作品タイトル不明
第32話 前世の記憶
魔王の玉座の間は、静寂に満ちていた。
黒曜石のように磨き上げられた床は、俺の足音を吸い込んでしまう。
壁に刻まれた無数の古代文字は、薄暗い紫の魔力灯に照らされて、まるで生きているかのようにゆっくりと脈打っている。空気は重く、冷たく、肺にまとわりつく。息をするたびに、鉄の匣に閉じ込められたような息苦しさが胸を圧迫した。
魔王は、巨大な玉座に深く腰を沈め、片肘を顎に当てて俺を見下ろしていた。
長い銀髪が肩から滑り落ち、血のように赤い瞳が、底知れぬ深さで俺を映している。
嘲笑とも哀れみともつかない、微妙な表情。
「お前は毎回、同じ顔をする」
低い、響くような声。まるで古い教会の鐘が、遠くでゆっくり鳴っているようだった。
「最初は驚き。次に怒り。そして最後には……諦めだ」
俺は唇を噛んだ。言われるまでもなく、分かっていた。俺の胸の奥で、何かがずっと疼いている。
疼きながらも、決して姿を現さない。まるで誰かが、俺の記憶の扉に何重もの錠をかけて、鍵を海の底に沈めてしまったかのように。
「……だからって、俺がそれを覚えてると思うか? 」
声が掠れた。自分でも驚くほど弱々しい。
魔王は小さく息を吐いた。笑ったのか、溜息をついたのか、判別がつかない。
「覚えておらぬか。ならば教えてやろう。お前が最後に俺と対峙したとき――いや、『最後に』などという言葉すら嘘だな。何度目かの『最後』か」
彼はゆっくりと身を起こした。黒いマントが波打つように広がり、まるで闇そのものが蠢いているようだった。
「お前は剣を握ったまま、俺の胸を貫いた。そして泣いていた。救世主たる者が、魔王を討ちながら、涙を流していたのだ。滑稽だろう? 」
胸の奥が、ずしりと重くなった。覚えていない。映像も、感触も、言葉も、何一つ浮かんでこない。
なのに、なぜか喉が詰まる。目頭が熱くなる。まるで体が、記憶を拒絶しながらも、心だけはそれを覚えていると訴えているようだった。
「そしてその後、お前は言った。『もう……誰も傷つけたくない』と」
魔王が、俺の心を嘲るように低く唸るように鋭い声を出した。
「俺はその言葉を、忘れられん。お前は救世主であることを、呪いのように嫌っていた。毎回、毎回、俺を殺したあとで、同じことを呟いて……そしてまた、次の時代に呼ばれる」
俺は膝が震えるのを感じた。立っていられなくなって、片膝をつく。冷たい床が、ズボン越しに骨まで染みてくる。
頭の奥が、激しく疼いた。
霧。濃い、灰色の霧。そこに、何かがある。
白い光。銀色の髪。細い指。涙で濡れた頬。なのに、触れられない。指先が届かない。
届きそうで、届かない。まるで、ガラスの向こう側にいる誰かを、必死に呼んでいるような感覚。
「……っ、くそ」
俺は額を押さえた。爪が皮膚に食い込むほど強く。
そのとき、背後の扉が小さく軋んだ。
「龍夜くーん! 」
跳ねるような、鈴のような声。
ミユウだった。
小さな体が、ぴょんぴょんと跳ねながら俺に近づいてくる。いつもの、天真爛漫でうざ可愛い笑顔。
銀髪のツインテールが揺れて、薄紫のドレスがひらひらと舞う。まるでこの重苦しい空間に、春の風が迷い込んだみたいだった。
でも、今日は違った。
彼女の大きな瞳が、わずかに揺れている。笑顔の端が、ほんの少しだけ強張っている。
ミユウは俺の前にぴたっと止まると、両手を後ろで組んで、つま先立ちになった。
「魔王さん、また変な話してるでしょ? 龍夜くんの頭、痛くならないようにしてよね! 」
魔王は肩をすくめて、ふっと笑った。
「痛むのは、俺のせいではない。お前の……いや、救世主自身の呪いだ」
ミユウはむっと頬を膨らませて、俺の方を振り返った。
