軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第174話 世界は闇に沈んでいった

黒い宝玉が、魔王の胸の奥で脈を打った。割れた玉座の間に散った石片が足裏へ食い込み、俺の指先からこぼれた血が、床を這う闇に触れた瞬間、焼けた鉄の匂いを立てた。

魔王の腕が、アインの小さな体へ伸びる。爪の先にまとわりついた黒い炎が、空気を裂き、ジュリアの白い頬をかすめる位置でうねった。

俺は崩れかけた膝を床へ叩きつけ、アストラルフレイムの柄を握り直したが、剣身は半ばから砕け、残った光だけが掌の皮膚を焦がしていた。

「アイン、下がれ……!」

声は喉の奥で血に絡み、届いたかどうかも分からない。けれど、アインは下がらなかった。

小さな両足を床に踏ん張り、泣き濡れたまつ毛の奥で魔王を見上げ、震える指を黒い宝玉へ伸ばしていた。

「パパ、だめ」

アインの声が、闇の唸りにかき消される寸前で耳に刺さった。

魔王の口が裂ける。牙の隙間から漏れた黒い息が、アインの髪を後ろへ吹き飛ばした。

「その手で触れるな。虫けらの子が」

魔王の腕が振り下ろされる。黒い爪が床を削り、石が跳ね、アインの頬に細い赤が走った。

アインは声を飲み、片手で頬を押さえながらも、もう片方の手を魔王の胸へ突っ込んだ。

「アイン!」

ミユウの声が背後で揺れた。白い羽が闇に押し潰され、床に散った光の粒が、踏まれた雪のように砕けていく。

ジュリアがミユウの服を握りしめ、裸足のつま先を床石にこすりながら、こちらへ手を伸ばした。

「パパ、こっちみて」

見る。見ている。俺はそう言いたかった。けれど、口を開いた瞬間、胸の奥から上がってきた血が舌に広がり、言葉の形を奪っていった。

魔王の胸の中で、アインの指が黒い宝玉に触れた。玉座の間の空気が一度、低く沈む。割れた柱に刻まれた紋様が黒く染まり、天井から垂れた闇が、アインの手首に絡みついた。

「返せ」

魔王の声が石壁を震わせ、玉座の背が粉々に砕けた。

アインの腕が引かれる。小さな体が前のめりになり、足が床から浮きかけた。俺は動かない脚を無理やり引きずり、砕けたアストラルフレイムを杖のように突いて、魔王との距離を詰めた。

一歩ごとに、視界の端が黒く欠ける。肺に入る空気は熱を持ち、喉の奥に砂を詰め込まれたようだった。

けれど、アインの指が宝玉を掴んでいる。あの小さな手が、俺の届かなかったところへ伸びている。

「はなせっ」

短い叫びと同時に、アインが宝玉を引き抜いた。

魔王の胸から黒い光が噴き出した。闇は血のように床へ落ちず、獣の群れのように跳ね、天井へぶつかり、壁を這い、俺たちの足元へ戻ってくる。アインは宝玉を両手で抱え込み、よろめきながら後ろへ下がった。

「パパ、あった」

その一言が、俺の胸を内側から殴った。

魔王は崩れなかった。胸に空いた穴から黒い炎を溢れさせ、片膝をつきながらも、アインへ腕を伸ばした。指先が伸びるたび、床の石が腐ったように黒ずみ、アインの足元が沈む。

