軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第172話 小さな天柱の也

玉座のひびから、黒い火が指の形で這い上がり、アインの小さな足首を掴もうとした瞬間、俺の喉は焼けた。

呼ぶより先に膝が前へ出て、折れた石片が足裏に食い込む痛みを置き去りにしたまま、俺はアストラルフレイムの柄を握り潰すほど締めた。

「アイン、下がれ!」

俺の声は玉座の間の天井にぶつかり、黒い柱の隙間で裂けた。アインは振り向かなかった。

短い肩が一度だけ上下し、金の光を帯びた小さな剣先が床を擦る音を立てる。五歳の手では余る柄を、両手で抱えるみたいに握りしめ、その足は震えながらも魔王の影から離れなかった。

魔王が笑った。喉の奥で石を砕くような音が鳴り、玉座の背に絡みついた闇が、翼でも腕でもないものへ変わっていく。

先端の尖った黒がいくつも開き、アインの胸、喉、顔へ狙いを合わせた。相手が幼いことなど、そこにはひとかけらも置かれていなかった。

「パパ、だめ」

アインの声が、床を伝って俺の足元に届いた。

俺は一歩で前へ出ようとして、胸の奥から逆流した魔王の残滓に喉を塞がれた。

さっきまで俺の体内に押し込めようとしていた黒い熱が、肋骨の裏で暴れ、視界の端に赤黒い筋を走らせる。吐いた息に鉄の味が混じり、剣を持つ腕が一瞬だけ沈んだ。

その隙を、魔王は見逃さなかった。

黒い腕が床を割り、アインの横腹へ叩きつけられる。

アインは剣を盾にして受けたが、小さな体ごと弾かれ、砕けた玉座の段差を転がった。金の光が散り、白い羽が一枚、黒い床の上で焦げる匂いを立てた。

「アイン!」

叫んだ俺の足を、影の鎖が絡め取る。膝から崩れた瞬間、アストラルフレイムが床を焼き、青白い火が黒い鎖を噛んだ。

鎖は鳴き声のような音を上げて縮んだが、すぐに別の影が俺の肩へ巻きつき、骨を内側から締める。

魔王の顔は、闇の奥に浮いていた。

「守る、守る、守る。口では何度も言ったな、勇者」

黒い牙の隙間から吐かれた声が、床の血の匂いに混ざる。

「その子の前で折れろ。父の背など、砕けばただの肉だ」

俺は奥歯を噛んだ。アストラルフレイムの炎を肩へ回し、影を焼き切ろうとする。

だが炎が伸びた先で、魔王の闇が泥のように形を変え、燃えた分だけ濃くなった。喉の奥に残った黒が、俺の呼吸に絡みつく。

アインが、石片の上で手をついた。

小さな指が床の割れ目に引っかかり、膝がずるりと滑る。けれど、剣から手を離さなかった。片方の頬に黒い煤がつき、唇の端に血がにじんでも、目は魔王から外れない。痛みに丸まりかけた背中が、俺の声でわずかに伸びた。

「アイン、もういい。パパが行く」

「やだ」

短い声だった。

アインは剣を引きずりながら立ち、足元の石が崩れるたび、つま先で踏み直した。柄を握る手がずれて、親指の付け根に赤い筋が浮く。それでも、剣先は下がらない。

「パパ、こっち来ないで」

「ふざけるな、アイン!」

「やだ!」

叫び返した声は幼く、息が切れて、最後は喉に引っかかった。それなのに、次の瞬間、アインの剣から金の火が噴き、玉座の間の黒い床に丸い光を広げた。魔王の影がその縁で焼け、煙を上げて退く。

俺は鎖を引き千切ろうと腕に力を込めた。肩の骨が軋み、胸の奥で黒い熱が跳ねる。アストラルフレイムが応えるように脈打ち、刃に青白い炎が重なった。だが、俺が踏み出すより早く、魔王の背後から闇の槍が降った。

