軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第169話 黒き宝玉は勇者の胸を抉る

魔王城の門は、俺の肩に残った骨の軋みを嘲るように、背後でゆっくりと閉じた。

石と鉄の擦れる音が腹の奥まで沈み、握り直したアストラルフレイムの柄に汗がにじむ。外の光は扉の隙間で細く折れ、最後の一筋まで黒い床に吸われると、そこに残ったのは、湿った冷気と、古い血のような匂いだけだった。

俺は息を浅く吐き、足裏に絡むぬめりを踏み潰して一歩を出した。壁に埋め込まれた黒い結晶が脈打つたび、天井の梁に吊られた骨飾りがかすかに鳴り、見えない指先が首筋を撫でていくような感触が皮膚に残った。

城の内側は、外から見た輪郭よりもずっと深かった。

門を抜けた先は広間ではなく、ひび割れた回廊が幾重にも折れ曲がり、壁の奥からは水音に似た低い脈が続いていた。床石の隙間には黒い苔が詰まり、踏み込むたびに靴底へ冷たい液が染みてくる。火のない燭台だけが等間隔に並び、その受け皿には溶けた蝋ではなく、乾いた羽の欠片がこびりついていた。

アストラルフレイムの刃が、俺の右手で淡く燃えた。

炎はいつもより細く、芯を押し込められたように揺れながら、それでも俺の指の震えを包んだ。刃先を前へ向けると、回廊の奥に張りついていた闇がわずかに裂け、石壁に刻まれた無数の溝が浮かび上がる。文字ではない。爪で抉られた傷跡が、誰かの叫びを形にし損ねたまま、壁一面に広がっていた。

「……趣味が悪いな」

声に出した瞬間、天井の奥で何かが這った。

俺は刃を上げ、左足を半歩引く。黒い梁の隙間から、小さな影が三つ落ちてきた。蝙蝠より太く、獣より軽い。裂けた口から針のような歯をのぞかせ、膜の張った腕を広げて俺の顔へ飛び込んでくる。

一体目の喉に刃を合わせ、踏み込みと同時に振り抜いた。

焦げた匂いが弾け、黒い血が頬を掠める。二体目は床すれすれを這うように回り込み、俺の膝裏へ噛みつこうとした。足を引く余裕はない。俺は剣の柄を逆手に落とし、頭蓋ごと床石へ叩きつけた。骨が砕ける鈍い音の上から、三体目の爪が肩を裂いた。

「っ……!」

布が破れ、熱い線が鎖骨の下まで走る。

俺は奥歯を噛み、肩にぶら下がった影を壁へ押しつけた。翼膜が顔の横で暴れ、耳元に濡れた息がかかる。アストラルフレイムの火を短く噴かせると、そいつの胴が内側から焼け、黒い塊になって床へ落ちた。

回廊には、焦げた肉と黒苔の湿った匂いが混じった。

俺は肩に触れず、指先だけを開閉する。右腕は動く。剣も握れる。痛みは遅れて脈に乗り、ひとつ、ふたつと傷口から胸の奥へ沈んでいった。

「この程度で、止まるかよ」

言葉を落とし、前へ進む。

魔王城の通路は、まっすぐ続くことを拒むように歪んでいた。右に曲がったはずの道が、気づけば左の壁へ戻っている。階段は上へ伸びているのに、足を置くたび地下へ引かれるような重さが膝に溜まった。壁の奥では、誰かが爪を立てる音が続き、耳を澄ませると、その音の間に笑い声のような息が混じる。

俺は数えないことにした。

歩数も、傷も、残っている力も。

数えた瞬間、身体が答えを出してしまう。だから、ただ目の前の石床だけを見る。アストラルフレイムの炎が照らす幅だけを頼りに、黒い廊下を踏み抜く。

角を曲がったところで、足元の床が沈んだ。

嫌な音がする前に、俺は壁へ肩をぶつけて身体を逃がした。直後、床石の隙間から黒い槍が束になって突き上がる。頬を掠めた一本が髪を切り、耳元で硬い音を鳴らした。槍の先には肉片が乾いてこびりつき、その根元から、赤黒い煙が糸のように立っていた。

「……誘ってるってわけか」

槍の間を抜け、沈んだ床石の先へ跳ぶ。

着地した瞬間、左の壁が膨らんだ。石が皮膚のように波打ち、中から小型の悪魔が顔を出す。目は片方しかなく、口の中にさらに小さな舌が蠢いていた。そいつが鳴くより早く、俺は刃を横に走らせる。