「渡せ。お前の骨ごと砕いて、父親の目の前で握り潰してやる」

アインの肩が跳ねた。宝玉を抱く腕が震え、唇が噛み締められる。ジュリアがミユウの腕をすり抜け、床に散った石で足を切りながら、アインのそばへ駆け寄った。

「おにぃちゃん、て」

ジュリアの小さな手が、アインの袖を掴む。アインは宝玉を胸に抱いたまま、ジュリアの手を握り返した。

「いっしょ」

二人の声は細く、闇の中で何度も途切れた。けれど、魔王の腕はそのまま伸びていた。子供の手も、震える肩も、涙で濡れた頬も、あいつには何も映っていない。

俺は砕けた剣を床から抜き、残った光を魔王へ向けた。

「こっちだ」

魔王の瞳が、裂けた黒の奥で俺を捉える。

「まだ立つか。守れなかった男が」

足元の闇が跳ね、俺の膝に食い込んだ。皮膚の下を冷たい針が走り、骨を内側から縛る。倒れかけた体を、剣の柄で支えた。

「パパ!」

アインの声に、俺は首だけを向けた。黒い宝玉を抱えた小さな体が、ミユウの羽の陰へ押し込まれる。ジュリアが宝玉の端に手を添え、こぼれそうになった黒い光から顔を背けた。

「パパ、いかないで」

ジュリアの声が、床石に落ちた水のように広がった。

行かないで済むなら、そうしてやりたかった。ミユウの腕の中に戻り、アインの頬の傷に触れて、ジュリアの冷えた足を包み、何度も名前を呼んでやりたかった。

けれど、魔王の胸から溢れた闇は、まだ死んでいない。

宝玉を奪われても、あいつは残った力で玉座の間を食い破り、城の外へ染み出そうとしていた。ここで止めなければ、ミユウの羽も、アインの手も、ジュリアの声も、黒い泥の底へ沈む。

俺は剣の欠片を持ち上げ、自分の胸へ押し当てた。

ミユウが息を呑んだ音が、背中に触れた。

「あなた……」

その呼び方だけで、膝が折れそうになった。初めて聞いた日の温度も、何度も呼ばれた夜の灯りも、俺の中で割れた硝子みたいに光った。

「ミユウ、宝玉を……子供たちを頼む」

「いやです。あなた、こっちへ来て」

足音が近づく。白い光が背中に触れる。 最高天使(イリゼ) の癒しが、俺の裂けた皮膚に染み込んだ。熱でも冷たさでもない、手のひらで水を受けるような温もりが、肩から胸へ流れ、折れた骨の奥へ届こうとする。

俺は振り向かなかった。振り向けば、戻ってしまう。ミユウの目を見れば、剣を下ろしてしまう。アインとジュリアの小さな指が俺の服を掴めば、もう何も選べなくなる。

魔王が笑った。

「美しいな。家族ごっこに 縋(すが) り、死に際まで迷う。だから人間は踏み潰す価値がある」

黒い炎が床から立ち上がり、ミユウへ伸びた。俺は剣の欠片を横へ払う。光の薄い刃が炎を裂き、飛び散った闇が腕に貼り付いた。皮膚が黒く染まり、指先の感覚が一つずつ剥がれていく。

「ミユウ、下がれ」

「下がりません」

癒しの光が強まった。ミユウの羽からこぼれる白が、俺の背中を包み、魔王の闇とぶつかって火花を散らす。俺の心臓に絡みついていた黒が、わずかにほどけた。

その隙を、魔王は逃さなかった。

胸の穴から伸びた影が、蛇のように床を滑り、アインの足首へ巻きつく。アインが宝玉を抱えたまま膝をつき、ジュリアがその腕にしがみついた。

「パパ!」

「いたい、やだ!」

魔王は口の端を吊り上げ、影をさらに締めた。アインの指から宝玉が滑りかける。ジュリアが小さな手を重ね、宝玉を押さえた。二人の爪が黒い表面に当たり、硬い音が響く。

「それは俺のものだ。生まれたばかりの獣が、爪を立てるな」

魔王の影が、二人の体を引いた。

俺は走った。いや、走った形に体を投げた。膝は曲がり、足首は床を掴めず、砕けた石を蹴ったつもりの爪先から血が飛んだ。それでも、アインの手に届く距離まで身を滑り込ませた。

影を剣で断つ。アストラルフレイムの欠片が甲高い音を立て、光が一瞬だけ弾けた。影は切れ、アインとジュリアの体が床へ落ちる。俺は二人の前に膝をつき、片腕で押し返した。

