軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第25話 正天使の覚醒

俺はもう、立っていることすらままならなかった。

足元に広がる天界の聖域――かつては純白の大理石が敷き詰められ、黄金の陽光が永遠に降り注ぐはずの場所は、今や黒い瘴気に侵され、ひび割れた石畳の隙間から毒々しい紫の煙が立ち上っている。

空は鉛色に濁り、遠くで雷鳴のような轟音が断続的に響く。すべてが、魔王子ラスフェルの存在によって歪められていた。

血の味が口いっぱいに広がる。左腕は感覚がなく、肩から先が不自然にだらりと垂れ下がっている。

魔力の奔流が内側から肉を焼き、骨まで焦がしている感覚があった。息をするたび、肺が錆びた鉄の針で刺されるようだ。

(……もう、終わりか)

そんな考えが頭をよぎった瞬間、視界の端で小さな影が動いた。

「龍夜くんっ!! 」

甲高い、でも今は必死に震える声。

ミユウだった。

銀色のツインテールが乱れ、いつもはふわふわと浮遊しているような白いドレスが、血と煤で汚れている。

彼女は俺とラスフェルの間に、まるで子犬が主人の前に立ちはだかるように飛び出した。

「やめなさいよぉっ! 龍夜くんに……龍夜くんに触らないでぇっ!! 」

その小さな背中が、ラスフェルの放った黒い刃を真正面から受け止めた。

衝撃音が遅れて響く。空気が爆ぜ、衝撃波が俺の髪を逆立てた。ミユウの体が大きくのけぞる。膝が折れそうになる。それでも彼女は倒れなかった。

「ミユウ……下がれ! 危ないって! 」

俺は叫んだ。喉が裂けるように痛んだ。血が混じった唾が口から飛び散る。

でもミユウは振り向かなかった。代わりに、震える小さな両手を前に突き出し、まるでラスフェルを押し返すように構えた。

「もう……もう嫌なんだもん……! 」

その声は、今まで聞いたことのないほど切実だった。

「弱くて、ちっちゃくて、何もできないミユウなんて……もう、嫌なんだもんっ!

龍夜くんが、こんな目に遭ってるのに……ミユウ、何もできないなんて……嫌だよぉっ! 」

涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちる。頬を伝い、顎から滴り、地面に落ちる前に光となって消えた。

「神様……神様ぁっ! 」

ミユウが顔を上げた。瞳は涙で濡れながらも、燃えるような決意を宿していた。

「お願い! ミユウを強くして!

龍夜くんを、大好きな龍夜くんを守れるくらい、強くしてぇっ!! ミユウ、わがまま言っちゃう! 今すぐ! 今すぐ強くしてぇっ!! 」

それは、子供の駄々っ子のような叫びだった。

なのに――

その声は、天界の空を突き抜け、神の玉座すら震わせた。

瞬間、世界が静止した。

風が止まり、雷鳴が消え、ラスフェルの瘴気さえも一瞬、怯んだように後退した。

そして。

ミユウの小さな体から、光が溢れ出した。

最初は柔らかな白銀の輝きだった。それがみるみるうちに膨張し、星が生まれる瞬間のように爆ぜ、俺たちの周囲を飲み込んだ。目が焼ける。思わず腕で顔を覆うが、光は瞼を貫通して網膜に焼き付く。