火が壁を舐め、石に溶け込んでいた胴体が引きずり出された。

悪魔は床に落ちながら、細い爪を俺の足首へ伸ばした。踏み潰す。靴底の下で柔らかいものが破れ、黒い液が石に広がる。

だが、次の瞬間、右の燭台の影から二体目が飛び出した。

俺は上体をひねり、爪を腹の前で避ける。避けきれなかった先端が脇腹を裂き、服の下で熱が広がった。剣を振るには近すぎる。俺は肘で顎を打ち上げ、開いた喉へ刃の根元を押し込んだ。

炎が小さく爆ぜる。

悪魔の身体が黒い粉になって散り、俺のまつ毛に張りついた。

視界の端が一瞬だけ滲む。

俺は瞬きをして、粉を落とした。落ちきらないものが目の奥を焼き、涙が勝手に浮かぶ。それを拭う時間も惜しく、片目を細めたまま通路を進む。

奥へ行くほど、城は生き物に近くなった。

壁の石は硬いはずなのに、ところどころが呼吸に合わせて膨らみ、床下からは太い血管を踏んでいるような拍動が返ってくる。黒い柱には鎖が巻かれ、その鎖の先は天井ではなく、柱の中へ食い込んでいた。触れれば皮膚ごと持っていかれそうな冷たさが、少し離れた位置からでも指先に絡む。

何かが、ここで長い時間をかけて腐っている。

それでも崩れない。

腐ったまま、誰かを待っている。

「出てこいよ」

俺は剣を下げずに、息を吐いた。

「ずっと見てるんだろ」

返事はなかった。

代わりに、回廊の奥で扉が開いた。

音は遠い。だが、振動は足裏に届いた。重い扉が、俺のためだけに口を開けた。そんなふうに思わせる間が、黒い廊下の先に横たわる。

進め、と言われている。

戻れないことも知っている。

俺は左手で脇腹を押さえた。指の間にぬるい感触が滲む。押さえたところで塞がらない。けれど、呼吸を乱すほどではない。まだ歩ける。まだ剣を振れる。

その先に、広い階段があった。

石段は白く乾いた骨を敷き詰めたような色をしていた。踏むと硬い音が返る。左右の壁には窓がないのに、どこからか灰色の光が差し、階段の上だけを薄く照らしている。踊り場ごとに黒い鎧が立っていたが、中身はない。兜の内側から、赤い火だけがこちらを見下ろしていた。

一段目に足を置く。

鎧は動かない。

二段目。

火が揺れる。

三段目。

背後で、金属の軋む音が重なった。

振り返らず、俺は走った。

踵の後ろで斧が石段を砕く。白い破片がふくらはぎに刺さり、もう一つの斧が右肩の上を掠めた。俺は身を低くし、階段を三段飛ばしで駆け上がる。肺に冷気が刺さり、傷口が開く。背後の鎧は、空っぽの胴を鳴らしながら追ってきた。

踊り場で身体を反転させる。

先頭の鎧が斧を振り下ろした。俺は左へ滑り、斧が床に食い込んだ瞬間、鎧の膝へ刃を入れた。金属ではなく、濡れた骨を断つ手応えが返る。崩れた胴体を蹴り落とし、その背後の鎧へぶつける。

階段の上で、空洞の兜がぶつかり合い、火花のない金属音だけが響いた。

俺はその隙間へ飛び込み、アストラルフレイムを縦に振り下ろした。炎が鎧の胸を割り、中から黒い煙が噴き出す。煙の中で無数の歯が開き、腕へ噛みつこうとした。

「邪魔だ」

刃をねじる。

煙が裂け、鎧は階段の下へ転がった。

まだ二体残っている。

上から来る一体、下から這い上がる一体。

俺は階段の壁へ足をかけ、身体を横へ投げた。上の斧が空を切り、下の槍が俺のいた場所を貫く。宙で剣を返し、上の鎧の首を刎ねる。着地と同時に膝が沈んだ。傷口から血が押し出され、視界が白く揺れる。

