軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第33話 闇の誘惑

魔王は、まるで遠い過去を思い返す老人のような目で、俺を見下ろした。

「お前は、いつもそうだな」

低く、落ち着いた声だった。怒気も嘲りもない。ただ、事実を並べているだけの声音。

「……何だと」

俺は剣を握る手に力を込めた。だが魔王は一歩も動かない。

「口では守る、守ると言いながら、その者の小さな変化には決して気づかない。きっと今回もそうだ。お前は――甘い考えを、最後まで捨てきれない」

胸の奥に、何か冷たいものが落ちた。

反論しようとした。守ってきた。戦ってきた。犠牲も払った。

だが、そのどれもが、今この瞬間にはひどく薄っぺらく思えた。

魔王が、ゆっくりと立ち上がる。

俺は反射的に身構えた。だが――

違う。

奴の視線は、俺をすり抜けていた。

嫌な予感が、背筋を這い上がる。

――ミユウ。

魔王は、まるで最初からそこにあると知っていたかのように、迷いなく滑るように距離を詰めた。俺の唯一の弱点へ。躊躇など一切なかった。

ミユウの耳元に顔を寄せ、甘く、優しい声で囁く。

『……疲れただろう? 』

その一言だけで、空気が変わった。

『九百年も裏切られ続けて。次こそは、次こそはと期待しては、命を削って』

ミユウの肩が、ほんのわずかに揺れた。

『とうに、諦めたのだろう?』

「……違う! 私は……! 」

声は上がった。だが、続かなかった。

否定の言葉が、喉の奥で絡まり、形にならない。

俺は初めて、気づいた。

彼女が、いつも言い淀むときに、必ず視線を逸らしていたことを。

『私の物になれ、ミユウ』

魔王の声は、優しく、逃げ場を用意するように甘い。

『甘い夢だけを見せてやる。もう期待など、しなくていい』

「……甘い……夢……」

ミユウは、小さく繰り返した。

「期待……しなくて、いい……」

その言葉が、彼女自身を縛っていた何かを、音もなく断ち切った。

ミユウの瞳から、光が消える。

生きる意思のような輝きが、ゆっくりと、確実に。

ミユウは、ゆっくりと息を吐いた。

長い間、胸の奥に溜め込んでいたものを、まとめて吐き出すような呼吸だった。

その瞬間、彼女の足元から、淡い光が零れ落ちる。

砕けたのではない。剥がれ落ちたのだ。

ミユウの身体を包んでいた温もりが、急速に薄れていく。

代わりに、妙な軽さが広がった。

痛みは、ない。

苦しみも、ない。

――ああ。

彼女は、心のどこかで理解していた。

これが「堕ちる」ということなのだと。

守る使命も、信じる理由も、期待する心も。

一枚一枚、薄皮を剥ぐように、静かに奪われていく。

最後まで残っていたのは、ほんの小さな願いだった。

――それでも、いつかは。

だが、その願いすら、魔王の囁きに溶けて消えた。

ミユウの瞳から、光が消える。

代わりに宿ったのは、闇ではない。

何も映さない、深い静寂だった。

小さな羽が、弱々しく畳まれた。白かった羽毛が、根元から黒く染まり始める。

抵抗は、なかった。

「……ミユウ……」

声が、震えた。

俺の前世の失敗のせいなのか。

俺が守ると言いながら、守り切れなかったせいなのか。

裏切られ続け、諦めた――?

そんなはずはないと叫びたかった。だが、叫べなかった。

彼女の静かな変化が、その言葉すら許さなかった。

ミユウは、ほんの一瞬だけ俺を振り返った。

笑わなかった。

怒りもしなかった。

ただ、何も期待していない目で、俺を見た。

そして、滑るように魔王の元へ向かう。

「魔王様」

その呼び方が、胸を刺した。

「あなたの僕ですわ。私、あなたのためなら……喜んで働きます」

堕天使ミユウは、魔王の手を取り、その唇に静かにキスを落とした。

その瞬間、俺の中で、何かが音を立てて砕けた。

初めて出会ったとき。

「龍夜くん!」と無邪気に呼び捨てにして、俺の心を奪った少女。

天然で、うざ可愛いと思っていた。

守ってやらなきゃいけない存在だと、勝手に決めつけていた。

――だが、それも、彼女にとっては諦めだったのか?

時折見せた、遠くを見るような表情。

「平気だから」と言って、俺を突き放したあの日。

なぜ、気づけなかった?

こんなに好きなのに。

あれだけ、そばにいたのに。

「あははははっ! 」

高い笑い声が、空間を切り裂く。

「いい顔」

堕天使ミユウは、俺の服を掴み、力任せに壁へ叩きつけた。

衝撃で息が詰まる。

「これが、私の真の姿よ」

その瞳は、もう俺を映していなかった。

「九百年間、あんたに裏切られ続けて、希望を失った姿。あんたには、わからないでしょうね」

嘲りのようで、どこか自分自身を傷つけるような声だった。

「……ミユウ……」

俺は、その名を呼ぶことしか出来なかった。

手を伸ばしても、届かない。

言葉を重ねても、もう遅い。

後悔だけが、俺の心に渦を巻く。

この瞬間、俺は悟った。

守れなかったのは、彼女の身体じゃない。

――彼女の心だった。

――不思議。

こんなにも静かなのは、いつ以来だろう。

魔王の傍に立ちながら、ミユウは自分の胸に手を当てた。

心臓は、ちゃんと動いている。

けれど、あれほど重くのしかかっていた鼓動の痛みは、もうない。

期待しなくていい。

信じなくていい。

裏切られても、「次こそは」と自分に言い聞かせなくていい。

それだけで、世界は驚くほど軽かった。

九百年。

長かったのか、短かったのか、もう分からない。

守る者が変わるたび、名前が変わるたび、

「今度こそは」と微笑んで、そのたびに一人で膝を抱えた。

泣いてはいけないと思っていた。

天使は、泣かないものだと教えられてきたから。

でも、泣かなかった分だけ、何かが溜まっていたのだろう。

それが、今、すべて消えてしまった。

龍夜の顔が、脳裏をよぎる。

――好きだった。

本当は、今でも。

でも、それだけだ。

彼は、私を見ていた。

ちゃんと、そばにいた。

それでも、私の「疲れ」までは、見ていなかった。

責める気はない。

誰かを責めるために堕ちたわけじゃないから。

私はただ、もう頑張れなくなっただけ。

魔王の手は、冷たかった。

けれど、その冷たさは、優しかった。

期待を与えない。

希望を語らない。

裏切らない代わりに、信じさせもしない。

それが、こんなにも楽だなんて。

――ああ。

これが「悪」でも、「堕落」でも、何でもいい。

私はもう、天使には戻らない。

誰かの未来を信じる役目は、

とうに、終わったのだから。