作品タイトル不明
第35話 覚悟を持てなかった救世主
ーー900年前、天界アストリア。
魔王と救世主。
その因縁が始まった場所であり、同時に――俺がすべてを間違えた場所だ。
「なぁ、スローライフって、知ってるか? 」
戦いが嫌いで、責任から逃げることばかり考えていた青年。
それが、900年前の俺だった。
血に濡れ、今にも息が途切れそうな少女を前にして、俺は場違いなほど軽い調子でそう口にした。
「スロー……ライフ? 」
少女は掠れた声で、意味も分からないまま鸚鵡返しにする。
それでも、その瞳は俺を真っ直ぐに見つめていた。
俺は両手を大きく広げ、まるで世界一素晴らしい未来を語る英雄にでもなったつもりで、笑った。
「そうさ。戦いだの、魔王だの、救世主だの――そんな面倒なものは全部いらない」
「ただ畑を耕して、昼はハンモックで昼寝して、夜は星を数えて眠るんだ」
「なぁ、最高だろ? 」
本気だった。
少なくとも、その時の俺は、本気でそう信じていた。
俺は少女を抱き抱え、アストリアの宮殿へと連れ帰った。
小さく、軽い身体。
命の重さを感じながらも、俺の頭にあったのは――
どうやって、この戦いから逃げ切るか、ただそれだけだった。
それからの日々、俺は彼女の怪我を看病しながら、何度も、何度も、スローライフの夢を語った。
畑の話。
風に揺れる麦の話。
星が降る夜の話。
彼女は、ミユウは、そのたびに少しずつ目を輝かせていった。
「それ、いいね」
「争いがない世界……素敵」
その言葉を聞くたび、胸の奥がちくりと痛んだことを、俺は見ないふりをした。
やがて、魔王討伐の旅が始まった。
ミユウは期待していた。
俺が、救世主として覚醒することを。
俺は期待させていた。
いつか、すべてが終わったら、スローライフが待っているのだと。
旅の間中、俺は語り続けた。
戦いの先にある、穏やかな未来を。
そして気づかぬうちに、ミユウの純粋な心に、「救世主が世界を救えば、みんなが幸せになれる」そんな幻想を植え付けてしまっていた。
――覚醒の時は、来なかった。
魔王を前にしても、俺は最後まで、救世主になる覚悟を持てなかった。
剣を振るった。
だが、躊躇が混じった一撃は、魔王の 核(コア) を砕くには、あまりにも弱すぎた。
その失敗が、900年にも及ぶ、天界と魔界の衝突の始まりだった。
「あんたは、いつもそう」
背後から囁く声。
甘く、ねっとりとした、ミユウの声。
振り返ると、そこにいたのは、
かつての少女ではなかった。
堕天使となったミユウが、妖艶な笑みを浮かべていた。
「魔王を倒したら、みんながスローライフできるようにするって」
「私は、毎回、疑わずに信じた」
赤く光る瞳が、俺を射抜く。
「でも、そのたびに裏切られた。
「そして、最後は必ずこう言ったわ」
胸が、締めつけられる。
「俺は救世主になりたくなかった」
「誰とも戦いたくなかったって――泣きながら、ね! 」
否定したかった。
だが、それは、確かに俺が言った言葉だった。
ミユウは操られたわけじゃない。
自ら、絶望を選び、魔王の側へ堕ちた。
「……ごめん」
それしか、言えなかった。
「事実なら、俺は否定しない」
「全部……俺のせいだ」
一瞬、ミユウの動きが止まる。
だが、次の瞬間、その顔は憎しみで歪んだ。
「うるさい! うるさい! うるさい! 」
「あんたのために使ってきた癒しの力が、もう残っていないこと、分かってるでしょう! 」
黒い衝撃波が、何度も俺を打ち据える。
痛い。
苦しい。
だが、抵抗する資格など、俺にはなかった。
――これが、前世での俺の失敗。
どうすれば、ミユウを取り戻せる?
かつて無邪気に笑っていた、あの天使を。
いや――
最初から、それすら幻想だったのかもしれない。
黒い衝撃波に飲み込まれ、
俺の意識は、静かに闇へと沈んでいった。
黒い衝撃波に飲み込まれながら、俺は、はっきりと理解していた。
戦わなかったことが罪なのではない。
覚悟を持たないまま、希望を語ったことが――
俺の、最大の過ちだったのだと。
同じ過ちは、二度と選ばない。
たとえ、その先に待つのが、
俺の望まない結末だとしても。