「ミユウ!」

ミユウの羽が広がる。白い光が床を走り、アインとジュリアの足元を覆った。二人の切れた足に光が触れ、滲んだ血が薄くなっていく。ジュリアはミユウへ顔を向けず、俺の服の裾を掴んだ。

「パパ、て」

俺は空いている指を伸ばした。ジュリアの小さな指が絡む。冷えきった指先が、俺の掌の血で濡れた。

アインは黒い宝玉を抱えたまま、俺の胸元を見上げた。

「パパ、もってた」

「よくやった」

それ以上は言えなかった。喉が塞がり、息が続かない。アインの頬についた赤を親指で拭うと、小さな肩が震え、宝玉をさらに強く抱きしめた。

魔王が立ち上がった。胸の穴は広がり、黒い炎が肋の間から漏れている。だが、瞳だけは濁らず、こちらを食い破るための光を宿していた。

「ならば、宝玉ごと消えろ」

玉座の間の天井が砕けた。黒い柱が上から落ち、床に突き刺さる。柱の表面から無数の刃が生え、ミユウの光を押し返した。空気が重くなり、アインとジュリアの息が途切れ途切れに聞こえる。

ミユウが俺の肩に手を置いた。指先が震えていた。癒しの力が流れ込むたび、俺の中の傷は塞がろうとし、その奥で魔王の闇が裂け目を広げる。癒しと闇が胸の内でぶつかり、心臓の鼓動が不揃いに跳ねた。

「あなた、まだ間に合います」

「間に合うなら、俺はここに立ってない」

言葉にした瞬間、ミユウの指が俺の肩を掴んだ。痛いほど強い。羽の白が俺の視界の端で震え、床に散った光が、黒い柱の根元で潰れていく。

「あなたを連れて帰ります。アインも、ジュリアも、待っていたんです」

「知ってる」

俺はそう答え、剣の欠片を握り締めた。

待っていた。俺が帰る場所を、三人はずっと守っていた。だからこそ、ここで俺が背を向ければ、その場所ごと魔王に踏み潰される。

黒い宝玉が、アインの腕の中で震えた。魔王の胸の穴と宝玉の間に、細い闇の糸が伸びる。まだ繋がっている。奪い返しただけでは足りない。俺の中に残った魔王の核と、あの宝玉を切り離し、同時に焼かなければならない。

そのために、俺は魔王を俺の中へ引きずり込む。

魔王の瞳が細くなる。

「何をするつもりだ」

俺は答えず、胸に剣の欠片を突き立てた。

肉を裂く音が、やけにはっきり聞こえた。熱いものが肋の内側を流れ、アストラルフレイムの残光が俺の血を伝って胸の奥へ沈む。魔王の闇がそこへ食いついた。飢えた獣のように、俺の中へなだれ込んでくる。

「愚か者が。自分から器になるか」

魔王が笑い、黒い炎になって俺へ飛び込んだ。

視界が裂けた。玉座の間が遠のき、代わりに、黒い海の底へ落ちるような重さが全身を包む。耳の奥で魔王の声が鳴り、骨の隙間へ爪を差し込んでくる。

「お前の後悔を寄越せ。守れなかった夜を寄越せ。泣き声を寄越せ。妻の手を振りほどいたその瞬間を、俺の肉にしろ」

胸の奥に、黒い手が伸びる。過去の破片を掴み、捻り、俺の喉へ押し込んでくる。助けられなかった影。届かなかった手。背を向けた場所。俺が二度と見たくなかったものが、闇の水面に浮かび上がった。

それでも、俺は剣を握る指に力を残した。

「それは……俺のものだ」

魔王の手が止まる。

「奪わせない。後悔も、傷も、あの子たちの声も、ミユウの温もりも」

俺の内側で、アストラルフレイムが燃えた。砕けたはずの剣の光が、血の流れに沿って広がり、魔王の闇を縫い止めていく。魔王が吠えた。俺の骨が軋み、視界に白い火花が散った。

