作品タイトル不明
第38話 夢の中の、ありえた日常
――柔らかい光が、瞼の裏に差し込んできた。
「……ん」
目を開けると、見慣れた天井があった。
白くて、低くて、どこか古い。
……あれ?
「やっと起きた」
すぐ横から、呆れたような声。
顔を向けると、そこにいたのは――ミユウだった。
「……ミユウ? 」
思わず声に出すと、彼女は眉をひそめる。
「何寝ぼけてんの。昨日あんなに騒いで、今日は遅刻寸前なんだから」
「遅刻……? 」
頭が、うまく回らない。
俺は布団から身を起こした。
制服姿の自分が、そこにいる。
グレーのブレザー。
少し緩めのネクタイ。
「ほら、早くしないと」
ミユウが俺の腕を引っ張る。
「同級生なんだから、ちゃんと一緒に行く約束守りなさいよ」
――同級生?
胸の奥に、小さな違和感が生まれる。
でも、それはすぐに、心地よい空気に溶けて消えた。
教室は、騒がしかった。
「おはよー! 」
「今日の小テスト、詰んだわ……」
当たり前の日常。
当たり前の朝。
俺は自分の席に座り、ミユウは隣の席に腰を下ろす。
「ねえ、昨日の続きだけどさ」
彼女が、こっそり顔を近づけてくる。
「放課後、どこ行く? 」
「え……? 」
「え、じゃないでしょ。デート」
さらっと言われて、心臓が跳ねた。
「い、いや、デートって……」
「なに、嫌なの? 」
じっと見つめられる。
「……嫌なわけ、ないだろ」
そう答えると、ミユウは満足そうに微笑んだ。
胸が、じんわりと温かくなる。
――ああ。
こういうの、悪くない。
「おーい、リア充どもー」
背後から、やけに軽い声が飛んできた。
「朝からイチャイチャしてんじゃねーぞー」
振り向くと、そこにいたのは――見知らぬ男。
少し癖のある髪。
笑うと人懐っこそうな顔。
「……誰だ? 」
「ひどっ! 親友に向かってそれ! 」
男は胸を押さえて、大げさに嘆いた。
「拓哉だよ、拓哉! お前の理解者! 未来の大作家を支える名編集者! 」
「……は?」
「いや、逆か。俺が作家で、お前が編集者だったか?」
意味不明なことを言いながら、拓哉は俺の肩に腕を回してくる。
「なあ聞いてくれよ。俺さ、小説家になりたいんだよ」
「またそれ? 」
ミユウが呆れたように言う。
「毎週言ってない? 」
「夢は語り続けるものなんだよ! 」
拓哉は胸を張った。
「人は夢を語らなくなった瞬間に、老いるんだ! 」
「はいはい」
軽口を叩き合う、その空気が――心地いい。
放課後。
夕焼けに染まる街を、ミユウと二人で歩く。
「ねえ」
彼女が、俺の袖をつまんだ。
「将来、何になりたいの? 」
「……さあな」
少し考えてから答える。
「でも、誰かが苦しまない世界にしたい」
「なにそれ」
ミユウは笑った。
「真面目すぎ」
「悪いかよ」
「悪くない」
そう言って、彼女は俺の腕に、そっと体重を預けてきた。
鼓動が、速くなる。
この時間が、永遠に続けばいい。
そう思った瞬間。
――胸の奥が、ちくりと痛んだ。
……おかしい。
俺は、何かを忘れている。
とても大事な、何かを。
夜。
屋上に、拓哉と二人で座っていた。
「なあ」
拓哉が、缶ジュースを投げて寄こす。
「お前さ、最近変じゃね? 」
「変? 」
「うん。なんか……ここにいない感じ」
拓哉は空を見上げた。
「まあいいけどさ。夢なんて、どうせ簡単に叶わねーし」
「……それでも? 」
「それでも、書く」
即答だった。
「俺は書く。売れなくても、評価されなくても」
拓哉は笑った。
「だって、そうしないと――自分が消えちまうから」
その言葉が、胸に刺さる。
――消える?
次の瞬間。
風景が、歪んだ。
夜空に、亀裂が走る。
拓哉の輪郭が、ノイズのように揺らぐ。
「……おい? 」
声をかけると、拓哉は一瞬だけ、真剣な目をした。
「なあ、龍夜」
彼は、確かに俺の名前を呼んだ。
「ここ、居心地いいだろ? 」
頷きかけて――止まる。
――龍夜?
俺は、学生だったはずだ。
名前も、違うはずなのに。
「でもさ」
拓哉は、少しだけ寂しそうに笑った。
「ここは“続き”がない」
世界が、ひび割れていく。
教室が、街が、ミユウの笑顔が――少しずつ、遠ざかる。
「思い出せよ」
拓哉の声が、響いた。
「お前は、こんなとこで終わる奴じゃないだろ」
「……っ! 」
激しい痛みが、胸を貫く。
蔦が、身体を締め付ける感覚。
奪われていく力。
戦場の、冷たい空気。
リリアの声。
ガレンの笑い。
――俺は、倒れていた。
――負けて、縛られて、意識を失っていた。
「ミユウ……! 」
叫ぶと、彼女は振り返り、微笑んだ。
けれど、その姿は、もう透けていた。
「行って」
優しい声。
「あなたは、こっちの世界の人じゃない」
手を伸ばす。
だが、触れられない。
世界が、完全に崩壊する。
最後に聞こえたのは――
「――書き続けろよ、救世主」
拓哉の声だった。
俺は、闇の中へ落ちていった。