一本ではない。

玉座の天井から、壁から、砕けた柱の影から、黒い槍が雨のように伸びる。先端はアインの小さな体を囲み、逃げ場を縫い止めるように床へ刺さった。石が跳ね、細かな破片がアインの腕をかすめ、赤い点が散る。

「パパ……」

アインの声が薄くなった。

俺は喉の奥を裂くように叫び、アストラルフレイムを振り上げた。

青白い炎が鎖を焼き、一本、二本と砕ける。だが最後の鎖が足首に食い込み、俺の体を床へ引き戻した。膝が石に叩きつけられ、痛みで視界が白く跳ねる。

魔王は、アインへ歩いた。

玉座の間に、重い足音が落ちる。床を踏むたび、黒い火が輪になって広がり、アインの金の光を削っていく。小さな円はじりじりと狭まり、アインの足元だけが残った。

「小さな羽虫が、勇者の真似をするな」

魔王の腕が伸びた。指の形をした闇が、アインの剣に絡みつく。金の火が弾け、アインの両腕が後ろへ引かれた。体ごと持っていかれそうになり、裸足のかかとが床を擦る。爪先が石に食い込み、膝が震えた。

「はなして」

アインは歯を食いしばり、柄を抱え込んだ。

魔王の腕がさらに太くなる。剣から金の火が剥がれ、黒に飲まれかけた。アインの肩が持ち上がり、小さな体が浮く。俺の血が一気に冷え、鎖ごと足を引きちぎるつもりで踏み込んだ。

「アイン!」

俺の炎が床を走った。青白い火が黒い槍を数本斬り飛ばし、アインへ向かって伸びる。だが魔王が片目をこちらへ向けた瞬間、炎の前に黒い壁が立ち、アストラルフレイムの火を叩き潰した。

衝撃が刃から腕へ返り、肩の奥まで痺れた。剣を落とさないように握り直すだけで、指の皮が裂ける。俺は前に出たかった。出なければならなかった。けれど、魔王の闇が俺の体内に残した棘が、呼吸のたびに肺を刺した。

アインは、浮いたまま魔王を睨んだ。

五歳の顔に似合わない言葉は出ない。ただ唇を噛み、首を横に振り、柄をぎゅっと抱えた。片方の靴が脱げ、床へ落ちる。小さな音だった。玉座の間に、それだけが妙に大きく聞こえた。

「パパ、見ないで」

その言葉に、胸が裂けた。

俺は見た。目をそらせなかった。

魔王の指が、アインの剣を握る小さな手へ巻きつく。力を入れれば砕ける距離だった。魔王はわざと急がない。骨の上を爪でなぞるように、ゆっくりと締めていく。アインの喉から、押し殺した息が漏れた。

「やめろ」

俺の声は潰れた。

「やめろ、魔王!」

魔王の口が裂けた。

「ならば来い。父親」

黒い壁が開く。俺へ続く道ができた。だが、その道の床は黒い沼に変わり、踏み込めば俺の中の残滓が一気に膨れるのが分かった。罠だと体が知っていた。それでも、アインの手が軋む音を聞いた瞬間、俺は足を出した。

「パパ、だめ!」

アインの声が跳ねた。

俺の足が黒い沼に沈む。冷たいものが足首から膝へ這い上がり、血の流れを逆にされるような感覚が走った。

アストラルフレイムの炎を落とす。青白い火が沼を焼くが、底から湧いた闇が刃に絡み、火を内側へ押し戻す。

魔王は俺を見ながら、アインを床へ叩きつけた。

小さな体が石にぶつかり、息が止まる音がした。アインの剣が手から離れかける。魔王の足がその刃を踏み、金の光を床へ押しつける。黒い火が剣身を舐め、アインの光が薄く削られていった。

俺は吠えた。

アストラルフレイムを逆手に持ち替え、自分の足元へ突き立てる。青白い炎が床の亀裂を走り、黒い沼を内側から割った。膝まで絡んだ闇が弾け、冷たい飛沫が頬に当たる。痛みも熱もまとめて噛み潰し、俺は前へ出る。