外の世界から、ミユウの光が入ってくる。

「あなた!」

その声と一緒に、背中から両腕で包まれた。ミユウの手が俺の胸元へ回り、傷の上に重なる。癒しの力が俺を包み、魔王の闇を押し返すのではなく、俺の体を形に留めるように流れ込んできた。

「戻ってきて。お願いです。あなた」

俺はミユウの手に、自分の血に濡れた指を重ねた。触れた瞬間、あの温もりが胸の奥まで届いた。魔王の闇に食われかけた内側で、ミユウの光だけが、形を持っていた。

「ミユウ」

名前を呼ぶと、背中の腕が強くなった。

アインとジュリアの足音が近づく。止める声が出ない。小さな体が、ミユウの羽の下へ潜り込んでくる。アインは黒い宝玉を抱えたまま、俺の膝にぶつかるようにしがみついた。

「パパ、ここ」

ジュリアも反対側から服を掴む。小さな指が、破れた布に必死で絡む。

「パパ、いっしょ」

魔王の声が、俺の内側で笑った。

「見ろ。守るものが自分から寄ってくる。まとめて砕けるぞ」

闇が膨れた。俺の腕が勝手に動こうとする。魔王が俺の指を使い、アインの宝玉へ手を伸ばそうとした。俺は自分の手首をもう片方の手で掴み、骨が鳴るまで押さえ込んだ。

「触るな」

歯の間から出た声は、俺のものと魔王のものが混ざっていた。アインが肩をびくつかせ、ジュリアがミユウの服へ顔を押し当てる。

「パパ、こわいかお、やだ」

ジュリアの言葉が、俺の中の黒い水面に落ちた。波紋が広がる。魔王の爪がその波を切り裂こうとし、俺は胸の剣をさらに押し込んだ。

「見るな。ミユウ、二人を」

「離しません」

「ミユウ」

「離したら、あなたは一人で行ってしまいます」

ミユウの声は震えていた。それでも、手は離れない。癒しの光が俺を包み、アインとジュリアの小さな手まで白く染めた。黒い宝玉が光の中で軋み、表面に亀裂が入る。

魔王が吠えた。

「やめろ。俺の 核(コア) を焼くな。小娘、その手を離せ」

黒い影が俺の背中から噴き出し、ミユウの羽へ噛みついた。白い羽が裂け、光の粒が飛ぶ。ミユウの息が乱れた。けれど、彼女の手は俺の胸から動かなかった。

「あなたを、包みます」

ミユウの額が俺の背中に触れた。髪が血に濡れ、羽からこぼれた光が俺の傷へ染み込む。

「あなたがどこへ落ちても、私の光を残します」

「だめだ。巻き込まれる」

「もう巻き込まれています。あなたの妻です」

その言葉に、魔王の闇が苛立ったように脈打った。

「薄汚い絆で俺を縛れると思うな」

魔王が俺の内側で姿を膨らませる。黒い角、黒い翼、玉座の間を満たしていた悪意の塊が、俺の胸の奥で形を取った。アストラルフレイムの光がその足元を焼き、ミユウの癒しが俺の体を繋ぎ止める。外では、黒い宝玉の亀裂が広がっていた。

アインが宝玉を見下ろし、唇を震わせた。

「パパ、あつい」

「床に置け」

アインは首を横に振り、宝玉を抱く腕に力を込めた。五歳の腕には大きすぎる黒い球が、胸の前で滑りかける。ジュリアが横から手を添えた。

「いっしょ、もつ」

二人の小さな手が宝玉を支えた。その表面に、ミユウの光が映り、俺の血の赤が細く走る。亀裂の奥から、魔王の叫びが漏れた。

「子供の手で、俺を終わらせるな!」

闇が宝玉から噴き出し、アインの顔へ迫った。俺は身を捩り、ミユウの腕を巻き込んだまま、二人の前へ肩を出した。黒い炎が俺の頬を焼き、片目の視界が滲む。皮膚の焦げる匂いが鼻を刺した。

