作品タイトル不明
第170話 小さな勇者の声
黒い爪が胸の奥を掻いた瞬間、膝の骨が床へ叩きつけられ、歯の間から鉄の味があふれた。握っていたアストラルフレイムの柄が汗で滑り、白い刃に映った俺の顔は、片目だけが闇に沈んでいた。
喉の奥が塞がり、息を吸うたびに胸の内側で何かが折れる音がした。魔王の影は俺の真正面に立っているのに、声だけは頭蓋の裏側から滲み出し、ミユウの名も、アインの名も、ジュリアの名も、汚れた指で一つずつなぞるように呼んだ。
「守る? お前が?」
床に広がった黒い泥が、俺の手首にまとわりついた。振り払おうとした指が痙攣し、爪が石を削り、削れた白い粉が血に貼りつく。肺がひとつ遅れて動き、肩が跳ね、視界の端で魔王の笑みだけが裂けた。
「守ると言いながら、膝をつく。父親の顔をして、子の前から消える。勇者と呼ばれ、剣を持ち、何度も何度も同じ場所で折れる」
「黙れ……」
声を出したつもりだった。だが、喉から落ちたのは濡れた息だけで、言葉は舌の上で潰れた。
魔王の影が一歩近づいた。足音はない。けれど、床を覆う黒い泥が波打ち、俺の脇腹へ入り込むように冷たく這い上がった。傷口のない場所が焼け、骨の隙間へ細い針を押し込まれる。背中が反り、息が途切れ、アストラルフレイムの刃先が石を叩いた。
白い火花が散った。
その火花の向こうで、ミユウが手を伸ばしていた記憶が揺れた。白い羽が光を含み、指先が俺の頬に触れたときの温度だけが、今も皮膚の奥に残っている。アインの小さな手が俺の指を掴んだ感触、ジュリアが服の裾をぎゅっと握った重み。どれも、目を閉じれば戻るほど近いのに、開いた瞬間、魔王の黒い爪がそれを踏み荒らした。
「その手で何を守った? お前が剣を振るうたび、誰かが泣く。お前が立つたび、また誰かが傷つく。勇者という名で飾れば、罪は軽くなるのか?」
「違う……」
「違わない」
黒い泥が胸へ達した。心臓の鼓動に合わせて、内側から拳で殴られる。俺は片手で胸を押さえ、もう片方の手でアストラルフレイムを引き寄せた。柄に指をかけた瞬間、腕の筋肉が勝手に縮み、刃が震えた。
魔王はそれを見て笑った。
「ほら、体も拒んでいる。お前の中にあるものは、勇気ではない。恐れと執着だ。白い羽の女を失いたくない。子の泣き声を聞きたくない。ただそれだけの獣が、きれいな名を被っている」
俺の歯が鳴った。噛み締めても止まらない。顎の奥まで震え、頬の筋が引きつり、息を吸うたび胸が詰まった。視界の黒が濃くなり、魔王の輪郭が二つに割れ、また一つに戻る。
「お前は父親ではない。盾のふりをした刃だ。抱きしめる腕で、いつか壊す」
「黙れ」
今度は声になった。喉の奥が裂け、血の味が舌に広がった。
俺はアストラルフレイムを杖のように床へ突き立てた。白い炎が刃の根元から立ち上がり、指の震えを焼く。皮膚が熱を拾い、掌の血が乾き、柄に貼りついた。
魔王の笑みがわずかに細くなる。
「まだ立つのか。見苦しい」
「立つ」
膝を引き寄せた。石の床に擦れた布が裂け、膝頭に鈍い痛みが走る。足裏が黒い泥を踏み、沈みかけた。踏み抜く。泥の底にある硬い床へ踵を押しつける。脇腹がねじれ、胸の奥が跳ね、視界に白い点が散った。
立ち上がる途中で、背中から何かが刺さった。
息が止まった。
ミユウの声が聞こえた気がした。アインの泣き声が混ざった気がした。ジュリアが何かを呼んだ気がした。けれど、それは魔王の声だった。甘く、濁り、耳の内側で家族の音を真似ている。
『あなた』
俺の足が止まった。
『もういいよ』