一歩。

鎖が背中を裂いた。

二歩。

肩に黒い槍がかすめ、血が袖を濡らした。

三歩。

魔王の拳が横から来た。

避けきれなかった。アストラルフレイムで受けたが、衝撃で体が横へ流れ、砕けた柱に背中を打ちつける。肺の空気が一気に抜け、視界が沈む。床に手をついた指の間に、黒い血が混じった汗が落ちた。

アインが、這うように剣へ手を伸ばす。

「まだ、やる」

短く、途切れた声だった。

俺は顔を上げた。アインの指が剣の柄に届く。だが魔王の足が、それより早く小さな手の前へ落ちた。床が割れ、アインの指先が石片に弾かれる。

「やる?」

魔王の声が低く広がった。

「何をだ。泣くか。叫ぶか。父の名を呼ぶか」

魔王の腕が、今度は槌の形になった。玉座の天井近くまで膨れ上がった黒が、落ちればアインの体ごと床を砕く大きさで揺れる。アインは逃げない。逃げられない。片手で床を掴み、もう片方を剣へ伸ばしたまま、俺のほうを見た。

「パパ」

声が小さかった。

俺は立とうとして、膝を滑らせた。足に力が戻らない。

魔王の 残滓(ざんし) が胸の奥で笑い、呼吸を細く削る。アストラルフレイムの柄を握る指が痺れ、刃の火が揺れた。

「アイン、伏せろ!」

間に合わない。

魔王の槌が落ちた。

その瞬間、玉座の間の奥で、白い光が立った。

最初に届いたのは、音ではなかった。肌の上を払う温度だった。黒い火の冷たさを裂き、春の陽に似た熱が頬を撫で、俺の睫毛についた血を乾かした。次に、空気が縦に割れた。天井から床まで一本の光の筋が通り、魔王の槌の側面を貫いた。

天柱の矢だった。

太い。玉座の間そのものを支える柱が、矢の形を得たみたいに、真っ直ぐに落ちていた。光の外側には幾重もの羽が重なり、中心にはミユウの祈りの熱が凝っていた。矢は魔王の槌を斜めに裂き、黒い塊を床へ縫い止める。

魔王が初めて、笑いを止めた。

「あなた!」

白い羽が視界の端で揺れた。

ミユウが玉座の間の入口に立っていた。乱れた銀白の髪が肩に貼りつき、両手を前へ伸ばしたまま、息を震わせている。指先にはまだ光が残り、空中に散った羽の欠片が、黒い煙を焼いていた。

その隣で、小さな影がミユウの裾を掴んでいた。

ジュリアだった。

「おにぃちゃん、だめ」

ジュリアの声が震え、けれど足は下がらなかった。小さな手を胸の前でぎゅっと合わせ、ミユウの光に重ねるように、自分の指先から細い矢を生んだ。

ミユウの天柱の矢は、玉座の間を貫く白金の柱だった。羽の層が外側で回り、矢尻は厚い闇を押し潰しながら、魔王の腕を床へ縫い止めている。

ジュリアの天柱の矢は、小さかった。腕より細く、すぐ折れそうな白い光で、矢羽もまだ揃っていない。

けれど、その先はまっすぐアインの前へ飛び、魔王の足元から伸びた黒い爪を一本、確かに弾いた。弾けた闇が小さな火花になって散り、アインの手の前に、ほんの少しだけ空白ができた。

「ジュリア、無理をしないで」

ミユウの声が俺の胸を打った。けれどジュリアは裾を掴んだまま、首を横に振った。

「おにぃちゃん、いたいの、やだ」

短い言葉が、黒い玉座の間に落ちた。

アインの指が、剣の柄を掴んだ。

「ジュリア……」

「おにぃちゃん、立って」

ジュリアの矢がもう一本、震えながら飛ぶ。ミユウの矢のように闇を裂いて進む力はない。途中で黒い火に削られ、細い光の粒をこぼしながら、それでもアインの前に落ちた。小さな白い火が床で弾け、魔王の影を一歩だけ押し返す。