「……っ! 」

驚愕の吐息が、すぐ近くから聞こえた。

ルゥだった。孤高の大天使長である彼が、初めて動揺を隠せずにいた。

「これは……まさか……」

光が収束する。収束し、凝縮し、そして――

ミユウの背中から、六枚の純白の翼が一斉に開いた。

一枚一枚が、まるで朝焼けの雲を切り取ったように淡く輝き、羽根の一枚一枚が独立して微かに震えている。

髪は銀からさらに純度を増した光の糸となり、風もないのに優雅に舞い、瞳は琥珀色から聖なる黄金へと変わっていた。

そこに立っていたのは、もうあの「うざ可愛いロリっ子」ではなかった。

正天使。

天界の歴史に刻まれるべき、絶対的な存在。

「……正天使、覚醒完了」

ルゥの声は、ほとんど呟きに近かった。信じられないものを見るような、畏怖と驚嘆が入り混じった表情。

ミユウがゆっくりと振り向いた。

俺を見た。

その瞳に映るのは、いつもの悪戯っぽい笑みではない。

穢れを知らない、絶対的な慈愛。

すべてを包み込み、赦し、救う――そんな微笑みだった。

「龍夜くん……もう、大丈夫だよ」

声までが変わっていた。

幼児語の癖は残っているのに、響きに透き通るような神聖さが宿っている。

「ミユウが……全部、守るから」

その言葉を聞いた瞬間、俺の胸の奥で何かが弾けた。

(……お前……)

血まみれの口元が、自然と緩む。

「……ほんと、わがままだな、お前」

ミユウはぴょんと跳ねるように俺の胸に飛び込んできた。

六枚の翼が自然に俺を包み込む。温かくて、柔らかくて、まるで母の胸に抱かれたような――でも、それ以上に絶対的な安心感があった。

「だって、龍夜くんが大好きなんだもん!」

その瞬間、傷ついた体に温かな力が流れ込んだ。

焼け焦げた肺が再生し、折れた骨が音を立てて繋がり、失われた血が一瞬で満たされる。痛みが急速に遠のいていく。

俺は思わずミユウの小さな背中を抱きしめた。

翼の羽根が指に触れて、まるで絹のように滑らかだった。

「……ありがとう、ミユウ」

「ううん。龍夜くんがいてくれるから、ミユウは強くなれたんだよ」

彼女の声は、泣き笑いみたいに震えていた。

その背後で、ラスフェルが初めて後退った。

九百年前、ルゥの家族を皆殺しにし、ミユウに永遠のトラウマを刻み込んだ魔王子が――

今、恐怖に顔を歪めている。

「ふ、ふざけるな……! 小娘が……正天使だと……? ふざけるなッ!! 」

ラスフェルが最後の悪あがきのように咆哮を上げ、黒い魔力を最大限に凝縮させた。

漆黒の槍が無数に生み出され、俺たちに向かって一斉に放たれる。

でも、もう遅い。

ミユウが、ただ静かに指を鳴らした。

ぱちん。

乾いた音が響いた瞬間――

世界が、光に塗り潰された。

黒い槍は触れる前に蒸発し、瘴気は霧散し、ラスフェルの巨大な翼は根元から焼き切られた。

「――ぁ……あぁぁぁぁぁッ!! 」

魔王子の絶叫が、天界にこだまする。

ミユウは俺を抱いたまま、ただ穏やかに呟いた。

「……消えなさい」

光が奔流となり、ラスフェルを呑み込んだ。

九百年の怨嗟も、憎悪も、すべてを焼き尽くすように。

そして、静寂が戻ってきた。

荒れ果てた聖域に、柔らかな光が降り注ぎ始める。

ひび割れた大理石がゆっくりと修復され、黄金の陽光が再び空を満たしていく。

俺はミユウを抱きしめたまま、深く息を吐いた。

「……終わったのか」

「うん。もう、大丈夫」

ミユウが顔を上げ、いつものように少しだけ頬を膨らませた。

「でもね、龍夜くん。これからはミユウが守るから。 もう、ひとりで無茶しちゃダメなんだからね? 」

その言葉に、俺は苦笑した。

「……お前こそ、無茶するなよ。正天使になったからって」

「えーっ、だって龍夜くんが危ないときは、ミユウ、絶対に我慢できないもん! 」

ミユウはむすっとした顔で、でもすぐにくすくすと笑い出した。

その笑顔を見ていると、俺はようやく実感した。

俺は、もう一人じゃない。

このちっぽけで、わがままで、うざ可愛い少女が――

いや、もう少女なんかじゃない。

俺を、本気で守ろうとしてくれた存在が、ここにいる。

「……これからも、よろしくな。ミユウ」

「うん! ずっと一緒だよ、龍夜くん! 」

六枚の翼が、優しく俺を包み込んだ。

天界に、再び平和が戻り始めた。