白い手が闇の中から伸びる。ミユウの指に似ていた。似ているだけだった。爪の先が黒く濡れて、手首の向きが不自然に曲がっている。
『お願い、帰ってきて』
耳の奥が熱くなった。喉が勝手に鳴り、指が剣から離れかける。
その瞬間、俺は自分の唇を噛んだ。皮が破れ、血が舌に落ちる。味で目が戻った。ミユウはそんな声で俺を呼ばない。アインはそんなふうに俺を縛らない。ジュリアは俺の背中を闇へ押さない。
「下手だな」
俺は吐き捨て、折れかけた指で柄を握り直した。
魔王の顔から笑みが消えた。
「何がだ」
「家族の声を、汚すな」
黒い泥が一気に跳ね上がった。床から伸びた無数の腕が俺の足首、膝、腰、肩へ絡む。爪が布を裂き、皮膚に食い込み、関節を逆へ捻ろうとする。体の奥で発作がまた跳ねた。胸が締まり、喉が鳴り、目の前の魔王が歪む。
俺は前へ倒れかけた。
倒れる寸前、アストラルフレイムを床に深く突き刺した。刃が石を割り、白い炎が裂け目から漏れる。だが、炎は黒い泥に呑まれ、俺の足元でじゅうと音を立てた。
「お前は守れない」
魔王の声が近い。顔がすぐ前にある。濁った息が頬にかかり、冷たい舌で傷を舐められたような悪寒が走った。
「お前がここで足掻くほど、あの子は近づく。小さな足で、この闇へ踏み込む。泣きながら、お前の名を呼ぶ。お前のせいで」
「……」
「呼べ。助けてくれと叫べ。父親が子に縋る姿を、この闇に刻んでやる」
俺は息を吸おうとした。吸えなかった。喉が閉じ、胸の中で何かが暴れ、肋骨の内側を蹴りつける。視界が暗く縮み、音が遠ざかる。腕に力が入らない。指先が冷え、柄を握る手がゆるむ。
魔王は俺の額へ指を伸ばした。
「終わりだ」
その指が触れる前に、俺は自分の左手で魔王の手首を掴んだ。
冷たかった。骨ではない。肉でもない。濡れた影を握っているのに、爪の下へ黒い液が入り込み、皮膚の奥まで染みる。吐き気がこみ上げ、喉が震えた。
「終わらせない」
「ほう」
「外で暴れるな」
俺は魔王の手首を離さず、刃を床から引き抜いた。白い炎が細く揺れ、すぐに黒へ押し潰される。けれど、刃は残った。重い。腕が上がらない。なら、振らなければいい。
俺は刃先を自分の胸元へ向けた。
魔王の目が細まった。
「何をする」
胸の奥でまた発作が跳ねた。息が詰まり、膝が落ちかける。俺は魔王の腕を引き寄せ、自分の胸へ押し当てた。黒い泥が皮膚に染み込もうとし、心臓のすぐそばで冷たく広がる。
外へ逃がせば、ミユウへ伸びる。アインへ伸びる。ジュリアへ伸びる。誰かの足元へ、誰かの夢の中へ、誰かの白い羽へ。
なら、ここで止める。
俺の中で。
白い炎が胸の前で震えた。刃を突き立てるためではない。切るためでもない。アストラルフレイムの熱を、俺自身の血に沿わせる。魔王の黒を、外へ逃げる前に引き込む。俺の骨、俺の息、俺の傷の奥へ縫い止める。
ミユウの顔が浮かんだ。泣かせたくない顔だった。アインの小さな肩が浮かんだ。ジュリアが眠るとき、指を丸める癖が浮かんだ。全部を胸の奥へ押し込み、俺は魔王の手首をさらに強く握った。
「来い」
魔王の口元が歪んだ。
「自分の体を檻にするつもりか」
返事の代わりに、俺は一歩踏み込んだ。黒い泥が足の甲を覆い、膝まで這い上がる。熱と冷たさが同時に刺さり、体の中が引き裂かれる。歯を食いしばる。息が漏れる。喉の奥で血が泡立つ。
魔王が笑った。
「美しい犠牲だとでも思ったか。お前の中へ入れば、まずその心を食う。白い羽の女の名を、お前の口で呪わせる。子の小さな手を、お前の腕で払いのけさせる。父親の体で、父親の声で、父親の顔で、すべてを壊す」