その一歩で、アインが剣を引き寄せた。

金の光が戻る。まだ弱い。まだ刃の半分しか覆えない。それでも、アインは両手で柄を抱え、石に擦れた膝を引きずって立った。顔を歪め、息を切らし、涙で濡れたまつげを瞬かせながら、魔王の足元から離れた。

「パパ、見て」

俺は、柱に手をついたまま頷いた。声を出したら、胸の奥の黒ごと吐きそうだった。アストラルフレイムの炎が、俺の手の中で細く鳴る。

魔王の腕を縫い止めていたミユウの天柱の矢に、亀裂が入った。

黒い力が内側から膨れ、白金の柱を押し返す。ミユウの肩が揺れ、足元の石が光に焼かれて白く砕けた。彼女の額から汗が落ち、顎を伝って首筋へ消える。それでも、両手は下がらない。

「あなた、アインを!」

「ミユウ、ジュリアを連れて下がれ!」

「いや!」

ジュリアがミユウの裾を引っ張った。泣きそうな顔で、でも足を動かさない。

「パパも、おにぃちゃんも、いくの、やだ」

その声に、魔王の目が細くなった。

「母も、娘も、まとめて折るか」

魔王の背から、新しい闇が噴き上がった。ミユウの天柱の矢に縫い止められた腕とは別に、背中から生えた黒い刃が何本も開く。狙いは入口。ミユウとジュリアの立つ場所だった。

俺の血が逆流した。

「させるか!」

アストラルフレイムを振るう。青白い炎が床を這い、ミユウたちの前に壁を作る。だが、俺の火だけでは厚みが足りない。魔王の刃が炎を削り、火の壁に黒い穴を開けていく。

アインが走った。

走るというより、転びかけながら前へ出た。剣を両手で抱え、金の光を引きずり、魔王の足元へ斬りかかる。刃は浅い。黒い脚に細い傷をつけただけだった。けれど、その傷から金の火が入り込み、魔王の動きが一瞬だけ止まる。

「パパ、いま!」

五歳の声が、俺の背を押した。

俺は踏み込んだ。今度は迷わなかった。体内の黒が喉元まで上がってきても、アストラルフレイムを握る手に力を込めた。青白い炎が刃を覆い、ミユウの白金の光と混ざり、ジュリアの小さな矢の欠片を拾って輝く。

魔王の刃がミユウたちへ落ちる。

俺の剣がその前へ入った。

金属ではないもの同士がぶつかり、玉座の間が震えた。腕が折れそうな衝撃に歯を噛み、足裏で床を削る。背後でミユウが息を呑み、ジュリアが小さく「パパ」と呼んだ。

アインの金の火が、俺の横でまた上がる。

ミユウの天柱の矢が、魔王の腕をさらに深く床へ沈める。

ジュリアの細い矢が、震えながらその縁に刺さる。

三つの光が、黒い玉座の間で重なった。

魔王は、縫い止められた腕を自ら引き裂いた。白金の矢に貫かれたまま、黒い肉を削ぎ落とし、裂けた闇を床へ捨てる。腐った煙が噴き、俺の喉に焼けた匂いが貼りつく。

「いいだろう」

魔王の声が、低く沈んだ。

「家族ごと、砕く」

天井が鳴った。

玉座の背後にあった黒い紋が開き、底のない穴みたいな闇が姿を現す。そこから落ちてきた冷たい風が、ミユウの髪を揺らし、ジュリアの小さな肩を震わせた。アインが俺の横へ来て、片手で俺の服を掴んだ。

「パパ」

「ああ」

俺は剣を構え直した。血で滑る柄を握り、足元の石を踏み締める。ミユウがジュリアを片腕で抱き寄せ、それでももう片方の手を前へ伸ばした。ジュリアはミユウの腕の中で、小さな指を光へ向けた。

魔王の闇が、玉座の間を飲みに来る。

アインの手が、俺の服をぎゅっと掴んだまま離れなかった。