窓の外で、夜風が枝を揺らした。
薄いカーテンが膨らみ、銀色の髪が少しだけ揺れる。
「龍夜くんが救世主だからじゃないよ」
ミユウは、そっと言った。
「龍夜くんが、龍夜くんだから」
胸の奥に、何かが触れた。
期待でも、命令でもない。役割を押しつける言葉でもない。
ただ俺の名前を呼ぶ声だった。
「……明日、起きられなかったら?」
「ミユウが起こしに来る」
「やっぱり眠りを乱す存在じゃねえか」
「ふふ。そうかも」
ミユウはようやく笑った。
「でも、悪い夢から起こす係なら、いいでしょ?」
その言い方がずるくて、俺は何も言い返せなかった。
結局その夜、俺は深く眠れなかった。
けれど朝が来るまで、逃げ出すこともできなかった。
そして翌日、王宮の訓練場で、俺はまた木剣を握っていた。
訓練場は、王宮の東側にあった。
白い石柱に囲まれた広い中庭で、足元には細かな砂が敷かれている。朝の光が斜めに差し込み、磨かれた石壁の上を薄く滑っていく。遠くでは騎士たちが整列し、鎧の継ぎ目が動くたびに金属音が響いていた。
その中央に、ルシウスが立っていた。
淡い金髪を後ろでひとつに束ね、訓練用の革鎧を身につけている。腰には本物の剣。手には、俺と同じ木剣。
彼は俺を見ると、静かに頭を下げた。
「おはようございます、龍夜様」
「様はやめてくれって言っただろ」
「では、龍夜殿」
「それもなんか固い」
「龍夜」
「急に近いな」
ルシウスはわずかに目を細めた。
「では、訓練中はそう呼ばせていただきます」
冗談なのか本気なのか分からない顔で言われると、こちらの調子が狂う。
訓練場の端には、ミユウもいた。柱の陰からこちらを見て、小さく手を振っている。見守るだけならまだいいが、あの顔は完全に楽しんでいる。
「まずは昨日の復習からです」
ルシウスが木剣を構えた瞬間、空気が変わった。
ただ立っているだけなのに、隙がない。
俺は慌てて木剣を握り直した。
「剣は腕だけで振るものではありません。足の向き、腰の入り方、視線、呼吸。そのすべてがつながって、ようやく一振りになります」
「そんな一気に言われても」
「一気にできる必要はありません」
ルシウスは俺の正面に立ち、木剣の先で足元を示した。
「左足を半歩後ろへ。肩の力を抜いて。握りすぎない。剣にしがみつくと、剣に振り回されます」
言われた通りに構え直す。
昨日より少しはましなはずだった。
けれど振り下ろした瞬間、木剣は空気を割るどころか、俺の体ごと前に流れた。
「うわっ」
足が砂に取られ、体勢が崩れる。
ルシウスの木剣が、俺の肩口に軽く触れた。
「一回目です」
「今のは準備運動だ」
「では、二回目から本番ですね」
穏やかな声で返され、俺は奥歯を噛んだ。
何度も振った。
何度も崩れた。
木剣は思ったより重く、腕はすぐに熱を持った。手のひらの皮が擦れ、指の付け根がひりつく。額から落ちた汗が目に入り、視界が滲んだ。
ルシウスの動きは、最小限だった。
俺が大きく振りかぶれば、一歩横へずれる。踏み込めば、剣の腹で軌道を逸らす。必死に打ち込んだつもりの一撃は、彼の木剣に触れた瞬間、力の向きを変えられて砂の上へ落ちた。
「十七回目です」
「数えなくていい!」
「記録は成長の目安になります」
「心が折れる目安にもなるんだよ!」
訓練場の端で、ミユウが口元を押さえていた。
笑っている。
絶対に笑っている。
「ミユウ、今笑っただろ!」
「笑ってないよー」
「声が揺れてる!」
「龍夜くん、頑張ってるなって」
「それ笑うやつの言い方だろ!」
言い返した瞬間、ルシウスの木剣が俺の木剣を弾いた。