下の鎧が槍を突き出した。

避けるのが遅れた。

槍の先が左腕を掠め、肉を持っていく。俺は歯を食いしばり、腕から力が抜ける前に踏み込んだ。刃を短く突き込み、兜の内側の赤い火を貫く。

鎧は膝から崩れた。

金属の塊が階段を転がり落ちる音を背中で聞きながら、俺は壁に手をついた。左腕から血が流れ、指先に力が入りにくい。手を開くと、掌に石粉がべったりとついていた。

息が荒い。

胸が上下するたび、鎖骨の下の傷と脇腹が一緒に痛む。けれど、足を止めるほどではない。止まったら、そのまま膝から沈む。沈めば、城が俺の熱を吸い尽くす。

上へ。

ただ上へ。

魔王がいる場所へ。

階段を上りきると、そこには長い廊下があった。

さっきまでの石の回廊とは違い、床は磨かれた黒い鏡のように艶を帯びている。俺の姿が足元に映る。裂けた服、血に濡れた腕、乱れた息。映った俺の影は、ほんの少し遅れて動いた。

俺は足を止めた。

影の俺が、遅れて止まる。

「……」

剣先を床へ向ける。

映った刃も、遅れて下を向く。

次の瞬間、床の中の俺が笑った。

俺は反射で刃を振り下ろした。黒い床に火が走り、鏡面が砕ける。割れ目から無数の手が伸びた。俺の足首、膝、脇腹、肩。冷たい指が傷口を探り、そこへ爪を立てる。

「ぐっ……!」

俺は剣を床に突き立て、炎を流し込んだ。

足元から火柱が低く広がり、黒い手が焼けて縮む。だが、消える直前、一本の指が左腕の傷に入り込んだ。爪が肉の内側を掻く。俺は喉を鳴らし、腕を引き抜いた。

皮膚が裂ける音がした。

血が床に落ちる。

黒い床は、それを待っていたように飲み込んだ。

廊下の奥で、笑い声が聞こえた。

今度は間違いなく、人の形をした声だった。

「やっと来たか」

低く、湿り、耳の奥を汚す声。

俺は顔を上げた。

廊下の先に、巨大な扉があった。扉の表面には、翼をもがれた者たちの彫像が浮かび、指先だけがこちらへ伸びている。中央には黒い宝石のような装飾があり、その奥で赤い光が瞬いていた。

扉は、押していないのに開いた。

中から吹き出した冷気が、俺の血の匂いを押し返す。アストラルフレイムの炎が、かすかに低くなる。刃の光が小さく揺れ、俺の指の間に冷たさが忍び込んだ。

玉座の間。

そう呼ぶしかない空間が、扉の先に広がっていた。

天井は闇に沈み、柱だけが何本も上へ伸びている。柱の表面には黒い蔓が這い、その蔓の先から、しずくがひとつずつ落ちていた。床の中央には長い赤黒い絨毯が敷かれ、両側には壊れた像が並ぶ。顔のない女、剣を折られた男、膝をついた子どもの形をした石。どれも目だけが抉られていた。

奥に、玉座があった。

玉座というより、黒い骨を積み上げた巣だった。その上に座る影は、肘掛けに頬杖をつき、俺を待っていた。

角は歪み、肩からは黒い外套のようなものが垂れている。顔の半分は影に沈み、残った口元だけが笑っていた。人の形を真似ているのに、人であろうとする気配はない。喉の奥で笑うたび、玉座の骨がわずかに震えた。

「ずいぶん傷だらけだな、勇者」

俺は返事をせず、玉座へ向けて歩いた。

一歩ごとに、絨毯が靴底へ絡む。布ではない。乾いた皮のような感触があった。足を離すたび、ぴり、と細い音が鳴る。

「門を壊し、犬どもを焼き、ここまで来た。褒めてやろうか」

魔王は指を鳴らした。

玉座の間の左右で、小型悪魔が石像の陰から這い出す。数は多くない。だが、どれも腹を床に擦りつけ、こちらの血の匂いを嗅ぎながら歯を鳴らしている。

「それとも先に泣かせてやろうか」

「黙れ」

俺は剣を構えた。

小型悪魔が一斉に跳んだ。

最初の一体を斬る。刃が薄い胴を裂き、黒い血が炎で泡立つ。二体目は左から回り込んだ。左腕は鈍い。俺は肩で受け、爪が皮膚に食い込む前に柄頭で顔面を砕いた。三体目は腹の傷を狙ってきた。狙いが正確すぎる。魔王の視線が、そこを撫でている。

俺は脇腹を庇わず、前へ出た。

爪が傷を広げる。

熱いものが腰まで落ちる。

その代わり、刃は悪魔の首を断った。

残った二体が左右に散る。俺は追わない。足元の絨毯を踏み込み、炎を床へ走らせた。赤黒い絨毯の下から火が這い、左右へ逃げた悪魔の腹を焼く。甲高い声が上がり、黒い塊がのたうった。

