作品タイトル不明
第26話 受け渡された力
俺は、空を見上げた。
天界アストリアの空は、今もなお黒い渦雲に覆われている。
かつては淡い金色に輝いていたという天空が、今はまるで巨大な傷口のように裂け、そこから絶え間なく暗い瘴気が滴り落ちてくる。
遠くで雷鳴が低く唸り、時折紫電が稲妻のように走るたび、大気が震えた。
この空の下で、俺たちはもう何時間も戦い続けている。
正直、疲れていた。
体力的にも、精神的にも。
ミユウが正天使に覚醒した瞬間、俺は本当に――心の底から――安堵したんだ。
あのちっこい背中から、信じられないほどの白銀の光翼が広がったとき。
まるで星そのものが地上に降りてきたみたいに、辺りが一瞬で昼のように明るくなった。
ラフィセルの黒い霧が、悲鳴のような音を立てて後退していくのが見えた。
俺は思った。
――ああ、これで終わりだ。
俺はただの高校一年生。異世界に召喚されただけの、普通の人間。
救世主なんて大層な肩書きは、最初から似合わないと思ってた。
ミユウがやってくれるなら、それでいい。
俺は後ろで応援して、終わったらゆっくりスローライフすればいいんだって、そう本気で思ってた。
なのに。
「……うぇっ?」
ミユウの小さな声が、戦場の静寂を突き破った。
光翼が、まるで糸が切れた凧のように、ぱさぱさと音を立てて萎んでいく。
輝いていた白銀の羽根が、次々と灰色に変色し、ぼろぼろと剥がれ落ちた。
光の奔流が、まるで吸い込まれるように彼女の小さな体の中に戻っていく。
そして――残ったのは、いつもの、ふわふわのちっこい天使の翼。
準天使の、頼りないくらいに小さな羽根だけ。
ミユウは両手で自分の胸を押さえ、ぽかんとした顔でこっちを見上げた。
「りゅ、龍夜くん……? なんか、変な感じしたのに……すぐ、元に戻っちゃった……」
その声は、いつもの天真爛漫な調子じゃなかった。
震えていて、頼りなくて、すごく――小さかった。
俺の胸の奥が、ずきんと痛んだ。
ルゥが、深い溜息をつく音が聞こえた。
「やはり……不安定だったか」
彼の声は冷静だった。でも、その瞳の奥には、隠しきれない失望と苛立ちが揺れているのがわかった。
「 準天使(じゅんてんし) の器に、 正天使(せいてんし) の力を一時的に宿しただけでは……到底、持たない。ラフィセルの 瘴気(しょうき) に抗するには、あまりにも脆すぎた」
ルゥはそう言って、長い銀髪を指で払った。
その仕草には、どこか自分自身を叱っているような響きがあった。
遠くで、ラフィセルが笑った。
低い、愉悦に満ちた笑い声。
「ふふふ……やはり、そうなると思ったよ。 可愛いミユウちゃん。君は所詮、準天使の器でしかない。 正天使の力なんて、君の小さな体には大きすぎるんだ」
ラフィセルの黒い翼が、ゆらりと揺れる。
その背後で、無数の影が蠢いているのが見えた。
あれは、 瘴気(しょうき) から生まれた魔獣たちだ。
まだ、終わっていない。
むしろ、これからが本番だってことを、俺の体は嫌というほどわかっていた。
ミユウが、俺の袖をぎゅっと掴んだ。
小さな指が、震えながら力を込める。
「龍夜くん……ミユウ、ダメだった……? 」
上目遣いの瞳が、うるうるしている。
「ミユウ、頑張ったのに……正天使になれたと思ったのに……でも、すぐ戻っちゃって……」
「ミユウじゃ、ダメだったの……? 」
その一言が、俺の胸を鋭く抉った。
うざ可愛い。
普段はそう思ってる。
いつも俺を振り回して、甘えてきて、うるさくて、でも放っておけない。
そんな奴だと思ってた。
なのに今、目の前で泣きそうな顔をしてるミユウを見たら――
なんだか、すごく、すごく、苦しかった。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
「……ミユウ」
俺はしゃがんで、彼女の目線に合わせた。
「ミユウは、すげぇ頑張ったよ」
「……ほんと? 」
「ほんとだ。正天使になった瞬間、俺、すげぇ感動した。 あんな光、見たことなかった。 お前が、あんなに強くなれるなんて……思ってた以上に、すげぇ奴だった」
ミユウの瞳が、少しだけ揺れた。
「でも……戻っちゃった……」
「それでも、頑張ったことに変わりはない。 お前があの力を一瞬でも引き出せたから、俺たちはまだ生きてる。 ラフィセルを、あそこまで追い詰められたんだ」