乾いた音が響き、手の中から木剣が飛ぶ。
砂の上に落ちた木剣を見下ろして、俺は膝に手をついた。
息が上がる。
肩が痛い。
腕が重い。
情けなさが、喉の奥に溜まっていく。
「……やっぱり無理だ」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
「俺には無理だ。救世主とか、勇者とか、そういうの。剣ひとつまともに振れないやつが、どうやって魔王軍と戦うんだよ」
訓練場の音が遠くなった。
騎士たちの掛け声も、鎧の音も、風の音も、全部薄くなる。
「測定不能って言われたって、俺の中には何もない。特別な力なんて感じない。期待されても困る。守れって言われても、俺は――」
言いかけた言葉が、最後まで出なかった。
ミユウが、訓練場の端から一歩踏み出していた。
彼女は何も言わなかった。
ただ、こちらを見ていた。
昨日の夜と同じ目だった。
救世主を見る目じゃない。
瀬野龍夜を見る目。
胸の奥で、何かが小さく鳴った。
ルシウスが木剣を下ろす。
「龍夜」
初めて、彼の声から訓練の硬さが消えた。
「剣は、強い者だけが持つものではありません」
「……じゃあ、何のために持つんだよ」
「届かせるためです」
ルシウスは腰の剣に手を添えた。
「守りたいものがある。止めたい刃がある。逃がしたい誰かがいる。けれど素手では届かない。だから剣を取る」
彼は俺の足元に落ちた木剣を拾い、こちらへ差し出した。
「あなたはまだ、剣を振れていません」
「はっきり言うな」
「ですが、逃げるためではなく、誰かへ届くために手を伸ばそうとした瞬間、剣は応えます」
「剣が応える?」
ルシウスは頷いた。
「聖剣アストラルブレイドは、力に反応するのではありません。意志に反応します」
アストラルブレイド。
その名を聞いた瞬間、昨日の会議室で見た古い紋章が脳裏に浮かんだ。
星のような光を宿す剣。
天界アストリアに伝わる、救世主の証。
儀式で呼び出すものだと思っていた。
俺みたいな素人が、訓練場でどうこうできるものじゃないと思っていた。
「昨日、聖女様は儀式が必要だと言ってたぞ」
「儀式は道を整えるものです。けれど扉を開けるのは、本人の意志です」
「そんなこと、俺に言われても」
「今から試します」
「今から?」
思わず声が裏返った。
ルシウスは真顔だった。
「木剣を置いてください」
言われるまま、俺は木剣を砂の上に置いた。
手のひらが空になる。
その瞬間、妙に心細くなった。
「右手を前へ」
ルシウスの声に従い、俺は右手を出した。
何もない空間。
朝の光。
砂埃。
遠くで見守る騎士たちの気配。
柱のそばに立つミユウの青い瞳。
「目を閉じてください」
「閉じたら余計に何も分からないんだけど」
「だからです」
俺は息を吐き、目を閉じた。
暗闇の中で、心臓の音だけがやけに大きく聞こえる。
「考える必要はありません。救世主であろうとしなくていい。勇者であろうとしなくていい」
ルシウスの声が、近くで響く。
「あなたが今、何に手を伸ばしたいのか。それだけを見てください」
何に。
頭の中に、会議室の重苦しい空気が浮かんだ。
老臣の声。
聖女の祈り。
騎士団長の計画。
伝説。責任。使命。
違う。
それじゃない。
俺は歯を食いしばった。
俺が手を伸ばしたいもの。
昨夜、扉の隙間から覗いた銀色の髪。
眠れない俺に、起きてるかと聞いた声。
逃げたい顔をしていたと言って、それでもそばにいると言った少女。
訓練場の端で、俺を笑って、それでも見放さずに見ているミユウ。
守れるかどうかなんて分からない。