「させない」
「できると思うのか。今も震えている。立っているだけで壊れそうな体で」
俺の肩が跳ねた。発作がまた来た。背骨の奥を黒い雷が走り、指が開きかける。魔王の腕が逃げようとする。俺は手首を掴む指を噛むように握り込み、爪を自分の掌へ食い込ませた。
痛みで指が戻る。
「俺の体だ」
「もうすぐ違う」
「俺の声だ」
「すぐに奪う」
「俺の家族だ」
魔王の目が濁った光を帯びた。黒い霧が俺の鼻と口へ入り込み、肺の奥を満たす。咳き込みたいのに、喉が動かない。胸が膨らまず、頭の奥が白く抜けた。
それでも、俺は魔王の腕を胸へ引いた。
影が皮膚を破らずに沈み始める。
冷たい。
胸の中心から背中へ、黒い杭を打ち込まれたようだった。膝が崩れ、片足が床へ落ちる。アストラルフレイムを支えにしても体が傾く。肩から力が抜け、額に汗が浮く。汗はすぐ冷え、顎から落ちた血と混ざった。
魔王の顔が近いまま、少しずつ薄くなる。
「後悔しろ」
声だけが濃くなった。
「お前の中で、ずっと囁いてやる。眠るたびに見せてやる。白い羽が折れるところを。小さな手が離れるところを。お前が間に合わないところを」
俺は奥歯を噛み、息を押し込んだ。
「見せてみろ」
「強がるな」
「全部、俺が受ける」
魔王の腕がさらに胸へ沈んだ。皮膚の下で黒が広がり、血管に沿って這う。左肩が痺れ、指先の感覚が消えた。右目の奥に刃を差し込まれたような痛みが走り、涙とも汗ともつかないものが頬を伝う。
「受ける? 違うな。お前はまた酔っている。自分だけが傷つけば済むと思っている。そうやって、残される者の顔を見ない」
「……」
魔王の言葉が胸の傷に入り込む。否定したいのに、息が続かない。ミユウの手を思い出す。アインの手を思い出す。ジュリアの手を思い出す。どれも温かかった。どれも、俺が勝手に離していいものじゃなかった。
けれど、外に残せば食われる。
俺は歯の間から息を漏らし、顔を上げた。
「見てる」
魔王の眉が動いた。
「ミユウの顔も、アインの手も、ジュリアの声も。だからここで、外へ出さない」
「できない」
「やる」
「折れる」
「折れても、噛みつく」
魔王が俺の胸の中で笑った。外に残っている顔が裂け、黒い歯が見える。嫌な音が耳の裏を擦った。
「ならば、まずはその名を呼べなくしてやる」
胸の奥で何かが握り潰された。息が完全に止まった。喉が動かない。舌が重い。ミユウ、と呼ぼうとしても、音が形にならない。アイン、と呼ぼうとしても、口が開かない。ジュリア、と呼ぼうとしても、顎が震えるだけだった。
魔王の黒が心臓の周りを締める。
俺はアストラルフレイムの柄に額を押しつけた。白い金属の熱が皮膚に触れ、焼ける匂いがした。痛みだけが、まだ俺のものだった。痛みがある限り、奪われきってはいない。
指を動かす。
動かない。
もう一度。
小指が柄に引っかかった。
「まだ、俺の手だ」
声にならない声を胸の奥で転がし、俺は剣を握った。刃の白い炎が弱く灯る。魔王の黒に押され、細く、今にも消えそうな火。けれど、その火は俺の掌を焼き、血を乾かし、指を柄へ貼りつかせた。
魔王の影が俺の胸から半分沈んだまま、顔だけを外に残していた。
「見苦しい。まだ父親の顔をするか」
俺は顎を上げた。首が軋む。視界の半分が黒く染まり、もう半分に床の白い裂け目が見える。
「する」
「誰も見ていない」
「見られるためじゃない」
「なら何のためだ」
息が細い。胸が狭い。言葉を出せば肺の奥が破れそうになる。
それでも、俺は吐いた。