「アイン、今だ」

長い説明は要らない。アインは俺の声に肩を跳ねさせ、宝玉を床へ押しつけた。ジュリアも両手で押す。小さな膝が床につき、二人の体が宝玉に乗るように傾いた。

「パパ、いっしょに!」

アインの声が割れた。

俺は剣の欠片を胸から抜かず、そのまま片手を伸ばし、宝玉に触れた。ミユウの手も俺の手の上へ重なる。四つの小さな手と、ミユウの温もりと、俺の血に濡れた手。その中心で、黒い宝玉がひび割れた。

アストラルフレイムの残光が、宝玉の亀裂へ流れ込む。

魔王が俺の中で暴れた。肺が潰れ、肋が内側から押し広げられる。口から血がこぼれ、床の白い光に赤が混じる。魔王はまだ終わらない。俺の心臓を掴み、自分の核をそこへ逃がそうとしていた。

「お前の体をもらう。妻も子も、その手で裂かせてやる」

俺の腕が震えた。指がミユウの手を押しのけようとする。俺は歯を食いしばり、剣の欠片をさらに深く押し込んだ。心臓のすぐ横で、光が弾ける。

「俺の手は……そのためにあるんじゃない」

黒い海が、俺の膝まで満ちる。

「抱くためだ」

ミユウの手が強く重なった。

「つなぐためだ」

アインとジュリアの指が、俺の指に触れた。

「守るためだ」

剣の光が、俺の胸の内側から爆ぜた。

玉座の間が白と黒で満たされた。魔王の体が俺の背後に引きずり出されるように浮かび上がり、胸の穴から鎖のような光が伸びる。黒い宝玉は床で割れ、内側から濁った光を吐き出した。

魔王は俺の肩に爪を立てた。肉が裂け、骨に届く。俺は歯を噛み締め、魔王の腕を掴んだ。触れたところから皮膚が黒く染まる。だが、もう離さない。

「離せ、人間」

「離さない」

「お前が消えるぞ」

俺は答えなかった。魔王を俺の胸へ引き寄せ、アストラルフレイムの残光を心臓の奥へ集めた。ミユウの癒しが俺を包み、消えていく場所に触れ続ける。アインとジュリアの声が、遠くで重なる。

「パパ!」

「パパ、やだ!」

あの声を最後まで聞くために、俺は瞼を閉じなかった。視界の端で、アインが泣きながら宝玉の欠片を押さえ、ジュリアがミユウの腕にしがみついている。ミユウの羽は裂けて、それでも俺を包む光を止めない。

魔王の顔が、俺の目の前で歪んだ。

「なぜだ。なぜ、そこまでする。お前は失う。何も残らない」

俺は魔王の胸倉を掴み、残った力で引き寄せた。黒い炎が顔を焼き、喉を塞ぐ。言葉はもう、ほとんど形にならない。

「残る」

ミユウの温もりが背中にあった。

「ここに」

アインの小さな手が、俺の指先に触れていた。

「いる」

ジュリアの泣き声が、胸の奥へ届いた。

魔王の瞳が初めて揺れた。悪意が薄れたわけではない。逃げ場を探す獣の目だった。床を這う闇が城壁へ伸び、玉座の間の外へ逃げようとする。

俺は足を踏み込んだ。膝から力が抜け、体が傾く。そのまま魔王を抱え込むように、胸の剣へ押しつけた。

アストラルフレイムが、俺の内側で最後の火を上げた。

黒い宝玉の欠片が砕け散る。魔王の叫びが天井を破り、城の外へ伸びた闇が一斉に引き戻された。玉座の間の柱が崩れ、黒い炎が白い光に呑まれていく。魔王の爪が俺の背を掻き、腕を裂き、なおも子供たちへ伸びようとした。

「ミユウ、二人を……!」

ミユウは俺を包んだまま、羽の片側でアインとジュリアを抱き込んだ。白い光の膜が張られ、黒い爪がその表面で弾ける。ジュリアがミユウの胸元で泣き、アインが割れた宝玉の欠片を握りしめたまま、俺へ手を伸ばした。