強くなれるかどうかも分からない。
けれど、あの目が曇るのは嫌だった。
あの声が、助けを呼んで届かないなんて、そんなのは嫌だった。
右手の先が、熱を持った。
最初は、気のせいかと思った。
けれど次の瞬間、指先に風が集まった。握っていないはずの手の中に、何かの輪郭が生まれる。冷たいようで熱い、不思議な感触。星の光を直接掴んだみたいに、手のひらの奥が震えた。
「そのまま」
ルシウスの声が、わずかに強くなる。
「名前を呼んでください」
名前。
俺は目を閉じたまま、右手を握った。
逃げたい。
怖い。
無理だと思う。
それでも。
この手が届くなら。
「――アストラルブレイド」
声に出した瞬間、光が弾けた。
まぶたの裏まで白く染まる。
風が足元の砂を巻き上げ、訓練場にいた騎士たちがどよめいた。手の中に重みが落ちる。木剣とは違う、けれど不思議と馴染む重さ。恐る恐る目を開けると、俺の右手には一振りの剣が握られていた。
刃は白銀。
中心に、淡い青の光が脈打っている。
柄には星の紋様が刻まれ、光の粒が刃先からこぼれるように舞っていた。
アストラルブレイド。
俺が呼んだ剣。
俺の手の中に現れた、初めての力。
「……出た」
声が震えた。
ルシウスが静かに片膝をついた。
周囲の騎士たちも、息を呑むように姿勢を正す。
けれど俺は、彼らを見る余裕がなかった。
訓練場の端で、ミユウが両手を胸の前で握っていた。
青い瞳が大きく開かれている。
彼女は何かを言おうとして、少しだけ唇を震わせ、それから笑った。
その笑顔を見た瞬間、剣の光がさらに強くなった。
「龍夜くん……すごい」
たったそれだけの言葉で、胸の奥が熱くなる。
救世主と呼ばれたときは、苦しかった。
伝説だと言われたときは、逃げたかった。
けれど今、ミユウにすごいと言われたことだけは、素直に受け取ってもいい気がした。
「龍夜」
ルシウスが立ち上がる。
その表情は、さっきまでよりも少しだけ柔らかかった。
「今の感覚を忘れないでください。剣は、あなたの中にあるものを形にします」
「俺の中にあるもの……」
「恐れも、迷いも、守りたいという意志も。すべてです」
手の中の剣を見る。
光はまだ揺れていた。
完璧な勇者の剣には見えない。刃先はわずかに震え、光も不安定で、今にも消えそうだった。
でも、確かにここにある。
俺が逃げずに呼んだものが、ここにある。
「もう一度、構えてください」
ルシウスが木剣を構えた。
「え、今の感動的な流れで終わりじゃないのか」
「召喚できたなら、次は扱う訓練です」
「鬼か」
「剣は飾りではありません」
正論だった。
反論できない正論ほど、心に刺さるものはない。
俺はアストラルブレイドを両手で構えた。
木剣よりも重いはずなのに、不思議と腕は下がらなかった。刃から伝わる光が、手首の痛みを薄く包んでいる。けれど構えが甘いのは自分でも分かる。ルシウスが一歩踏み込んだ瞬間、背筋が勝手に伸びた。
「来ます」
短い声。
次の瞬間、木剣が俺の肩口を狙って走った。
見えた。
昨日なら、ただ怖くて目をつぶっていた。
さっきまでなら、反射で腕を振り回していた。
けれど今は違った。
剣の軌道が、光の線みたいに見える。
俺は足を半歩引き、アストラルブレイドを斜めに上げた。
木剣と聖剣が触れる。
乾いた音ではなく、澄んだ鐘のような音が訓練場に響いた。
受け止めた。
たった一撃。
それだけなのに、腕の奥まで衝撃が走った。
「いい受けです」
ルシウスの声が聞こえる。
「ただし、足が止まっています」
「褒めた直後に落とすな!」
「戦場では、褒め言葉だけでは生き残れません」