その声を、魔王は楽しむように聞いていた。

「いいな、その顔だ」

俺は息を整える前に玉座へ踏み込んだ。

「今のうちに笑ってろ」

刃を振る。

玉座まで届く距離ではない。だが、炎は伸びる。アストラルフレイムの火が弧を描き、魔王の胸元へ走った。

魔王は身じろぎひとつせず、指を一本立てた。

黒い壁が生まれ、炎を受け止める。火と闇が噛み合い、玉座の間に低い唸りが広がった。俺はさらに踏み込み、剣を両手で握る。左腕の傷が開く。構わない。押し切る。

炎が黒い壁を裂きかけた。

その瞬間、魔王の口元が吊り上がった。

「まだ自分の力で立っているつもりか」

黒い壁が砕け、衝撃が胸へ叩き込まれた。

俺の身体は後ろへ飛び、床を滑った。背中が石像の台座にぶつかり、肺の空気がまとめて抜ける。アストラルフレイムを離さないように握り込むと、指の関節が嫌な音を立てた。

「おまえはいつもそうだ。守ると言えば、傷を増やせば、誰かが見てくれると思っている」

魔王が玉座から立ち上がる。

足音はしない。

黒い外套の裾が床を撫で、赤黒い絨毯の上を滑るように近づいてくる。

「妻を置き、子を置き、ひとりで来た。立派な父親のつもりか。いや、違うな。おまえは見せたいだけだ。自分が壊れていくところを。そうすれば、誰かが泣いてくれる」

「……違う」

声が掠れた。

魔王は笑った。

「違う? なら、なぜ振り返らなかった。なぜ連れてこなかった。なぜ言葉を残してきた。おまえは知っているからだ。置き去りにした者の顔を見れば、ここへ来られなくなると」

俺は膝を立て、剣を杖にして起き上がる。

胸の奥が焼けている。衝撃だけじゃない。魔王の言葉が、傷口とは別の場所を指で押してくる。そこに触れさせるな。耳を貸すな。足を出せ。

「黙れって、言っただろ」

立つ。

視界が揺れる。

揺れの向こうで、魔王の手が持ち上がった。

その掌に、黒い宝玉があった。

俺の喉が止まった。

宝玉は、大きくはない。片手に収まるほどの球体だった。だが、その表面には光が映らない。玉座の間の闇よりも深い黒が、内側でゆっくり回っていた。見ていると、目ではなく、骨の隙間から覗き込まれているような感触が走る。

アストラルフレイムの炎が、ひゅ、と細く鳴った。

「覚えているか」

魔王の声が近くなった。

俺は視線を外そうとした。

外れない。

宝玉の黒が、目の裏に張りつく。

「おまえが切り捨てたものだ。おまえが見ないふりをしたものだ。剣で焼けば消えると思ったものだ」

胸の奥が、突然つかまれた。

「っ、あ……!」

空気を吸おうとして、喉が狭まる。肺が動かない。心臓が一拍だけ外れ、次の瞬間、肋骨の内側を暴れ回った。剣の柄を握る指が痺れ、視界の端に黒い粒が散る。

宝玉の中で、何かが瞬いた。

声ではない。

けれど、耳の奥に爪を立てる音がした。

俺は片膝をついた。床の冷たさが膝から突き上がり、腹の傷が熱を失う。右手で胸を押さえる。押さえたところで、内側から締め上げる力はほどけない。喉の奥が鳴り、吐き出した息に血の味が混じった。

「どうした、勇者」

魔王の足が、俺の前で止まる。

「魔王城の門は壊せたのに、自分の胸ひとつ開けられないか」

俺は剣を床に突き立て、倒れないように身体を支えた。

手首が震える。

肩が上下する。

宝玉を見ない。そう思っても、黒い球体は視界の中央に居座る。目を閉じても、まぶたの裏に同じ黒が浮かんだ。

心臓がまた跳ねた。

次の拍動が、来ない。

ほんの一瞬、身体の中から音が消えた。

そのあと、胸の奥で何かが破れるように脈が戻り、俺は床へ手をついた。爪が石を掻く。息を吸うたび、喉の内側が細い刃で削られる。唾を飲み込もうとして、血の味が広がった。

