作品タイトル不明
第171話 小さな勇者、魔王に挑む
俺の胸へ沈みかけたアストラルフレイムが、骨の奥まで冷たい光を押し込んできた瞬間、横から飛び込んだ小さな影が、床を蹴る音ごと俺の腕にぶつかった。
甲高い金属音が玉座の間を裂き、アストラルフレイムは俺の手から跳ね上がって、黒い石床を火花で削りながら遠くへ滑った。
指の中に残った柄の重みが消え、胸元の布だけが裂けて、そこへ小さな背中が入り込んだ。
「パパ、だめ」
アインの両手には、二本の剣があった。
小さな指は柄を握り切れていない。革巻きの端に爪が食い込み、手首は重さに負けてわずかに沈んでいた。
それでもアインは俺の前に立ち、片足を引き、もう片方の足で割れた床を踏みしめた。
「アイン、下がれ」
喉が擦れた。立ち上がろうとした膝に力を込めると、胸の奥で黒い熱がぶつかり、息が一度止まった。
床に手をついた指先が滑り、割れた石の角が掌を裂いた。
アインは振り返らなかった。
「やだ」
魔王の影が玉座の上で膨れた。天井の黒い柱から垂れた鎖が、音もなく震え、壁に刻まれた古い紋様の光が一つずつ潰れていく。
赤黒い気配が床を這い、俺の足首に絡みついたまま、アインの小さな靴先へ伸びた。
「小さな羽虫が、剣を持つか」
魔王の声が腹の底を押した。石の粉が床から浮き、玉座の背が軋む。笑い声はなかった。
ただ、そこにあるものを踏み潰すための圧だけが、壁から壁へ押し寄せた。
アインの肩が揺れた。
剣先が下がりかけ、刃の先が床に触れて、白い火花が散った。俺は腕を伸ばしたが、指はアインの服の端に届かなかった。
「アイン、こっちへ来い」
「パパ、いかないで」
その短い声が、鎖の音の隙間を通って俺の胸に刺さった。
アインは右の剣を上げた。続けて左の剣も上げた。刃の重さで肘が震え、足の裏が床を探るように擦れたが、その小さな体は俺と魔王の間から動かなかった。
魔王の腕が上がる。
黒い爪の形をした影が五本、空気を削って伸びた。柱が一本、根元から砕け、破片が雨のように落ちる。アインはその下をくぐろうとして足をもつれさせ、膝をつきかけた瞬間、右の剣を床へ突き立てて体を支えた。
「くっ……!」
俺は歯を噛み、胸の中で暴れる黒い熱を押し戻した。アストラルフレイムは遠い。手を伸ばせば届く距離ではない。なのに、俺の目は床を滑った剣ではなく、アインの細い背中から離れなかった。
魔王の爪が落ちた。
アインは左の剣を横に払った。受けたのではない。弾いた。刃と影が触れた瞬間、白い光が薄く爆ぜ、黒い爪の一本が途中で折れた。残り四本が角度を変えて襲い、アインは右の剣を引き抜きながら、尻もちをつくように後ろへ下がった。
その動きで、二本目の爪が空を切った。
三本目が肩へ迫る。アインは目をぎゅっと細め、左の剣を胸の前に立てた。金属音が近すぎて、俺の耳の奥が熱くなった。小さな体が横へ飛ばされ、床を転がり、片方の剣が手から離れかけた。
「アイン!」
アインは転がったまま柄を抱き、すぐに肘で体を起こした。頬に黒い煤がつき、唇の端が震えている。
けれど、膝を立てると、落としかけた剣を胸に抱き直して立った。
「パパ、見てて」
「やめろ。俺が行く」
「やだ」
それだけ言って、アインは走った。
五歳の足音が、砕けた玉座の間に響いた。軽い。小さい。けれど、その一歩ごとに床の黒い紋様が白く焼け、魔王へ伸びていた影が波のように割れた。
魔王の顔が歪んだ。
「その光を、誰が許した」
魔王が片手を握ると、天井から黒い槍が生えた。槍は雨のように落ちず、一本ずつ角度を決めてアインへ向かった。逃げ道を塞ぐように床へ突き刺さり、裂け目から黒い火が吹いた。
アインは止まらなかった。
最初の槍を右の剣で叩く。腕が負けて剣先が跳ねる。けれど、左の剣が追いつき、槍の腹を横から削った。
黒い火が弾け、アインの袖の端を焦がした。小さな手が熱で開きかける。すぐに握り直す。
二本目の槍は避けきれなかった。