「分かってるよ!」
叫びながら、俺は踏み込んだ。
剣を振る。
ルシウスは受ける。
弾かれる。
また構える。
何度も繰り返すうちに、息が焼けるように熱くなった。手のひらの痛みは消えない。肩も腕も重い。それでも、さっきまでの情けなさとは違うものが体を動かしていた。
できないことは、山ほどある。
剣の振り方も、足運びも、呼吸も、何もかも足りない。
それでも一度だけ、届いた。
一度だけ、ルシウスの木剣を受け止めた。
その事実が、俺の足を砂の上に留めていた。
どれくらい続けただろう。
最後にルシウスの一撃を受け損ね、俺は砂の上に尻もちをついた。
アストラルブレイドの光が揺らぎ、指の間からほどけるように消えていく。
手の中が空になった。
けれど、さっきの心細さはなかった。
「本日はここまでにしましょう」
ルシウスが木剣を下ろした。
「召喚成功。そして初防御。十分すぎる成果です」
「……十分、なのか」
「はい。初日としては」
「初日としては、って付けたな」
「事実です」
俺は砂の上に座り込んだまま、空を見上げた。
青い。
腹が立つくらい、綺麗な空だった。
そこへ、ミユウが駆け寄ってくる。
「龍夜くん!」
「笑いに来たなら帰れ」
「違うよ。すごかったって言いに来たの」
彼女は俺の前にしゃがみ込み、両手で水の入った小瓶を差し出した。
「はい」
「……ありがと」
受け取った小瓶は冷たかった。
喉に流し込むと、体の奥まで水が落ちていく。痛む手のひらに小瓶の冷たさが移り、ようやく自分がどれだけ力を入れていたのか分かった。
「アストラルブレイド、きれいだったね」
「俺はそれどころじゃなかった」
「でも、ちゃんと出た」
「ああ」
「龍夜くんが呼んだから、出たんだよ」
ミユウは嬉しそうに言った。
その顔を見ていると、さっき剣を呼んだ瞬間の感覚が戻ってくる。
守りたいなんて、まだ大げさなことは言えない。
俺は弱い。
情けない。
逃げたい気持ちも消えていない。
でも、この世界で最初に俺の名前を呼んだ彼女が、俺を見て笑っている。
その笑顔を、なくしたくないと思った。
「なあ、ミユウ」
「なぁに?」
「俺、まだ勇者って感じじゃないよな」
「うん」
「即答するなよ」
「だって、まだ剣に振り回されてたもん」
「見てたのか」
「見てたよ。全部」
恥ずかしくて顔を背けると、ミユウは小さく笑った。
「でもね、勇者って、最初から勇者の人のことじゃないと思う」
「じゃあ、何だよ」
「怖くても、誰かのために一歩前に出る人」
風が吹いた。
訓練場の砂が薄く舞い、ミユウの銀髪が光を受けて揺れる。
「龍夜くん、今日は一歩出たよ」
その言葉は、どんな称号よりも重かった。
俺は小瓶を握りしめたまま、まだ痛む手のひらを見下ろす。
さっきまでアストラルブレイドがあった場所。
何もないはずなのに、そこにはまだ、かすかな熱が残っていた。
「明日も修行だよ」
ミユウが言う。
「分かってる」
「朝、起こしに行くね」
「やっぱり眠りを乱す存在だな」
「悪い夢から起こす係だもん」
昨夜と同じ言葉に、今度は少しだけ笑えた。
逃げ道を探していたはずの異世界で、俺は剣を呼んだ。
救世主になりたいわけじゃない。
伝説になりたいわけでもない。
ただ、あの声が俺を呼んだとき、届かない自分ではいたくなかった。
それだけで、今日の俺には十分だった。
ステータスは、まだ測定不能。
剣の腕は、どうしようもなく未熟。
けれど俺の右手には、確かに光の感触が残っている。
瀬野龍夜。
ただの高校生だった俺は、この日、初めて勇者になるための一歩を踏み出した。