俺は、ミユウの頭をそっと撫でた。
いつものように、ふわふわの銀髪が指に絡まる。
「だから、胸張ってろ。 お前は、十分やった」
ミユウは、しばらく俺を見つめていた。
そして、ぽつりと言った。
「……龍夜くんは、優しいね」
「は? 急に何だよ」
「いつも、ぶっきらぼうなのに……ミユウが泣きそうになると、すっごく優しくなる」
「……うるせぇ」
俺は顔を背けた。
耳が熱い。
多分、真っ赤になってる。
ミユウが、くすっと笑った。
いつもの、うざ可愛い笑顔が少しだけ戻ってきた。
「龍夜くん、大好き! 」
「……はいはい」
俺は立ち上がって、ルゥの方を向いた。
ルゥは、静かに俺を見ていた。
その瞳は、まるで俺の心の奥底まで見透かしているようだった。
「……瀬野龍夜」
「ん? 」
「本当に、覚悟はできているのか? 」
俺は、苦笑した。
「覚悟なんて……最初からできてねぇよ」
「……? 」
「ただ、逃げられなくなっただけだ。
ミユウがあんな顔してんのに、俺が『やっぱ無理っす』って言えるわけねぇだろ」
ルゥの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「……愚かだな」
「うるせぇよ」
俺は胸に手を当てた。
ずっと、そこにあった。
召喚された日から、ずっと、熱くて、疼くような何か。
最初はただの違和感だと思ってた。
異世界に来たショックで、体がおかしくなっただけだって。
でも、今はわかる。
あれは、俺の中に眠っていた――
救世主の力。
俺は目を閉じた。
「……来いよ」
声に出して、呼びかけた。
「俺の中にいる、てめぇの力。
もう、隠れてる必要なんかないだろ」
その瞬間だった。
背中が、焼けるように熱くなった。
まるで、溶岩が背骨を這い上がるような感覚。
痛い。 痛いのに、気持ちいい。
体の中を、熱い血が駆け巡る。
心臓が、どくどくと大きく鳴り始めた。
「――っ! 」
俺は膝をついた。
視界が、白く染まる。
いや、違う。 俺の体から、光が溢れ出している。
足元から、黄金色の光の粒子が舞い上がり、俺の周りを渦巻く。
髪が逆立ち、服が風もないのに激しく揺れた。
「龍夜くん!? 」
ミユウの声が、遠くから聞こえた。
ルゥが、鋭く叫ぶ。
「今だ! 瘴気を寄せ付けないよう、私が結界を張る! ミユウ、離れていろ! 」
俺は、歯を食いしばった。
痛い。
痛すぎる。
でも、同時に――
すごく、力が湧いてくる。
今まで感じたことのない、圧倒的な力が、俺の体を満たしていく。
まるで、空っぽだった器に、熱い湯が注がれていくみたいに。
「……はは」
俺は、笑った。
「すげぇ……これが、救世主の力かよ……」
背中が、裂けるように疼いた。
そして――
「――ぐあっ! 」
次の瞬間、背中から、巨大な光の翼が爆発的に広がった。
黄金色に輝く、六枚の翼。
それぞれが、まるで太陽の欠片のように眩しく、辺りを照らし出す。
瘴気が、悲鳴を上げて後退していくのが見えた。
俺は、ゆっくり立ち上がった。
体が、軽い。
まるで、重力が半分になったみたいだ。
ミユウが、目を丸くして俺を見上げている。
「りゅ……龍夜くん……? 」
俺は、彼女に笑いかけた。
「どうだ? これで、救世主っぽくなったか?」
ミユウは、しばらく呆然としていた。
そして、突然、ぴょんっと跳ね上がって、俺に抱きついてきた。
「やったぁぁぁ!! 龍夜くん、かっこいいいいい!! すっごく眩しい!! ミユウの龍夜くんが、一番強いぃ!! 」
「お、おい、重いって! 離れろ! 」
俺は慌ててミユウを剥がそうとしたけど、彼女はぎゅーっとしがみついて離れない。
ルゥが、呆れたように呟いた。
「……本当に、覚醒してしまったか」
俺は、苦笑しながら空を見上げた。
まだ、暗雲は消えていない。
ラフィセルの気配も、まだそこにある。
でも、もう――怖くなかった。
俺は、ミユウを抱えたまま、前に進み出た。
「ルゥ。ミユウ。 後ろに下がってろ」
俺は、右手を前にかざした。
すると、黄金の光が、剣の形を取って現れた。
長く、鋭く、圧倒的な輝きを放つ光の剣。
俺は、それを握りしめた。
「……行くぞ、ラフィセル」
俺の声が、戦場に響いた。
その瞬間、暗雲が、まるで怯えたように震えた。