「パパ、て!」

俺は伸ばした。届かない距離だった。指先の感覚はもう薄く、空気の冷たさだけが爪の先に残っている。それでも、アインの指が俺の血のついた袖をかすめた。

一瞬、掴めた。

小さな指が、すぐに滑った。

魔王の体が崩れ始める。黒い皮膚が灰になり、翼が裂け、角が割れ、胸の奥から濁った光が漏れる。けれど、目だけはまだ燃えていた。最後の悪意が俺の喉へ噛みつき、俺の体を乗っ取ろうと這い上がる。

「終われ、人間。お前の声で、あいつらを呪え」

俺は口を開いた。

魔王の闇が舌に絡む。黒い言葉を吐かせようと、喉の内側を爪で抉る。俺はミユウの温もりだけを辿った。背中に残る手の形。アインの袖を掴んだ感触。ジュリアの指の冷たさ。

「ミユウ」

彼女の息が、俺の背で止まった。

「アイン、ジュリア」

二人の泣き声が近づこうとして、ミユウの腕に止められる。小さな足が床を蹴る音がした。

「パパ、いく!」

「パパ、だっこ!」

俺は笑えなかった。顔の筋肉がもう動かない。けれど、声だけは、まだ三人へ向けられた。

「……愛してる」

その言葉を吐いた瞬間、魔王の闇が俺の喉から剥がれた。

アストラルフレイムの火が、胸の奥で白く変わった。魔王の体が一気に燃え上がる。黒い炎ではない。俺の血と、ミユウの癒しと、宝玉を奪い返した小さな手の熱を抱えた光だった。

魔王が吠えた。

「俺は滅びぬ。闇は残る。お前の子を、妻を、世界を――」

言い終える前に、光が魔王の口を焼いた。牙が砕け、舌が灰になり、黒い瞳が内側から割れた。腕が崩れ、爪が床に落ち、灰になる。玉座の間を覆っていた闇が、引き裂かれた布のように天井へ舞い上がり、光の中で消えていく。

俺の体も、同じ光に沈んでいった。

ミユウの腕が、俺をさらに強く抱いた。癒しの力が流れ込む。温かい。痛みの形がほどけていく。けれど、塞がるはずの場所から、俺の輪郭がこぼれていくのが分かった。

「あなた、いやです。まだ、まだです」

ミユウの声が、耳のすぐそばで崩れた。頬に何かが落ちる。涙か、光か、血か、もう分からない。彼女の手が俺の胸を押さえ、何度も癒しを注ぎ込む。白い光が溢れ、床に広がり、砕けた玉座の影まで包んだ。

「戻ってきて。あなた、お願い」

俺はその手に触れようとした。指は上がらない。代わりに、背中へ残る温もりだけを受け取った。

アインがミユウの腕の下から抜けようともがく。小さな手が俺の袖を探し、血で濡れた布を掴んだ。

「パパ、ねんね、だめ」

ジュリアも泣きながらしがみつく。裸足の足先が俺の膝に当たり、冷たさが布越しに伝わった。

「パパ、め、あけて」

開けている。まだ見ている。けれど、三人の輪郭が光の中で滲み、玉座の間の黒い壁が遠ざかっていく。魔王の最後の灰が、俺の胸から剥がれて落ちた。床に触れた瞬間、灰は白い火に焼かれ、音もなく消えた。

魔王はもう、俺の中で声を出さない。

それでも、世界の奥で、別の闇が息を吸った。

玉座の間の床下から、低い音が鳴る。割れた黒い宝玉の欠片が一つ、光から逃れるように石の隙間へ沈んだ。俺はそれを見た。声を出そうとした。ミユウに、アインに、ジュリアに、まだ終わっていないと伝えたかった。

喉は動かなかった。

ミユウの癒しが俺を包み、アインとジュリアの小さな手が俺の服を握り、遠くで崩れる城の音が、胸の鼓動より大きくなっていく。

光が薄れた。

ミユウの温もりだけが、最後まで背中に残った。

そして、世界は闇に沈んでいった。