軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第34話 思い出せない名前

剣を振るたび、胸の奥がざわついた。

理由は分からない。ただ、剣先に込めた力とは別の何かが、内側で暴れている。

目の前にいるのは、敵だ。

黒い羽を持つ堕天使。

魔王の側に立ち、こちらに刃を向けてくる存在。

理屈では、何度もそう言い聞かせている。

敵だ。

斬らなければならない。

ためらえば、命を落とす。

それでも、どうしても視線が逸らせなかった。

彼女の構え方。

重心の置き方。

一歩踏み出すときの、ほんのわずかな癖。

攻撃と攻撃の合間、誰にも気づかれない一瞬だけ呼吸を整える仕草。

――知っている。

そんなはずはない。

前世の記憶なんて、断片的にしか戻っていない。

ましてや、堕天使として現れた彼女と、剣を交える覚えなどあるはずがない。

なのに、身体が勝手に反応していた。

次に来る斬撃が、分かる。

角度も、速度も。

だから避けられる。

だから、剣がぶつかる。

金属音が響き、火花が散った。

衝撃が腕に走り、指先が痺れる。

それでも、意識は彼女から離れなかった。

――違う。

この感覚は、戦場で培ったものじゃない。

「……ミユウ! 」

名を呼んだ瞬間、彼女の動きが、ほんのわずかに鈍った。

刃が、ほんの数センチ、甘くなる。

それだけで、胸が締めつけられた。

やっぱりだ。

やっぱり、何かが――違う。

堕天使ミユウは、すぐに距離を取り、冷えた瞳でこちらを見据えた。

感情のない視線。

少なくとも、そう見える。

だが、その“感情のなさ”が、逆に異様だった。

敵としては、あまりにも整いすぎている。

「戦いに集中なさい」

声は、以前と同じだった。

柔らかく、静かで、どこか人を突き放す響き。

その声を聞いた瞬間、頭の奥で、何かが弾けた。

――平気だから。

唐突に、記憶が蘇る。

怪我をしたとき。

無理をして倒れたとき。

俺が手を伸ばすと、いつも彼女はそう言って笑った。

心配するな、と。

大丈夫だ、と。

自分のことより、俺を安心させるための言葉。

「……待て」

剣を下ろしかけた、その一瞬の隙を、彼女は見逃さなかった。

鋭い一撃が、肩をかすめる。

熱い痛みが走り、遅れて血が滲んだ。

魔力で増幅された一撃は、いつもの怪我よりもはるかに重い。

視界が一瞬揺らぎ、息が詰まる。

このまま倒れたら、どんなに楽だろう。

そんな弱音が、頭をよぎる。

だが、それを振り払う。

弱さを見せたら、ミユウを救えない。

――救う?

なぜ、そう思ったのか、自分でも分からない。

「洗脳されてるなら、俺が――」

「違うわ」

即答だった。

迷いのない、冷たい否定。

洗脳。

操られている。

奪われた。

そうであってほしかった理由が、音を立てて崩れていく。

「じゃあ、なんでだ! 」

声を張り上げた瞬間、彼女の眉が、ほんのわずかに動いた。

怒りでも、悲しみでもない。

――呆れ。

その感情が、胸に突き刺さる。

「……あんたは、本当に」

言いかけて、ミユウは口を閉ざした。

言葉を飲み込む、その仕草が、何より怖かった。

「本当に、何だよ! 」

答えろ。

頼むから、言葉にしてくれ。

俺は必死だった。剣を振るいながら、記憶を掘り返す。

九百年。

次こそは。

遠くを見る横顔。

断片はある。

確かに、何かを誓った。

誰かと、未来を語った。

だが、肝心な何かだけが、どうしても繋がらない。

「戻ってこい! 」

叫びは、もはや命令ではなかった。

祈りだった。

「まだ、間に合うだろ! 」

その言葉を聞いた瞬間、ミユウの動きが止まった。

戦場の音が、遠のく。

彼女は静かにこちらを見る。

「……間に合う? 」

その問いかけは、刃よりも鋭かった。

「何が? 」

言われて、気づく。

俺は、何に間に合わせたいのか、言葉にできていない。

未来か。

過去か。

それとも――贖罪か。

「……そう」

ミユウは、小さく息を吐いた。

「やっぱり、何も思い出してないのね」

胸が、嫌な音を立てて軋む。

「思い出す? 何を――」

「いいえ」

彼女は、首を振った。

「もう、いいの」

黒い羽が大きく広がり、圧倒的な魔力が解放される。

敵意は、確かにある。

だが、そこに憎しみはなかった。

あるのは、決定。

揺るがない選択。

「私は、ここにいる」

それだけを告げるように、彼女は剣を構え直す。

「……ミユウ」

名を呼んでも、返事はない。

俺は歯を食いしばり、剣を握り直した。

分からない。

分からないまま、戦うしかない。

何を失ったのかも。

なぜ、こうなったのかも。

ただ一つ分かるのは――

俺は、決定的な何かを、

気づかないまま、通り過ぎてきたという

ことだけだった。

思い出せ。

思い出せ。

早く。

前世で、俺は何をした。

頭の中で、霧が、ほんの少しだけ晴れる。

――九百年前、天界アストリア。

そこに、一人の男が立っていた。

状況も理解できず、ただ周囲を見渡し、呆然としている男。

足元には、血まみれの少女が倒れている。

男は、少女を見下ろし、場違いなほど軽い声で言った。

「なぁ、スローライフって知ってるか?」