「あの子たちが、帰る場所を間違えないためだ」
魔王の目が冷えた。
「帰る場所? お前自身が闇になろうとしているのに?」
黒い爪が内側から胸を引っ掻いた。俺の体が跳ね、膝が床を擦った。喉の奥で血が絡み、咳が出る。床に落ちた血へ黒い泥が寄り、すぐに呑み込んだ。
「そうだ。お前は檻ではない。入口になる。お前を通って、あの女へ、あの子へ、すべてへ届く」
「通さない」
「通る」
「通さない」
「お前の弱さを使う。眠気を使う。傷を使う。愛と呼ぶものを使う。お前が抱きしめたいと思うほど、その腕を借りて締め上げる」
俺の胃がねじれた。吐き気がこみ上げ、口の端から黒い液が垂れた。自分の中に入った闇が、もう血に触れている。肌の内側を這い、肘まで、首筋まで、こめかみまで細く伸びていく。
アストラルフレイムの白い火が揺れた。
俺は剣を握る手を胸元へ引き寄せた。刃ではなく、柄の根元に額を押し当てる。祈るためじゃない。縋るためでもない。剣の熱を、まだ俺の外にあるものとして感じるためだった。
「ミユウ」
今度は、かすかに音になった。
魔王の顔が歪む。
「呼ぶな」
「アイン」
胸の奥の黒が暴れた。心臓を掴む力が増し、目の前が白く弾ける。
「呼ぶな」
「ジュリア」
声は潰れ、血の泡に混ざった。けれど、三つの名は俺の舌を通った。奪われていない。まだ、奪われていない。
魔王が俺の胸の中で吠えた。壁も床もない場所から黒い風が吹き、俺の髪を乱し、頬の血を乾かす。石の床に刻まれた白い裂け目が一つ、また一つと黒に塗り潰されていく。
「なら、その名ごと砕く」
魔王の残った腕が俺の喉を掴んだ。外からではなく、内側から。息が止まり、首の皮膚が引きつる。俺は口を開けたまま、音のない咳をした。目の奥が熱く膨らみ、耳鳴りがひどくなる。
剣が手から落ちかけた。
床に触れる寸前、指が柄を捕まえた。爪が剥がれそうになり、掌が裂ける。血が柄に広がり、白い炎がそれを舐めた。
魔王が笑う。
「その手で抱くのか。血塗れの手で。震える手で。子の頬に触れるのか」
俺の肩が落ちた。
その言葉だけが、深く刺さった。アインの頬。ジュリアの髪。ミユウの指先。触れるたび、俺の手は本当に汚れていないのか。刃を握り続けた手で、温度を壊していないのか。
黒がそこへ入り込んでくる。
「そうだ。お前の手は刃の形を覚えている。抱きしめるより先に、斬る形を覚えている」
俺は動けなかった。発作の波が去ったあと、体の奥に重い空洞だけが残る。息が浅い。指先が冷たい。胸の黒は広がり続け、魔王の顔は薄くなっていく。沈めば沈むほど、声が近くなる。
「認めろ。お前は守る者ではない。壊す者だ」
床に落ちた血が、黒い泥の中で丸く広がった。
俺はその赤を見た。指の間から落ちたもの。剣を握った手から流れたもの。何度も何度も、倒れないために払ってきた代価。
その手で、アインの小さな手を包んだ日がある。
力を入れれば折れてしまいそうで、指一本ずつ、息を殺して触れた。ジュリアが眠りながら俺の袖を掴んで、離そうとしたら眉を寄せた夜がある。ミユウが俺の手の傷を見つけ、何も言わずに両手で覆った朝がある。
俺の手は刃の形を覚えている。
でも、それだけじゃない。
俺は柄を握ったまま、床についた左手をゆっくり開いた。血で濡れた指を、石の上へ押しつける。掌の傷が痛む。痛みの奥に、あの小さな手の重さが残っていた。
「この手で、帰る」
魔王の声が止まった。
「斬るだけじゃない。この手で、抱く。この手で、離さない。この手で、お前を閉じ込める」
黒い泥が泡立った。魔王の顔が怒りに歪み、残った腕が俺の喉をさらに締める。