刃の端がアインの脇を掠め、布が裂れ、白い羽のような光が細く散った。アインは息を吸い込む音だけを漏らし、足を止めず、裂けた床の段差を両足で飛んだ。
魔王の黒い足元に白い傷が入った。
アインの右剣が届いたのだ。
ほんの浅い一撃だった。けれど魔王の影はそこから薄く剥がれ、黒い霧が水蒸気のように噴き出した。玉座の肘掛けが砕け、魔王の膝がわずかに沈む。
「小僧」
低い声が落ちた。
アインはそこで止まらず、左の剣を振った。刃は魔王の腕に当たり、火花ではなく、白い裂け目を作った。魔王の腕から黒い血に似たものが垂れ、床へ落ちた瞬間、石が焼けて穴を開けた。
俺の息が喉に詰まった。
あの小さな手が、震えながら魔王に届いている。重い剣に振り回され、足が何度も滑り、息が上がっている。それでも二本の刃は、泣き出しそうな口元の前で交差し、魔王の次の一撃を待っていた。
「パパ、だいじょうぶ」
それは俺に向けた言葉ではなく、声を出さなければ崩れそうな小さな体が、握った剣に押し込んだ音だった。
魔王が玉座を蹴った。
その動きだけで床が沈み、アインの体が浮いた。黒い腕が横から薙がれ、空気が折れる。俺は膝を引きずって前へ出たが、足首に絡んだ影が締まり、骨の奥へ冷たさが入った。
「アイン!」
アインは空中で体を丸めた。右の剣を抱え、左の剣を外へ出す。魔王の腕がその刃に触れ、鈍い音を立てて軌道をずらした。アインは床へ落ち、肩から転がり、玉座の階段に背中を打ちつけた。
小さな口が開き、息が出ないまま固まった。
俺は影を掴んだ。素手で引き千切ろうとした。指の皮が剥け、黒い熱が爪の下に入り込んでも、足はまだ動かなかった。
「やめろ、魔王!」
「ならば貴様が先に折れろ」
魔王の目が俺へ向いた。
その隙に、階段の下でアインの指が動いた。一本、また一本。柄を探し、掴み損ね、もう一度探す。剣は少し離れた場所に転がっていた。アインは膝で床を押し、片手を伸ばした。
届かない。
もう片方の剣は胸の下にある。アインはそれを抱えたまま体をずらし、頬を床に擦り、指先で転がった剣の柄に触れた。
「パパ……」
「こっちを見るな。剣を離せ」
「やだ」
その声は掠れていた。
アインは柄を掴んだ。持ち上げるのではなく、引き寄せた。床を擦る刃が火花を落とし、魔王の足元へ白い筋を残した。
魔王の眉間が動いた。
「まだ立つか」
黒い影が魔王の背から広がる。翼ではない。刃でもない。大量の腕に似た形が、柱や壁や床から同時に生え、玉座の間を内側から握り潰そうとした。
アインは立ち上がろうとして、片膝をついた。
それでも二本の剣を前へ置いた。盾のように。抱きしめるように。柄を胸の前で交差させ、足を引き寄せ、顔を上げた。
「パパの、じゃま、しないで」
魔王の腕が一斉に落ちた。
アインは前へ出た。
俺の目の前で、幼い足が黒い床を蹴った。最初の腕を右の剣で受け、押し潰される前に左の剣で根元を叩く。二本目は避けられず、肩に当たり、小さな体が横へ流れる。けれど流された先でそのまま回り、右の刃が三本目の腕を切った。
白い光が爆ぜた。
黒い腕が根元から消し飛び、魔王の背が大きく仰け反った。玉座の背後に立っていた黒い柱が割れ、天井から砂のような破片が降る。魔王の足元の影が乱れ、床に伸びていた呪いの線が何本も千切れた。
アインは息を吐く間もなく、もう一歩踏み込んだ。
左、右、また左。
剣筋は荒い。重さに負けるたびに体ごと持っていかれ、踏み込みは浅く、足の位置も揃わない。けれど、二本の剣は止まらなかった。
小さな腕が遅れた分だけ体をぶつけ、届かない分だけ一歩を足し、刃の端だけでも魔王の影に噛みついた。
魔王の胸に、三本目の白い傷が入った。
「ぐ……!」
魔王の声が初めて詰まった。
玉座の間を満たしていた黒い圧が、一瞬だけ割れた。俺の足首を縛っていた影が緩み、俺は床に爪を立てて前へ這った。
手の届くところにアストラルフレイムの柄が見えた。火の消えかけた刃が、割れた石の間でかすかに脈を打っている。
「アイン、戻れ。今だ」
アインは首を振った。