「龍夜くん……」
その声が、急に小さくなった。
俺は顔を上げた。ミユウの瞳が、じっと俺を見つめている。
いつもはキラキラと輝いているのに、今はどこか曇っている。まるで、雨の前の湖みたいに。
「……無理に、思い出さなくていいよ」
彼女はそう言って、ゆっくりと俺の前にしゃがみ込んだ。
小さな手が、俺の握り拳にそっと重なる。冷たいはずの指先が、なぜか熱かった。
「私、前の龍夜くんのこと、ちゃんと覚えてるから。覚えてるよ……全部」
ミユウの声が、かすかに震えた。
「最後の日。白い大聖堂の前で、龍夜くんは私を抱きしめて、泣いてた。『もう誰も傷つけたくない』って、何度も何度も言って……そして、『次はスローライフしようね、ミユウ』って」
彼女は目を伏せた。長い睫毛が、頬に影を落とす。
「私、約束したんだ。絶対に、次は一緒に、のんびり暮らそうって。だから……だから、今の龍夜くんが思い出せなくても、いいんだよ。私が、ちゃんと覚えてるから」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
覚えていないはずなのに、なぜか体が震える。喉が熱い。目が滲む。
断片が、霧の隙間からこぼれ落ちてきた。
白いドレスに包まれた小さな体。金色の髪が、風に揺れて俺の頬をくすぐる。細い腕が、俺の首に回ってくる。涙で濡れた唇が、耳元で囁く。
『次は……一緒に、畑作ったり、お昼寝したり、星を見たりしようね。約束だよ、龍夜』
「……あ」
俺は思わず声を漏らした。
膝が折れた。両手で床をついて、肩が震える。
ミユウが慌てて俺の背中に手を回した。小さな体で、必死に抱きしめてくる。
「龍夜くん……! 大丈夫? 痛い? 頭、痛い? 」
「……違う」
俺は首を振った。声が震えていた。
「痛く……ない。思い出せないのに……なぜか、胸が……」
言葉にならない。感情が溢れて、言葉を飲み込んでいく。
ミユウは俺の頬に両手を当てて、顔を覗き込んだ。涙で濡れた瞳が、俺を映している。
「いいんだよ。思い出せなくても、いいんだよ。今の龍夜くんは、今の龍夜くんでいい。私、前の龍夜くんも大好きだったけど……今の龍夜くんの方が、ずっと、ずっと近くに感じる」
彼女はそう言って、額を俺の胸にくっつけた。
小さな体温が、じんわりと染みてくる。冷え切っていたはずの心が、ゆっくりと温まっていく。
俺は目を閉じた。
確かに、過去の俺がどんな顔で泣いたのか、どんな言葉を吐いたのか、はっきりと見えない。
でも今、目の前にいるこの小さな天使が、俺を必要としてくれていることだけは、確かだった。
霧の向こうに、確かに光がある。
それは、ミユウの笑顔だった。
「……そうだな」
俺はゆっくり息を吐いて、ミユウの頭をそっと撫でた。柔らかい髪が、指の間を滑る。
「思い出せないなら、それでいい。今から作ればいいだろ、スローライフ」
ミユウが顔を上げた。ぱあっと、花が開くように笑った。
「うん! 約束だよ、龍夜くん! 今度こそ、絶対に! 」
その笑顔を見ていると、頭の霧が、ほんの少しだけ薄くなった気がした。
まだ完全には晴れない。まだ、たくさんの影が残っている。でも、その影の隙間から、確かに陽の光が差し込んでいる。
俺はミユウを抱き寄せた。小さな体が、俺の腕の中で小さく震えた。
「……今回は、絶対に逃げない」
俺は静かに、けれどはっきりと呟いた。
「お前の言うスローライフだの平和だの、永遠に訪れん。その甘い考えを捨てん限り。」
その赤い目に、900年分の怒りと憎しが見えた。
こいつが、ミユウを、ルゥを、アストリアをこんな目に!
玉座の間が、怒りと怒りで揺れた。