「傲慢だ」
「そうだ」
「愚かだ」
「知ってる」
「なら沈め」
「お前が先だ」
俺は胸の奥へ、さらに一歩踏み込むように息を押した。体は動いていない。けれど、内側で足を出す。黒い泥の中へ、心臓の近くへ、魔王が沈もうとしている場所へ。逃げ場をふさぐ。出口を背中で塞ぐ。白い炎を細く伸ばし、血の流れに沿わせる。
魔王が暴れた。
喉が裂けるほどの咳が出た。黒い液が床に飛び、石を焼く。背中が丸まり、膝が滑り、肩が床につきかける。アストラルフレイムの刃が斜めに傾き、白い火が弱くなる。
「まだだ」
声は掠れ、ほとんど息だった。
「まだ、外へは出さない」
魔王の顔が俺の胸元から浮かび上がった。半分だけ沈み、半分だけ外に残ったその顔は、もう人の形をやめかけていた。口が裂け、目がいくつも瞬き、黒い角が霧の中で歪む。
「なら、見せてやる」
魔王の瞳が開いた。
次の瞬間、俺の足元の床が消えた。
落ちてはいない。体はまだ石の上にある。けれど、視界だけが闇の底へ引きずられた。白い羽が散る。ミユウの背中が遠い。小さな足音が途切れる。誰かが俺を呼ぶ。名を呼ぶ声が重なり、どれが本物か分からなくなる。
俺は歯を食いしばった。
本物は、温度を持っている。
魔王の声は温度がない。どれだけ似せても、指先に残らない。俺を呼ぶ声の奥に、息の揺れがない。袖を掴む重みがない。頬に触れる髪の柔らかさがない。
「偽物だ」
俺は闇の中で呟いた。
魔王が舌打ちした。
床の感触が戻る。膝の痛みも、掌の傷も、胸の冷たさも戻る。俺は倒れ込む寸前で柄を支えにし、肩で息をした。
そのとき、遠くで小さな音がした。
石を叩く、軽い足音。
俺の体が勝手にそちらへ向こうとした。魔王の黒が首を締め、動きを止める。
「来たな」
魔王の声が、湿った喜びを含んだ。
「お前が呼んだ。お前が引き寄せた。小さな足で、闇の中へ」
「来るな……」
今度は言葉になった。喉を絞られながら、俺は闇の奥へ声を投げた。
「来るな、アイン……!」
足音は止まらなかった。
軽く、乱れて、何度かつまずきかける音。五歳の足が石を蹴る音。泣き声を噛み殺しきれない息。俺の胸の黒がざわつき、魔王の顔が笑みに戻る。
「見ろ。お前のせいだ」
「違う……来るな……!」
腕が動かない。足も動かない。魔王の黒が体の内側から鎖のように絡み、俺を床へ縫い止めている。アストラルフレイムを持ち上げようとしても、刃先が震えるだけだった。
足音が近づく。
小さな影が、黒い霧の向こうで揺れた。白い羽が一瞬だけ見えた。幼い肩。細い腕。両手に握られた二本の短い剣。大きすぎる柄を、小さな指が必死に抱えている。
「アイン!」
叫んだ瞬間、胸の中の魔王が俺の声を噛み潰した。喉から血が上がり、息が詰まる。
それでも、霧の向こうの影は止まらなかった。
「パパ!」
小さな声が、黒い空気を裂いた。
アインが駆け込んできた。足元の石に片足を取られ、体が前に傾く。それでも転ばず、両手の短剣をぎゅっと握り、涙で濡れた頬のまま、俺と魔王の間へ飛び込んだ。
「パパ、やだ!」
短い剣が二つ、白い光を弾いた。刃の向きは揃っていない。握りも危うい。けれど、小さな腕は震えながら前へ出ていた。
魔王の笑みが止まった。
「……小僧」
アインは肩で息をし、短剣を胸の前で抱えるように構えた。足が震えている。唇も震えている。なのに、俺の前から退かなかった。
「パパ、いじめないで!」
魔王の黒い腕が、わずかに引いた。
その一瞬、胸の奥で締めつけていた闇が緩み、俺の指に熱が戻った。