作品タイトル不明
第18話 世界が俺を救世主と呼んだ日
俺は、ラステルの城壁を越えた瞬間、思わず足を止めた。
胸の奥が、ぎゅっと掴まれたように痛む。
息を吸っても、空気が肺に届かない気がした。
眼下に広がるのは、街と呼ぶにはあまりにも無残な光景だった。
天界アストリアの誇りと謳われた王都ラステル――その名に相応しい面影は、どこにも残っていない。
高くそびえていたはずの尖塔は途中から折れ、宮殿の屋根は焼け落ちて黒く煤けている。
石畳の通りには血と泥がこびりつき、踏みしめるたびに、ぬかるんだ音がした。
空は鉛色の雲に閉ざされ、陽光は一切差し込まない。遠くでは、黒煙が幾筋も立ち上り、焦げた匂いが風に乗って鼻腔を刺す。
――悪魔族の咆哮。
低く、獣じみた声が、街の奥から響いてきた。
反射的に肩が強張る。
あれは、人間の声じゃない。理屈じゃなく、本能がそう告げていた。
召喚されてから、まだ数日しか経っていない。
それなのに、俺はこんな場所に立っている。
(……なんで、俺なんだ)
胸の奥で、何度目か分からない疑問が渦巻く。
俺は、ただの高校一年生だ。
特別な才能も、覚悟もない。
異世界でスローライフを送る――そんな 現実逃避みたいな夢を、本気で思い描いていただけの、どこにでもいる普通の人間だ。
それなのに、この惨状だ。
城門付近には、難民と思しき人々がうずくまっていた。
ぼろ切れ同然の服を身にまとった母親が、血を流す子供を必死に抱きしめている。子供の腕には、悪魔の爪で裂かれたような深い傷が走り、血が止まらず地面に滴っていた。
目を逸らしたくなる。でも、逸らせない。
(これが……現実なんだ)
ニュースの向こう側で見ていた悲劇とは、まるで違う。
匂いがある。音がある。痛みが、すぐそこにある。
「龍夜くん! 見て! 」
明るい声が、俺の思考を引き裂いた。
ミユウだ。小さな体で翼をはためかせ、今にも飛び出そうとしている。
銀色の髪、大きな青い瞳。その姿は、どう見ても幼い少女だ。――いや、天使そのものと言っていい。
でも、俺は知っている。この小さな存在が、どれほど危うい力を抱えているかを。
「助けなきゃ! みんな、すごく痛そう……! 」
その言葉に、胸が締めつけられる。
俺は慌てて駆け寄り、彼女の細い腕を掴んだ。
あまりにも軽く、壊れてしまいそうで、思わず力を抜く。
触れるだけで、命を癒す“神癒”の力。
けれど、それは奇跡なんかじゃない。
――代償がある。
与えれば与えるほど、彼女自身の命が削られていく。
「待て、ミユウ」
「でも……! 」
「ダメだ」
思った以上に、声が強くなった。自分でも驚くほどだった。
ミユウは唇を尖らせ、大きな瞳を潤ませる。
「ミユウ、助けたいだけなのに……」
分かっている。彼女は正しい。誰よりも。
でも、正しさだけじゃ、守れないものがある。
「乱用すれば、お前が枯渇する。命を削るんだ」
言葉にした瞬間、胸が痛んだ。こんな言い方、したくなかった。
「……龍夜くん、意地悪……」
その一言が、深く突き刺さる。
(意地悪でいい)
そう思わなきゃ、立っていられなかった。
「俺がやる」
声が、震えないように意識して言った。
「お前の力は使わせない。その代わり、俺がやる。お前は、俺のそばにいろ」
彼女の命を賭けさせるくらいなら、壊れるなら――俺が先だ。
ミユウはしばらく俯いていたが、やがて小さく頷いた。
「……約束だよ? 」
「ああ」
その言葉を交わした瞬間、背後から気配を感じた。
ルゥ。孤高の大天使長。
冷たい青の瞳と、背に広がる巨大な翼。
彼の存在そのものが、戦場の緊張を孕んでいる。
「正しい判断だ、龍夜」
低い声が、静かに響いた。
「魔王子ラスフェルは、この街を監視している。ミユウの力も……お前の“奇跡”も、奴の狙いだ」
奇跡。その言葉に、違和感が走る。
本来なら、そんな大それたものじゃない。
ただ、世界の歪みに応じる“何か”に過ぎない。
それでも――。
俺は、服の内側に手を伸ばした。
淡い光が、応えるように滲み出す。
倒れていた騎士の体を、青白い輝きが包み込んだ。
裂けた肉が繋がり、失われかけた腕が、時間を巻き戻すように元へ戻っていく。
呻き声が止み、騎士の瞳に、生の色が戻った。
「……奇跡だ……」
誰かが呟いた。
その一言が、連鎖する。
「救世主だ……! 」
「本当に、戻られた……! 」
人々が、俺を見つめる。
期待と、祈りと、縋るような視線。
(やめてくれ)
喉の奥で、声にならない叫びが渦巻く。
俺は救世主なんかじゃない。
そんな器じゃない。
でも――。
ミユウの小さな手が、俺の袖を掴んだ。
「龍夜くん……一緒に、がんばろうね」
その温もりに、現実へ引き戻される。
一人じゃない。
逃げても、誰かが代わりに背負ってくれるわけじゃない。
なら。
剣も、王冠も持たない。名もなき奇跡を携えただけの、ただの人間でも――
やるしかない。
この街を救う。それが、今の俺に与えられた役割だ。
城壁の影で、赤い瞳が一瞬だけ輝いた。
魔王子ラスフェルの配下が、闇へと溶けて消える。
戦いは、すでに始まっている。
重すぎる期待を背負いながら、
それでも、俺は歩き出した。