「パパ、まだ」
その短い言葉の先で、魔王の口が裂けた。
黒い息が漏れ、床の穴から赤い光が噴き上がる。玉座の間の壁が内側へ曲がり、天井に刻まれた紋様が血のように滲んだ。魔王は片腕を胸に当て、白く裂けた傷を握り潰した。
傷が消える。
代わりに、魔王の腕が太く膨れ、指先が刃へ変わった。
「ならば、跡形もなく砕く」
魔王が踏み込んだ。
速かった。黒い風が先に来て、アインの髪を後ろへ引いた。アインは反応しきれず、目だけを見開く。俺はアストラルフレイムへ手を伸ばし、柄を掴んだ瞬間、胸の傷が焼けた。
立て。
そう言い聞かせる前に、体は動いていた。
俺は影を引き裂き、床を蹴った。だが、魔王の刃はもうアインの目の前にあった。小さな手が二本の剣を上げる。角度が足りない。受ければ腕ごと潰される。
「アイン!」
アインは逃げなかった。
右の剣を斜めに出し、左の剣をその下へ添えた。二本を一つにして、魔王の刃を受けた。
音が消えた。
次の瞬間、白と黒の衝突が玉座の間を飲み込み、俺の耳の奥で血が跳ねた。床が円形に砕け、アインの靴が石にめり込み、小さな膝が曲がる。剣を握る指から血が滲み、柄を濡らした。
魔王の刃は止まっていた。
止めているのはアインだった。
「う、うう……!」
アインの喉から漏れた声が、刃の震えに混じる。腕が下がる。肩が沈む。魔王の顔が近づき、黒い目がアインを覗き込んだ。
「潰れろ」
圧が増した。
アインの膝が床についた。石が割れ、小さな足の周りに血の色が広がる。俺は横から斬り込んだ。アストラルフレイムが黒い腕へ食い込み、魔王の刃がわずかに傾いた。
その隙を、アインは逃さなかった。
膝をついたまま、右の剣を滑らせた。魔王の刃の内側へ潜り込ませ、左の剣を下から跳ね上げる。二本の刃が交差し、黒い刃の付け根を挟んだ。
「パパ、いま」
長くは言わない。
俺はアストラルフレイムを押し込んだ。アインの二本の剣が魔王の刃を縛り、俺の一撃がその腕を斜めに裂いた。黒い腕が宙へ飛び、天井にぶつかり、焼けた塊になって落ちた。
魔王が後退した。
一歩。
たった一歩だった。けれど、その足が玉座の段を踏み外し、膝が沈み、背中が砕けた肘掛けに当たった。黒い影が大きく乱れ、魔王の輪郭が煙のように揺れる。
アインはその場に座り込んだ。
剣を離さない。両手で握ったまま、肩で息をし、俺の方へ顔を向けた。煤で汚れた頬に、汗が一本だけ落ちる。
「パパ……いたい」
「すぐ抱える。剣を離せ」
「やだ」
アインは小さく首を振り、また魔王を見た。
魔王は立ち上がった。
斬り落とされた腕の断面から黒い糸が伸び、床や壁の影を吸い上げていく。玉座の間の光がさらに細くなり、俺の握るアストラルフレイムの炎が押し潰されるように揺れた。
「親子ごと、沈めてやる」
魔王の足元から円が広がった。
床の割れ目が赤く光り、アインの座り込んだ場所の下で石が鳴った。俺はアインの肩を掴み、引き寄せようとした。小さな体は熱を持っていて、震えが掌にそのまま伝わる。
「アイン、抱えるぞ」
「パパ、うしろ」
言われるより早く、背中に冷たいものが触れた。
振り向くと、床から伸びた黒い刃が俺の背に迫っていた。アインが俺の服を掴み、反対の手で片方の剣を持ち上げる。小さな腕では届かない。届かないはずなのに、刃の先が黒い刃に触れた。
白い火花が散った。
魔王が笑わずに腕を上げる。
玉座の間の影が、今度は一本の巨大な剣になって天井を割った。刃の下に、俺とアインの影が重なる。俺はアストラルフレイムを構え、アインを片腕で抱き寄せようとした。
アインの手が、俺の腕を押した。
小さな掌だった。血と汗で濡れて、熱く、頼りない。けれど、その掌は俺を後ろへ押し、二本の剣をまた前に出した。
「いっしょ」
アインの声が、俺の肘の下で震えた。
黒い巨大な刃が落ちてくる。
俺はアストラルフレイムを上げ、アインの二本の剣がその下に重なった。三つの刃が触れたところから白い火が生まれ、魔王の影と噛み合ったまま、俺の手の皮を焼いた。