「おまえの身体は正直だな」

魔王が宝玉を俺の顔の高さへ下げる。

黒の表面に、歪んだ俺の顔が映った。頬に黒い血がつき、口の端が引きつり、目だけが宝玉に縫い止められている。映った俺の胸には、黒い亀裂のようなものが走っていた。

「剣を振るう腕より、守ると叫ぶ口より、ずっと正直だ。もう限界だと鳴いている」

「……鳴いて、なんか」

言葉の途中で、胸が締まった。

俺は咳き込み、床に赤を散らした。赤は黒い床に触れた瞬間、細い筋になって宝玉の方へ引かれていく。まるで、俺の中身が少しずつ吸い寄せられているみたいだった。

魔王の笑いが、頭上から降る。

「無理をするな。おまえはここで膝をつくために来た。家族の名を背負い、父親の顔を貼りつけ、最後はひとりで壊れる。美しいではないか」

「……勝手に、決めるな」

俺は剣を握り直した。

指先の感覚が遠い。柄の硬さが、濡れた布越しみたいに曖昧になる。膝を立てる。床が傾く。玉座の間の柱が、長く伸びたり縮んだりする。

立て。

立て。

足に命令する。

左膝が震え、右足の裏が床を掴む。剣を支えにして身体を起こそうとした瞬間、宝玉の黒が強く脈打った。

胸の内側を、冷たい手が鷲掴みにした。

俺は声にならない息を吐き、剣の柄に額をぶつけた。視界が白く弾ける。背中を汗が流れ、すぐに冷える。心臓が速くなりすぎて、ひとつひとつの拍が繋がらない。肋骨が内側から押し広げられ、喉の奥に鉄の味が上がってくる。

「その顔だ」

魔王の声が、近くで甘く腐る。

「守れなかった時の顔に似ている。届かなかった時の顔に似ている。何度剣を振っても、最後の一歩が遅れる男の顔だ」

俺は歯を食いしばった。

違うと言いたい。

けれど、息が足りない。

魔王は言葉を重ねる。刃ではなく、指先で傷口を広げるように。

「おまえの剣は誰を救った。焼いたものの灰を数えたことはあるか。踏み越えた屍に名前をつけたことはあるか。ないだろう。おまえは都合の悪いものを炎で照らし、眩しいと言って目を逸らした」

俺の右手が震えた。

アストラルフレイムの炎が、細くなる。

「違う……」

「では見ろ」

魔王が宝玉を近づけた。

黒い表面の奥で、赤い筋が一本走る。そこから、何かが覗いた。形は曖昧なのに、胸の奥だけが先に反応する。呼吸が乱れ、指先が冷える。見てはいけない。けれど、目が剥がれない。

宝玉の奥で、黒い水面が揺れた。

そこに映るものを、脳が形にする前に、身体が拒んだ。

「が、っ……!」

発作は、波ではなく、落下だった。

胸の下から床が抜け、内臓だけが先に落ちるような感覚が走る。俺は剣を離しかけ、慌てて握り直した。指が滑る。血と汗で柄が濡れている。肩が痙攣し、背中が丸まる。息を吸うと、肋骨の間に氷を差し込まれたように身体が跳ねた。

魔王の足が、俺の剣先を踏んだ。

重みが刃を床に押しつける。

「立てよ、勇者」

嘲りが、耳のすぐ横まで下りてくる。

「家族を守るのだろう。世界を救うのだろう。なら、その程度の胸の痛みで這いつくばるな」

俺は顔を上げた。

魔王の影が、視界いっぱいに広がる。宝玉の黒い光が、俺の瞳を覗き込んでいた。身体は動かない。胸の奥は握り潰され、息は浅い切れ端になって喉に引っかかる。

それでも、右手だけは柄から離さなかった。

「……俺は」

声が、床に落ちる。

魔王は笑みを深くした。

「何だ。まだ言葉が残っているのか」

俺は血の味を飲み込み、剣の柄に爪を立てた。

「……まだ、終わってない」

魔王の瞳が、細くなった。

次の瞬間、宝玉の奥で黒い渦が開いた。玉座の間の空気が一斉に吸い込まれ、柱に這う蔓が音もなく震える。俺の胸の痛みがさらに深く沈み、心臓の真下へ黒い釘を打ち込まれたような衝撃が走った。

声が出ない。

膝が床を擦る。

魔王の手が、俺の額へ向かってゆっくり伸びてきた。

指先が触れる寸前、アストラルフレイムの奥で、小さな火がひとつだけ残っていた。